『源氏物語』の面白さは、ライトノベルとも近い。四百人を超える登場人物たちは、そろいもそろって、性格が際立っている。つまり、極端なまでに「キャラ立ち」している。中でも、最高にキャラが立っているのが、末摘花である。「赤い鼻」と「貧困」のレッテルは、彼女のキャラを不朽のものとした。
絶世の美貌を誇る光源氏(源氏の君)と、異貌の末摘花(姫)のカップルは、いかにもミスマッチである。しかし、処世術に乏しく、頑固一徹に信念を貫く姫の生き方は、不思議なまでに、多くの女性の心を引きつける。
明治時代の樋口一葉も、その一人である。父親の没後は、半井桃水(なからい・とうすい)というハンサムな小説家への思いを胸に、一葉は貧しさと戦いながら、文学への夢を追った。一葉は、自分自身の生き方を、末摘花と重ね合わせていた。
今、私は「夢」という言葉を使った。榊原政常の『しんしゃく源氏物語』は、古代から現代まで、女性たちが心の中で生み育ててきた「夢」のさまざまを、この戯曲の中で浮かび上がらせた。ところが、彼女たちの「夢」をふくらませる核となる、源氏の君は、舞台には姿を見せない。
鳥の鳴き声が不気味な、荒れはてた大邸宅で、乳母の少将、その娘の侍従、ベテラン女房の宰相、若い女房の右近・左近たちと、姫は暮らしている。ことあるごとに、母方の叔母が嫌がらせのように現れては、金回りの良さを見せつける。
彼女たちは、それぞれの夢を大切に育てている。夢の種を発芽させ、生育させるのが、「源氏の君の長すぎる不在」である。女たちは、源氏の君の訪れを待ちわびている。待ちながら、昼も夜も育ちつつある自分の夢を、観察している。夢を通して、「本当の自分」もまた、発見できるからだ。
貧しくても誇り高く生きる姫を守るはずの源氏の君は、足かけ三年も、遠い須磨・明石の地をさすらった。やっと都に戻ってきたものの、半年以上も姫を訪ねてくれない。
人間は、自分の生きる世界が過酷であればあるほど、運命がつらければつらいほど、強固でピュアな夢を紡ぎ上げる。『しんしゃく源氏物語』は、源氏の君と姫が再会する直前の場面で、終わっている。ここから先は、逆境でなくなる。すると、夢が夢でなくなってしまうからだろう。
「愛」の奇跡を夢見る姫。「源氏の君に愛される姫に仕える」という夢にすがる女房たち。金銭的な欲望を充足させる生き方を夢見る、姫の叔母。その中で、若い侍従が、きっぱりと、「私には私の、別の夢がありますもの」と語り、夢をかなえた姫たちと別れ、九州へ旅立つ姿には、感動すら覚える。
夢をかなえ、夢が現実のものとなった姫も、半信半疑である。「もし、夢が夢のまま、いつまでもあったら、うちたち皆、どないなるのやろねえ……」という姫の言葉が、胸にしみる。実は、この時、観客一人一人の心の中に、「夢」の種が蒔かれるのだ。
姫も女房たちも、即物的な叔母までも、人間たちは「夢」を糧として、生きるのが苦しい世界に耐えてきた。永遠に来ないかもしれない源氏の君も、夢の力にすがれば、待つこともできた。待つことが、女たちの夢を開花させ、結実させるのに必要な行為だった。つまり、「源氏の君」とは、夢見る女たちの作り上げた夢であり、幻だった。
源氏の君と再会を果たした姫たちは、これからは夢なしでも生きてゆけるのだろうか。夢は、その役割を終えたのだろうか。この場面で、「うちは、源氏の君に逢いとうない。お帰りいただきなはれ」と、姫が口にする選択肢も、ありえたのではないか。そう感じた観客は、三島由紀夫の戯曲『サド侯爵夫人』を、読んでいただきたい。
ところで、SPACの『しんしゃく源氏物語』の舞台は、外界が二階で、姫たちの世界が一階になっている。『落窪物語』のヒロインのように、姫たちは外界から閉じられ、落ちくぼんだ「繭」の中で暮らしている。この設定には、はっとさせられる。舞台を見ているうちに、この夢の繭の中の世界こそが、女たちの生きる現実で、源氏の君たちの生きる二階の世界のほうが、女たちによって夢見られた虚構の世界であるとも思えてくる。
私は、SPACで2010年に上演された舞台の記録映像を観て、紫式部が千年前に書いた『源氏物語』が、虚構の物語ではなく、確かな「現実」であることを実感した。『しんしゃく源氏物語』は、夢見る力を現代人にしっかりと手渡してくれる。
【筆者プロフィール】
島内景二 SHIMAUCHI Keiji
国文学者。電気通信大学教授。『源氏物語』・短歌・歴史時代小説から見た日本文化論を展開。著書に『源氏物語に学ぶ十三の知恵』『源氏物語ものがたり』『大和魂の精神史』『塚本邦雄』など。