劇場文化

2019年6月1日

【イナバとナバホの白兎】『古事記』の「稲葉の白兎」挿話における八十神の身分をめぐって(イグナシオ・キロス)

カテゴリー: 2019

 大学時代から上代の『記紀』の文章に興味を持ち続けた私は、『古事記』の「稲葉の白兎」という、比較的有名な神話を考察する機会が何度もあった。しかし、主観的な印象にすぎないだろうが、この物語にはさまざまな謎や理不尽なことが多いため、深く取り組んだことはなかった。まずこの神話が『日本書記』や『風土記』には見られないことをいつも不思議に思っており、また兄弟の八十神に袋を背負わされた、白兎を助けた大穴牟遅神と、その後の「国作り」を行った大国主神とは、同じ神であるはずだが、その間には奇妙な存在としての隔たりを感じ、ひょっとしたらこの挿話がどこかから『古事記』に強引に挿入されたものなのではないかと思うこともあった。もちろんこれらの点に関しては、以前から神話学や人類学などの視点からさまざまな説があり、まさに難題である。しかし、レヴィ=ストロースによれば、大穴牟遅神とその兄弟との間に起きた対立は、多少の相違点もあるが、普遍的な神話に当たるものであるため、方法論上、特別な意味を考える必要がないであろう(1)、と言われており、私はその論を読んで以来、その挿話に対する興味が薄くなってきていた。
 しかし、ここ数年、『記紀』の諸記述における「コト」という語の意味を考察するという博士論文のテーマに取り組んだことをきっかけに、改めて「稲葉の白兎」についても考える機会を得た。普遍的な神話に属する物語なのかどうか、という問題はともかくとして、言語学的に原文そのものを分析すれば、その物語における日本的な特徴を掘り出すことができるだろうと思えるようになった。なぜなら、そこには私が対象とした「コト」という語の特殊な例文が見つかるからである。というのは、物語によれば、大穴牟遅神に助けられた白兎が、彼に「八十神は八上比売とは決して結婚しない。あなたがその姫を得るでしょう」と予言し、その直後に、八上比売が、八十神の求婚を拒否して、彼らの弟である大穴牟遅神に嫁ごうとする、という、予言のとおりの結果となった、とする個所があるからである。それに対して、八十神が怒り、弟の大穴牟遅神を殺そうとはかりごとをめぐらす、というように物語が進んでいくが、上の時点における、姫の発言を分析すると、八十神が妙な表現で拒絶されたことに気付かされる。原文の書き下しは「吾(あれ)は汝等(いましたち)の言(こと)を聞かじ」となっており、それは確かに「私はあなたたちの言葉(言うこと)を聞かない」という単純な意味であるが、その文には尊敬語の印は一つもないということが奇妙である。なぜそう思われるかというと、白兎は大穴牟遅神に自分が傷を負ったいきさつを語っている間、八十神に対して「命以(みこともち)」という、著しく高い身分を指す言葉を用いるからである。もちろん、兎は、八十神に対して身分の低いものであろうが(2)、フランス語の拙論『上代日本における「コト」概念の意味と機能』で述べたように、「命以」(「お言葉」あるいは「ご命令」)という語は『古事記』の神代に限定されているだけでなく、イザナキ、イザナミ、アマテラスなどの「天津神」からの大事な命令を指すという、非常に限られた場合にしか見られない語である。したがって、その「命以」という語により、八十神が極めて身分の高い神であると思わされた読者は、その後、同じ八十神が八上比売に「汝等」(「あなたたち」もしくは「お前たち」)と呼ばれた記述を読むと、違和感を感じるのが当然である。その上、姫が言う「言」という語も、高くても平等な関係までしか指せなく(3)、この文脈においては相当に不敬な言葉であるように思われる。『古事記』における八上比売の記述があまりにも乏しいため、その姫の身分を推し計ることは難しいが、「稲葉の八上比売」というので、せいぜい「国津神」という程度としか位置づけられないだろう。にもかかわらず、「天津神」と同等の身分であるはずの八十神に対して「お前たちの言葉は聞かない」と言っているように考えられるのである。それはただ求婚相手としての八十神への軽蔑を表わすのか、あるいは八十神の身分に関して何かより深い意味があるのだろうか。普遍的な神話に属する挿話だとしても、『古事記』全体で身分の上下関係の言葉が極めて細かく使いわけられていることを考えるなら、八上比売のこの不敬な言葉遣いは偶然なものではないに違いない。しかし、本当の原因は今のところは不明であると言うほかない。これはまた、八十神は身分的にどのような存在であるか、という問題を考えるためにもより深く研究する必要がある。
 結局は、博士論文をきっかけに再読したこの挿話の謎を解いたどころか、皮肉なことにその謎を増やしてしまった結果になった気がする。それでも、謎を考えることには興味が尽きない。今後もこの研究を続けたいと思う。

(1) Lévi-Strauss, Claude, Lʼautre face de la lune. Écrits sur le Japon (ouvrage posthume), Paris, Le Seuil, 2011, p. 84.
(2) 八十神に奴隷の境遇にされた大穴牟遅神に対しても、白兎は「汝(いましみこと、または、ながみこと)」を用いる。
(3) たとえば国譲りの挿話では、タケノミナカタの神が、父の言葉を指すとき、「命」を、そして兄弟の場合には「言」を用いる。

【筆者プロフィール】
イグナシオ・キロス Ignacio QUIROS
スペイン生まれ。横浜市立大学・静岡県立大学非常勤講師。國學院大學古事記学センターの客員研究員。専門:上代文学、スペイン語教育。通訳としても活動(日本語、フランス語、英語)。2016年パリEPHE(現在PSL)大学東洋学部博士課程修了。博士論文の『上代日本における「コト」概念の意味と機能』により2017年フランス日本研究学会(SFEJ)の「Okamatsu Yoshihisa賞」受賞。