劇場文化

2019年12月10日

【RITA&RICO(リタとリコ)~「セチュアンの善人」より~】〈善でありつつ生きる〉ことの難しさ、その今昔(萩原健)

 《RITA&RICO》は、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトの戯曲《セチュアンの善人》をもとにしている。ブレヒトは、1898年、ドイツ南部の町アウクスブルクに生まれ、ミュンヒェン大学で独文学を学んだあと、劇作家として仕事を始め、主に同市とベルリーンで1920年代に活動するが、ナチスが政権を取ると亡命。欧州諸国を転々として米国まで逃れ、戦後は東ベルリーンに劇団ベルリナー・アンサンブルを創設、それまで書きためていたものを含め、数多くの作品を上演し、1956年に没した。
 戯曲《セチュアンの善人》の成立は、1940年前後、亡命中のことで、永世中立国のスイス・ツューリヒ劇場で1943年に初演された。話の軸はおおむね次の通りである。貧困者が多く暮らす町セチュアンで、善良な主人公の娼婦シェン・テが三人の神々に宿を貸し、彼らからの返礼を資金にしてタバコ屋を開くが、周囲の人々にたかられる。シェン・テはついに冷徹な従兄弟シュイ・タに扮することで状況を打開し、さらにタバコ工場を設立して人々を雇用する。だがシュイ・タは、姿を消したシェン・テを殺めた人物だとして訴えられ、三人の神々の前での裁判に至る。ここでシェン・テは自分の正体を明かし、善でありつつ生きることの困難を訴えるが、神々は解決策を示さないまま去っていく。
 《RITA&RICO》は、こうした内容の原作から特定の場面を抜粋して構成され、台詞も一部、日本/静岡の観客に身近に感じられるように手が加えられている。そもそも主人公の名前からして、その性格を類推させる「リタ」と「リコ」に変更されている。
 ところで、素朴な疑問を抱かれないだろうか。ドイツの劇作家ブレヒトは、なぜ「セチュアン」「シェン・テ」「シュイ・タ」といった、中国風の地名や人名、そして舞台設定で戯曲を書いたのだろう?
 答えはブレヒトの歩みにある。《セチュアンの善人》の成立時期は前述の通りだが、原案はその約10年も前、亡命前の1930年代初頭にあったとされる。当時の彼やその仲間たちは、新しい社会システムである共産主義に大きな関心を寄せ、ソ連や中国の動きを注視していた。ブレヒトの興味はさらに中国哲学に及んでもいた。
 目を引くのは、1931年、ブレヒトの仕事仲間でもあったピスカートアの演出で、同時代の中国革命を扱うヴォルフ作の《タイ・ヤンは目覚める》がベルリーンで上演されていることだ。いたいけな主人公の女工タイ・ヤンが、周囲の人々との関わりを通じて革命に目覚めていく過程は、シェン・テがシュイ・タになっていくそれと、対照的でありながらどことなく重なるように思われる。ブレヒトは同作を観たか、聞き知って、自作のヒントにしていたかもしれない。
 またほどなくしてブレヒトは中国の俳優を目の当たりにしてもいる。1935年、亡命中の彼は、ピスカートアが主宰したモスクワでの演劇人会議に参加し、ここで京劇の名優・梅蘭芳(メイ・ランファン)に会って大きな影響を受け、追って論考「中国の俳優術についての注釈」を著した。いわゆる〈異化効果〉や〈叙事詩的演劇〉といったキーワードで知られる彼の演劇理論の主要テクストのひとつである。
 つまり、中国に対するブレヒトの当初の関心に加えて、多くのインスピレーションがあって《セチュアンの善人》は書かれたと考えていい。また成立までの時間は実に長く、並行して《母アンナの子連れ従軍記》や《プンティラ旦那と下男のマッティ》といった他の複数の作品も制作されていた。彼の作品の特徴ないし魅力のひとつは、こうした複数の作品の内容が互いに呼応しているように見える点にある。また多くが亡命中に書かれたためか、どの場所にも通じるような作品世界が感じ取れもする。ぜひ他の作品も参照されたい。
 さて、ブレヒトが関心を寄せた、西洋資本主義の影響に直面していた共産主義の中国は、今はむしろ国家資本主義ともいうべき体制の大国に様変わりし、西洋と対峙している。そこでは無数のシュイ・タが跋扈しているようにも見える。政治的な締めつけもあって、それこそ、善でありつつ生きることは困難なようだ。
一方、日本についてはどうだろうか。「忖度」等の圧力から、多かれ少なかれ、同じような状況がありはしないだろうか。そのような問いを、2019年の日本版《セチュアンの善人》ともいうべき《RITA&RICO》は発しているのかもしれない。

【筆者プロフィール】
萩原健 HAGIWARA Ken
明治大学国際日本学部教授(現代ドイツ演劇および関連する日本の演劇)。著書に『演出家ピスカートアの仕事 ドキュメンタリー演劇の源流』、共訳にフィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』ほか。