劇場文化

2019年2月15日

【妖怪の国の与太郎】ジャン・ランベール=ヴィルド、あるいは詩人として世界に住むこと(ポール・フランセスコーニ)

 リムーザン国立演劇センターのディレクターである前に、ジャン・ランベール=ヴィルドはまず詩人である。舞台のために、あるいは人生において詩を書きながら、世界中の夢と亡霊とを呼び覚ましながら、彼は詩とともに地球上に住み、生と死の普遍的な道を歩んでいる。
 彼はレユニオン島の出身だ。インド洋のただなかに浮かぶ旧フランス植民地で、アフリカとヨーロッパとアジアが交錯する島だ。この火山島では、いやでも自然と対話をさせられる。大文字の歴史に祝福され、今なお歴史が親密に語りかけてくる島。神聖なものと日常的なものとが絶えず対話を交わす神話に満ちた島。ランベール=ヴィルドは「レユニオン島ディアスポラ」とでもいうべき人々のうちの一人だ。彼は島の外で生きながら、自分のなかに、テクストのなかに、舞台のなかに、世界のなかに、この島を持ち込んでいく。島は世界の鼓動への耳の傾け方に影響を与えている。彼が地理的・芸術的にノマドでありつづけるのは、この出発点としての亡命があったからだ。 続きを読む »

【妖怪の国の与太郎】生まれなおす友情(平野暁人)

 翻訳家の世界には、「共訳は友情の墓場」という格言がある。
 と、断言してしまっていいのかどうかはわからないけれど、僕は幼ないころから折に触れてそう聞かされてきた。なかんずく文芸翻訳には範例も唯一解もなく、翻訳家の数だけ異なった哲学がある以上、協力してひとつの作品を訳そうとすれば必ず衝突が起こり、ときに深刻な対立へと発展して深い禍根を残すことすらある。どんなに気心の知れた大切な友人であっても、否、大切な友人であればこそ共訳者に選んではいけない……呪詛のようなこの言葉を僕は、自らが翻訳を生業にするようになってからはいよいよ家訓のごとく心得て守り抜いている。けだし、訓示とは得てして呪詛の残滓に他ならないのかもしれない。 続きを読む »

2019年1月8日

【顕れ ~女神イニイエの涙~】今なぜ「奴隷貿易」か ―レオノーラ・ミアノの『顕れ』― (元木淳子)

 カメルーン出身の女性作家レオノーラ・ミアノ(1973―)は、2005年にフランス語小説『夜の内側』でデビューして以来、精力的な活動をフランスで展開している。今回上演される『顕れ』は奴隷貿易を主題としたミアノの戯曲である。では今なぜ奴隷貿易なのだろうか。
 10世紀から15世紀にかけての中世アフリカは、世界と対等な交易関係を結んでいた。ムーサ大王のマリ王国などは豊かで安全な黄金の国として知られていた。
 だが、「大航海時代」のヨーロッパによる「新大陸発見」以来、アフリカは三角貿易に巻き込まれる。ヨーロッパからアフリカに酒や鉄砲が運ばれて奴隷と交換され、奴隷は「新大陸」のプランテーションに送られ、「新大陸」からはヨーロッパに砂糖などの換金商品が運ばれた。
 16世紀から19世紀にいたるこの三角貿易は、ヨーロッパに莫大な利益をもたらし、アフリカには甚大な被害を与えた。若い労働力が大陸から間断なく失われ、社会の平和と安全は損なわれた。航路での奴隷の死亡率は8〜25%、生きて大西洋を渡った奴隷の数は1200万〜2000万人と推定されている。
 当初、アフリカ海岸部の首長らは戦争捕虜などを奴隷商人に差し出していたが、17世紀後半以降に奴隷の需要が高まると、現地の支配者の中には奴隷狩りをして内陸へ侵攻する者も現れた。 続きを読む »

2018年11月23日

【歯車】露出する神経―芥川龍之介『歯車』について(小林敏明)

 1927年7月芥川は35歳で自殺をする。『歯車』はその直前に書かれた作品で、作家の最後の危機的な精神状態を生々しく伝えている。「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」。同様の言葉は『侏儒の言葉』にも出てくるが、この露出する神経こそが芥川を死に追いやった狂気にほかならない。
 われわれはふだん精神が意識または自覚と同一だと思い込んでいる。しかし、自覚は精神という氷山のほんの一角にすぎない。その暗部には、忘却されてもはや想い出すこともできない記憶やそれに絡みついてうごめく欲動があるからだ。精神分析はこれを「無意識(的なもの)」と呼んできた。無意識とは、文字通り意識されないものであり、ふだんは意識の深層に潜んでいるものである。それが勝手に出てきてしまっては、表層の意識は迷惑する。それなりにコントロールされ、バランスを保っている意識の秩序が乱されてしまうからである。狂気とは、精神分析的にいうと、無意識が予期せぬかたちで意識のなかに侵入してきて、後者の秩序を混乱に陥れることである。そのとき、秩序の主役たる理性や良心は失効し、ただ露出した過敏な神経だけが闇雲に動き回る。 続きを読む »

2018年10月4日

【授業】西悟志について私が知っている二、三の事柄(菅孝行)

 私が、西悟志について具体的に語れるのは、私が審査員をしていた時期の利賀演出家コンクールでの記憶がほとんどである。西悟志という<才能>と出会ったと言えるのは、2002年、第3回の課題戯曲イヨネスコ作『二人で狂う…好きなだけ』の舞台だった。西はこの年、優秀演出家賞を久世直之と分け合っている。コンクールへの参加は3度目だった。まだ東大生だった西たちのグループは、1度目はアラバールの『戦場のピクニック』、2度目は三島由紀夫の『卒塔婆小町』で参加した。この2度の機会では、才能は未だ2分咲きか、3分咲きの、しかし<恐るべき子どもアンファン・テリブル>のオーラがあった。
 演劇評論家の故森秀男は第1回コンクールの総評(演劇人会議機関誌『演劇人』6号)で、西の『戦場のピクニック』を「はじめから『作り物の戦争』という枠組みを設けたが、ザボを女優に演じさせ、終景のダンスをザボとゼボの結婚式に仕立てたのが面白かった」と評価している。また、『卒塔婆小町』について第2回の総評座談会(鈴木忠志・森秀男・山村武善・越光照文・宮城聰、菅、『演劇人』8号)で、当時ク・ナウカを主宰していた現SPAC芸術総監督宮城聰が「三島由紀夫がこだわった……『愛の不可能性』『愛の永遠性』について、ともかくそこだけに狙いを定めて斬り込んだ……のが西君だけだったのではないかと思っています。……西君の『狂気』がかすかながらそこから出た……と感じられたので、僕はそこを評価したい」と述べている。 続きを読む »

2018年7月16日

【ROMEO&JULIETS】劇的舞踊・新作~『ROMEO&JULIETS』に向けて(立木燁子)

カテゴリー: 2018

 日本初の公立劇場専属舞踊団として意欲的な活動を続ける新潟市りゅーとぴあNoism1。芸術監督の金森穣は、現代バレエの巨匠モーリス・ベジャールの下で学び、その後イリ・キリアン率いるNDTやフランスのリヨン国立バレエ団などヨーロッパの名門で活躍をしてきた舞踊界の俊英である。バレエとコンテンポラリー・ダンスを見据えた広い視野で総合芸術としてのダンスの可能性を探ってきた。洗練された作風で高い評価を受けてきたが、ここ数年、抽象性へ偏りがちのコンテンポラリー・ダンスの風潮に一石を投ずるかの如く、演劇とダンスの境界を越えた新たな挑戦を続けている。
 2010年から継続的に発表している劇的舞踊シリーズ。物語の筋を描くのではなく、「劇的」とは何かという舞台芸術の原点に光をあて、物語の底に潜む“劇的なるもの”の本質に迫ろうとする。舞踊一筋に、恵まれた環境でダンスの王道を歩いてきた金森が演劇表現へと関心を深めるのには一つの刺激的な出会いがあった。日本に本格的に帰国し、りゅーとぴあの芸術監督(舞踊部門)に就任した時期、鈴木忠志の舞台と演劇理論に出会い触発を受けたのだ。日本の現代演劇を牽引してきた鈴木の演劇理論と俳優訓練法―西洋の舞踊理論とは異なり、重心を低くとり、足裏で床面を捉えてすり足で移動するスズキメソッドにも興味を抱いた。鈴木の代表作のひとつに、テキスト中心の従来の演劇に異を唱えた『劇的なるものをめぐってⅡ――白石加代子ショウ』(1970)がある。演劇の現場性=俳優の肉体すなわち身体性を強調し、多様な言葉と対峙させた鈴木の演劇に共鳴するものを覚えた。「今・ここ」で生成される舞踊という磁場に、奥行を生み出す言葉と身体を多義的、重層的に交錯させることでスケールの大きな世界を開示することができるのではないかと考えたのだ。 続きを読む »

2018年6月1日

【ふじのくに⇔せかい演劇祭2018】寄稿一覧

カテゴリー: 2018

「ふじのくに⇔せかい演劇祭2018」で上演された作品の寄稿は、
演劇祭のウェブサイトにてご覧いただけます。

※リンク先のページの「寄稿」ボタンをクリックしてください。

【マハーバーラタ ~ナラ王の冒険~】
『マハーバーラタ』空間から場所へ (四方田犬彦)

【寿歌】
瓦礫の荒野と蛍の光 ――北村想『寿歌』における聖性 (安住恭子)

【民衆の敵】
オスターマイアーの仕掛けたもの (新野守広)

【夢と錯乱】
ゲオルク・トラークルの散文詩「夢と錯乱」について (中村朝子)

【リチャード三世 ~道化たちの醒めない悪夢~】
道化師断章 (大島幹雄)

【シミュレイクラム/私の幻影】
異文化の出合うところにたち顕れる世界 (山野博大)

【ジャック・チャールズvs王冠】
ジャック・チャールズが体現するもの (佐和田敬司)

【大女優になるのに必要なのは偉大な台本と成功する意志だけ】
見られていなくても踊ることをやめない (神里雄大)

2018年2月21日

【オセロー ~夢幻の愛~】演劇の地平――世阿弥からの挑戦(竹内晶子)

 「能って何?」――この問に、端的に答えればこうなります。「中世日本に生まれ、現代まで続く歌舞劇である」、と。
 もう少し言葉を尽くすなら、こうも付け加えられるでしょう。「西洋演劇の常識を、平気な顔でくつがえしてしまう演劇形態」、と。
 たとえば、キャラクターの台詞のみからなるもの…という西洋演劇の定義に反して、能は、「とて失せにけり(と言って消えてしまった)」などのナレーションまで舞台で発してしまいます。さらに能では、一人のキャラクターの台詞が、そのキャラクターを演じる役者だけでなく、地謡や、ときには別のキャラクターを演じる役者の口からも発せられます。そもそも地謡という合唱隊自体が、複数のキャラクターの台詞を発するものですし、加えてナレーションまでも担当してしまう。その結果、「誰のセリフなのか特定できない」言葉、「一つの身体に還元できない言葉」が、能においては往々にして現れます。 続きを読む »

2018年1月21日

【しんしゃく源氏物語】夢こそが現実(島内景二)

 『源氏物語』の面白さは、ライトノベルとも近い。四百人を超える登場人物たちは、そろいもそろって、性格が際立っている。つまり、極端なまでに「キャラ立ち」している。中でも、最高にキャラが立っているのが、末摘花である。「赤い鼻」と「貧困」のレッテルは、彼女のキャラを不朽のものとした。
 絶世の美貌を誇る光源氏(源氏の君)と、異貌の末摘花(姫)のカップルは、いかにもミスマッチである。しかし、処世術に乏しく、頑固一徹に信念を貫く姫の生き方は、不思議なまでに、多くの女性の心を引きつける。
 明治時代の樋口一葉も、その一人である。父親の没後は、半井桃水(なからい・とうすい)というハンサムな小説家への思いを胸に、一葉は貧しさと戦いながら、文学への夢を追った。一葉は、自分自身の生き方を、末摘花と重ね合わせていた。 続きを読む »

2017年11月7日

【変身】パフォーマーとしての語り手(粉川哲夫)

 カフカの小説には〝主人公〟が3人いる。ひとりは普通の意味での主人公、ふたり目は語り手、そして3人目は読者である。この3者がたがいの距離を微妙に変えながら展開するのがカフカの小説世界である。
 語り手が〝主人公〟である以上、この語り手は、読者にむかって客観的な報告をするとはかぎらない。通常、語り手は、〝ありのまま〟を語り、読者をからかったり、韜晦(とうかい)したりはしないことになっている。『変身』の語り手が、「朝、胸苦しい夢から目をさますと、グレゴール・ザムザは、ベッドの中で、途方もない1匹の毒虫に姿を変えてしまっていた」と語れば、読者は、それを〝事実〟として受け取る。そういう暗黙の了解が前提されている。 続きを読む »