劇場文化

2018年11月23日

【歯車】露出する神経―芥川龍之介『歯車』について(小林敏明)

 1927年7月芥川は35歳で自殺をする。『歯車』はその直前に書かれた作品で、作家の最後の危機的な精神状態を生々しく伝えている。「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」。同様の言葉は『侏儒の言葉』にも出てくるが、この露出する神経こそが芥川を死に追いやった狂気にほかならない。
 われわれはふだん精神が意識または自覚と同一だと思い込んでいる。しかし、自覚は精神という氷山のほんの一角にすぎない。その暗部には、忘却されてもはや想い出すこともできない記憶やそれに絡みついてうごめく欲動があるからだ。精神分析はこれを「無意識(的なもの)」と呼んできた。無意識とは、文字通り意識されないものであり、ふだんは意識の深層に潜んでいるものである。それが勝手に出てきてしまっては、表層の意識は迷惑する。それなりにコントロールされ、バランスを保っている意識の秩序が乱されてしまうからである。狂気とは、精神分析的にいうと、無意識が予期せぬかたちで意識のなかに侵入してきて、後者の秩序を混乱に陥れることである。そのとき、秩序の主役たる理性や良心は失効し、ただ露出した過敏な神経だけが闇雲に動き回る。
 ひとたびレエン・コオトを着た幽霊の話を耳にすれば、以後やたらとレエン・コオトが気になる。しかもそれにはつねに不吉な死がつきまとう。レエン・コオトが不安の前景に出ているとするなら、後景で不断に不吉な連想を呼び起こしているのが松林である。レエン・コオトと松、それはすべての表象を死に向けて収束させようとする不気味な根本気分の象徴である。
 ドイツ語で不気味のことをunheimlichというが、これは文字通りには、Heim(家)ではないこと、つまり我が家にいるようなくつろぎが得られない不安定な心的状態を表わす言葉である。普通なら、慣れ親しんだものたちに取り巻かれて安息できるはずの意識の世界がかき乱されて、事象のことごとくが不安をかきたてるもととなるのである。
 この状態では、言葉はまっとうなシニフィエ(意味)との結合を失い、表記のみが浮上してきて勝手に他の言葉と結びついたりする。「All right」の言葉を聞くと、その音が耳から離れない。ビルの出口ですれちがった男の「イライラしてね」という言葉が気になって「イライラ」という言葉が本人の意思を無視して「tantalizing(じらす)」「Tantalus(タンタロス)」「Inferno(地獄)」へと自動症的に横ずれしていってしまう。電話から「モオル」と聞こえてくると、そこから連想は「Mole(モグラ)」「la mort(死)」へと延びていく。こうした一連の狂気による「シニフィアン(表記)の戯れ」をもっとも象徴しているのはウィスキーの名前「Black and White」に発する一連の連想である。ある日作家はインクを買いに出て、往来でストリントベルクという名のスウェーデン人の狂人に出会う。

 この往来は僅かに二三町だった。が、この二三町を通るうちにちょうど半面だけ黒い犬は四度も僕の側を通って行った。僕は横町を曲りながら、ブラック・アンド・ホワイトのウイスキイを思い出した。のみならず今のストリントベルクのタイも黒と白だったのを思い出した。それは僕にはどうしても偶然であるとは考えられなかった。

「偶然」が偶然とは考えられなくなるということは、裏を返せば、そこに「必然」的な結びつきが生じていると考えることである。精神科医ならこのような無関係なものの結合を敏感関係妄想と呼ぶだろう。気になるのは、芥川の場合、これらの一連の妄想がことごとく「死」の表象につながっていることである。引用の「黒と白」も「葬儀」につながる言葉である。
 この作品を貫いているのは死の恐怖である。より正確には、狂死することへの怖れである。「僕の母は狂人だった」。芥川は同じ時期のエッセイの冒頭にそう書き記した。そのエッセイは『点鬼簿』と題され、3人の死んだ肉親のことが語られているが、とりわけ実母の狂死は作家にとって宿命的なトラウマであった。いまや無意識のなかに隠蔽されてきた記憶が露出してきて、安息を脅かされるどころか、死への誘惑となって作家に襲いかかっているのである。それが遺伝性の病によるものか、薬物による触発によるものか、あるいはそれらの結合によるものか、専門家の見立てはいろいろだろうが、ここに芥川の歴とした実存的苦悩があったことだけは間違いない。
 本来無意識の露出である狂気を意識的に演じる。さて、俳優はこの意識と無意識のディアレクティクあるいは彼此の往還をどのように表現してみせるのか。観客の関心はそんなところにも向くことだろう。

【筆者プロフィール】
小林敏明 KOBAYASHI Toshiaki
ライプツィヒ大学教授 哲学、精神病理学専攻。近著に『夏目漱石と西田幾多郎』(岩波新書)『憂鬱なる漱石』(せりか書房)など。現在『文學界』に文芸評論「故郷喪失の時代」を連載中。