劇場文化

2018年1月21日

【しんしゃく源氏物語】夢こそが現実(島内景二)

 『源氏物語』の面白さは、ライトノベルとも近い。四百人を超える登場人物たちは、そろいもそろって、性格が際立っている。つまり、極端なまでに「キャラ立ち」している。中でも、最高にキャラが立っているのが、末摘花である。「赤い鼻」と「貧困」のレッテルは、彼女のキャラを不朽のものとした。
 絶世の美貌を誇る光源氏(源氏の君)と、異貌の末摘花(姫)のカップルは、いかにもミスマッチである。しかし、処世術に乏しく、頑固一徹に信念を貫く姫の生き方は、不思議なまでに、多くの女性の心を引きつける。
 明治時代の樋口一葉も、その一人である。父親の没後は、半井桃水(なからい・とうすい)というハンサムな小説家への思いを胸に、一葉は貧しさと戦いながら、文学への夢を追った。一葉は、自分自身の生き方を、末摘花と重ね合わせていた。 続きを読む »

2017年11月7日

【変身】パフォーマーとしての語り手(粉川哲夫)

 カフカの小説には〝主人公〟が3人いる。ひとりは普通の意味での主人公、ふたり目は語り手、そして3人目は読者である。この3者がたがいの距離を微妙に変えながら展開するのがカフカの小説世界である。
 語り手が〝主人公〟である以上、この語り手は、読者にむかって客観的な報告をするとはかぎらない。通常、語り手は、〝ありのまま〟を語り、読者をからかったり、韜晦(とうかい)したりはしないことになっている。『変身』の語り手が、「朝、胸苦しい夢から目をさますと、グレゴール・ザムザは、ベッドの中で、途方もない1匹の毒虫に姿を変えてしまっていた」と語れば、読者は、それを〝事実〟として受け取る。そういう暗黙の了解が前提されている。 続きを読む »

2017年10月7日

【病は気から】演じる喜び=生きる喜び!? モリエール&シャルパンティエ『病は気から』について(秋山伸子)

 『病は気から』はモリエール最後の作品である。アルガン役を演じたモリエールは、4回目の公演を終えた後、自宅で息を引き取った。自分は病気だと信じ込む男の役を演じたモリエール自身が病に苦しんでいたという皮肉な状況にあったことが信じがたいほどに、この作品には病を跳ね返すほどの生命力が、生きる喜びがあふれている。
 モリエール作品では、多くの人物が「演じる」喜びに身を委ねる。『町人貴族』においては、貴族に憧れる主人公が自ら貴族の役を演じることで、深い満足感を得る。アルガンもまた、自ら医者に扮し、その役を演じることで病の呪縛から解放される。音楽とダンスの力がみなぎる儀式のうちにアルガンは医者の学位を授けられ、舞台全体が言い知れぬ至福感に包まれて芝居は終わる。 続きを読む »

2017年4月25日

【ふじのくに⇔せかい演劇祭2017】寄稿一覧

カテゴリー: 2017

「ふじのくに⇔せかい演劇祭2017」で上演された作品の寄稿は、
演劇祭のウェブサイトにてご覧いただけます。

※リンク先のページの「寄稿」ボタンをクリックしてください。

【アンティゴネ ~時を超える送り火~】
アンティゴネの時 (大宮勘一郎)

【MOON】
馴染む、居つく、住まう ――タニノクロウの演劇と『MOON』 (日比野啓)

【ウェルテル!】
悩みなき人? ――舞台作品『ウェルテル!』についての覚え書き (平田栄一朗)

【ダマスカス While I Was Waiting】
小さな物語と大きな物語の溝 (岡崎弘樹)

【腹話術師たち、口角泡を飛ばす】
表層の下に闇がにじんでくる 「人形劇」を遥かに超えたジゼル・ヴィエンヌの世界 (石井達朗)

【六月物語】
ピッポ・デルボーノにおける引用の意味 (芦沢みどり)

2017年2月21日

【真夏の夜の夢】『野田版 真夏の夜の夢』——「知られざる森」の「知られざる物語」(田中綾乃)

 シェイクスピアの作品は数多あれど、その中でも『真夏の夜の夢』と聞くと、心躍るものがある。第一に、タイトルにもあるように、この作品が<現実>ではなく、<夢>の物語であるということ。第二に、作品の舞台であるアテネ近郊の森で活躍する悪戯好きの妖精パックの存在。第三に、この物語が二組の男女の恋の行方を描いていること。そして、幻想的な夜の森の舞台に散りばめられた美しい詩的な台詞と共に、妖精と人間たちが織りなす真夏の夜の夢。何ともロマンティックでファンタジーに溢れている。
 この作品が執筆されたのは1590年代の半ば。17世紀を目前にしたヨーロッパでは、自然科学の発展に伴い、理性に重きを置いた近代が幕を開けようとしていた。よく言われるように、『ハムレット』(1600)には、デカルトの近代的自我を先取りした悩める主人公が登場する。“万の心を持つシェイクスピア”は、人間の心に潜む欲望や野心、嫉妬からの悲劇を描写するが、そのような中で『真夏の夜の夢』は、妖精と人間との戯れという前近代的な雰囲気を色濃く残す宮廷喜劇として描かれたのである。 続きを読む »

2017年1月22日

【冬物語】 「奇跡」の軌跡・シェイクスピアの『冬物語』

 シェイクスピアのロマンス劇とは、晩年(といっても40代)に執筆された4作品『ペリクリーズ』、『シンベリン』、『冬物語』、『テンペスト』を指すが、これらの作品は当時から「ロマンス劇」と呼ばれていたわけではない。シェイクスピアの没後1623年に出版された初のシェイクスピア全集ファースト・フォリオには、歴史劇、喜劇、悲劇の3つの区分があるのみで、『冬物語』と『テンペスト』は喜劇に、『シンベリン』は悲劇に分類されている(『ペリクリーズ』はファースト・フォリオ未収載)。1608年頃に流行した「悲喜劇」(tragicomedy:例えばボーモントとフレッチャー共作の『フィラスター』など)のスタイルでシェイクスピアが執筆したこれら4作品を、現在ではロマンス劇と称している。
 「悲喜劇」はその名の通り、喜劇的な要素と悲劇的な要素が混在した作品である。そもそも、後世の古典主義者たちから「統一を欠いている」と批判されたシェイクスピアである。喜劇に悲劇的な場面を、悲劇に喜劇的な場面を混在させるなどお手のもので、ロマンス劇にも人生を織りなす悲劇と喜劇を思う存分盛り込んでいる。ロマンス劇では家族の別離と再会、罪の赦し、奇跡などが主なモチーフとなるが、物語の展開に飛躍があり、どこかおとぎ話的で古風な印象が漂う。  続きを読む »

2016年12月1日

【サーカス物語】幼ごころの君を求めて(河邑厚徳)

 ミヒャエル・エンデの戯曲が静岡芸術劇場で公演されます。東欧の陰影が色濃い『サーカス物語』をインドネシアの鬼才がどう演出するのかワクワクします。エンデは児童文学者という先入観で見られがちですが、幅広い才能にあふれ、近代西洋思想を批判する思想家でもありました。青年時代には舞台に立ち、戯曲も書いていましたが無名でした。エンデが世に出たのは『ジムボタンの機関車大旅行』。大ベストセラーになってドイツ児童文学賞を受賞しました。その後は『モモ』や『はてしない物語』など永遠に残る傑作を書き続けてきました。児童文学と並んで、エンデの創作の大きな柱が『遺産相続ゲーム』や『ハーメルンの死の舞踏』などの戯曲でした。葬儀にはエンデの仕事を代表して、ドイツ・バイエルン地方の方言で書かれた『ゴッゴローリ伝説』が上演されています。 続きを読む »

2016年10月29日

【高き彼物】マキノノゾミの類まれなる才能に惚れ込んで(衛紀生)

 マキノノゾミの舞台を初めて観たのは1994年の近鉄小劇場でのことです。『青猫物語』です。昭和8年の築地小劇場のすぐ裏にある「青猫」というカフェを舞台に、真面目な新劇青年八起静男を軸に展開する、彼の得意分野のひとつである疾走感あふれる青春群像劇です。ロビーで現在は私の妻になっている柴田英杞からマキノを紹介されました。180センチはゆうに超える偉丈夫で、演劇人にありがちな不健康さは微塵もない押し出しにいささか気圧された記憶があります。ちなみにその時あわせて紹介されたのが、その後マキノの重要なスタッフに名を連ねる舞台美術家の奥村泰彦で、彼は翌年の第1回OMS戯曲賞受賞作である松田正隆の『坂の上の家』で卓抜な舞台をデザインして、『青猫物語』に引き続きその舞台に接して、いつかは高く評価される美術家に数えられるだろうと予感しました。閑話休題。『青猫物語』での邂逅以後、私はマキノの舞台には、演劇評論家という肩書を外して、かなり熱心な観客の一人になりました。 続きを読む »

2016年9月28日

【東海道四谷怪談】悪女、それはお岩(古井戸秀夫)

 悪女というと現在では、男を誑(たら)して手玉に取る、そんな美女のことをいう。昔からの譬えでは「外面(げめん)如菩薩(ぼさつ)、内心(ないしん)如夜叉(やしゃ)」。見た目は美しい仏さまだが、心の中は怖い鬼。小悪魔というのは、その別名である。
 ほんらいの悪女にも「外面」と「内心」があった。見た目が醜い醜女。性格が悪い女。後者はのちに、毒婦と呼ばれるようになる。
 お岩のモデルも、悪女であった。外面は生れ付きではなく、重く患った疱瘡すなわち天然痘の後遺症であった。ワクチンの種痘が普及されるまで、疱瘡は子供たちの通過儀礼。お岩はそれが遅れた。大人になってから罹患して、醜い女になったのである。 続きを読む »

2016年7月17日

【ラ・バヤデール―幻の国】バレエと小劇場運動を結ぶ――金森穣『ラ・バヤデール』の見どころ(三浦雅士)

カテゴリー: 2016

 金森穣の新作『ラ・バヤデール』は傑出した作品である。平田オリザに脚本を依頼し、SPACの俳優3名を加えて舞台化しようとしたその方針そのものが傑出していたといっていい。金森とNoismには、舞踊家としてそれだけの自信があったということなのだろうが、結果は予想をはるかに上回るものになった。振付の水準もダンサーの水準もこれまでのそれを大きく超えている。異常な成長である。
 特筆すべき点は二つ。それがそのまま最大の見どころになっているのだが、ひとつは、この「劇的舞踊」が、1960年代に登場し、日本と世界の舞台芸術に大きな影響を与えたいわゆる小劇場運動と、80年代以降、コンテンポラリー・ダンスの呼称のもとに展開してきた舞踊運動との、いわば完璧な結合以外の何ものでもないということである。小劇場運動は60年代から70年代を通じて、寺山修司、唐十郎、鈴木忠志といういわゆる御三家によって担われたが―その最大の特徴は歌と踊りと劇の結合である―、長く伏流水となっていたそのエネルギーがコンテンポラリー・ダンスの現場において突如噴出したのだ。金森にしてみれば突如などではないだろうが、小劇場運動とコンテンポラリー・ダンスの結合ということでは、前作『カルメン』を上回っている。 続きを読む »