私が、西悟志について具体的に語れるのは、私が審査員をしていた時期の利賀演出家コンクールでの記憶がほとんどである。西悟志という<才能>と出会ったと言えるのは、2002年、第3回の課題戯曲イヨネスコ作『二人で狂う…好きなだけ』の舞台だった。西はこの年、優秀演出家賞を久世直之と分け合っている。コンクールへの参加は3度目だった。まだ東大生だった西たちのグループは、1度目はアラバールの『戦場のピクニック』、2度目は三島由紀夫の『卒塔婆小町』で参加した。この2度の機会では、才能は未だ2分咲きか、3分咲きの、しかし<恐るべき子ども>のオーラがあった。
演劇評論家の故森秀男は第1回コンクールの総評(演劇人会議機関誌『演劇人』6号)で、西の『戦場のピクニック』を「はじめから『作り物の戦争』という枠組みを設けたが、ザボを女優に演じさせ、終景のダンスをザボとゼボの結婚式に仕立てたのが面白かった」と評価している。また、『卒塔婆小町』について第2回の総評座談会(鈴木忠志・森秀男・山村武善・越光照文・宮城聰、菅、『演劇人』8号)で、当時ク・ナウカを主宰していた現SPAC芸術総監督宮城聰が「三島由紀夫がこだわった……『愛の不可能性』『愛の永遠性』について、ともかくそこだけに狙いを定めて斬り込んだ……のが西君だけだったのではないかと思っています。……西君の『狂気』がかすかながらそこから出た……と感じられたので、僕はそこを評価したい」と述べている。
3回目、審査員たちの、期待と不安の眼差しのもとに、西の『二人で狂う』は登場する。舞台は、17年間、終わった筈の戦争の始末ができなくて、ずっと銃火が飛び交っている世界の片隅で、男女2人が、やはり17年間、限りなく埒もないことで、姦しく、けたたましく、不毛で荒涼としていて、そのくせどこか笑える罵り合いを続ける。西悟志の演出は、そのペーソスが入り混じった滑稽な罵り合いの速度を倍加させ、台詞と動きをリバースしてまた反復したり、日常会話としての台詞や身振りの意味を粉々に脱臼させようとした。この加速と逆回と反復は、二人の<痴話喧嘩>を、閉塞した時空のなかで、どうしても届かない<外部>にむかってのたうち回る姿として現出させるための方法だった。
審査の議論(鈴木忠志・森秀男・山村武善・越光照文・宮城聰・原田一樹・菅、『演劇人』11号)の中で、当時のSPAC芸術総監督鈴木忠志は、西がこの舞台で「非常に知的な操作をやった」と評価し、それは長い稽古を必要とする作業で、それによって「稽古の過程で発見された……解釈が、肉体を通して実体化されるという段階へ到達」できたのだと述べている。
また当時SPACの芸術局長だった山村武善は、『二人で狂う』という戯曲では、17年間暮らしてきた夫婦の「どのようにもなれる可能性を持っていたのに、このようにしかならなかった」という「相対的現実の絶対性」の前で、言語のぶつかり合いを舞台の上に出現させなくてはならず、それは「『外部』とはどこか遠くにあるのではなく、意味もなく舞い込んできた手榴弾と同じように、ほかならぬここにゴロリとある」ことを提示することだと述べた上で、唯一「この感覚を……垣間見ることができた」のが、西悟志の舞台だったと評価した。
この時期、「日本・ロシア若手演出家交流プログラム」が行われていて、2002年には久世直之演出の『お国と五平』が、2003年には西悟志演出の『二人で狂う』が、この企画の一環としてモスクワのメイエルホリド・シアターセンターで上演された。私は、『二人で狂う』が上演されたときに随行した。1年を経て舞台は密度を上げ、洗練されたものになった。当時の日記に私は出演した俳優についても「神谷、吉村、進境著しい」などとメモしている。
西悟志を中心とした演劇集団は、当然、この延長で、更なる飛躍を遂げてゆくものと、この間のプロセスに同伴した者たちは誰しもが考えた。しかし、2005年、彼らの集団小鳥クロックワークが解散したという風聞に接した。以後、演出家西悟志の消息を聞かなくなる。近年になって、再起の噂は聞いたが、残念ながら舞台を見ていない。
このたびSPACでその西悟志が演出するという。演出家コンクール受賞作と同じ作家イヨネスコの『授業』だという。西ももはや四十路半ばである。どんな成熟した姿を見せてくれるのか。それとも、10数年前にそうであったように永遠の<恐るべき子ども>として再登場するのか。どちらであってもいいように私には思える。
【筆者プロフィール】
菅 孝行 KAN Takayuki
1939年生まれ、元SPAC文芸部(2003~10)。演劇人会議評議員。著書に『死せる「芸術」=「新劇」に寄す』『解体する演劇』『戦後演劇』『想像力の社会史』『戦う演劇人』。編著に『佐野碩 人と仕事』。