「ドラマトゥルク取材日記」では、
『グスコーブドリの伝記』でドラマトゥルクを担当するライターの西川泰功が、
宮沢賢治にまつわるネタを紹介していきます。
第6回は、鑑賞事業公演の初日を終えて、作品の秘密に迫るレポートです!
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幕が開いた。緊張感にぴんとはった無数の視線が、舞台めがけて飛んでいる。2015年1月13日、鑑賞事業公演の初日は、清水第七中学校2年生、富士特別支援学校高等部1年生、南伊豆東中学校1年生の観劇。果たしてSPAC版『グスコーブドリの伝記』を楽しんでくれるだろうか。原作の脚本化の段階から見守ってきた者として、鼓動が高鳴る瞬間である。
思えば演出家・宮城聰氏と脚本担当の小説家・山崎ナオコーラ氏の最初の具体的な打合せは、『マハーバーラタ』神奈川芸術劇場公演の千秋楽だった。そこで熱っぽく語られた宮城氏の戯曲論に、インタビュー等ですでに何度もお話を伺ったことのあるぼくは、「お、始まったぞ、宮城聰の演劇学校!」と思って、黙って聞いていた記憶がある。山崎氏はきっと初めは少しビックリしながら、次第に演出家の語りに夢中になっていたと思う。
その時、宮城氏は、戯曲の言葉について分析を展開したのだが、まだ頭の中は『マハーバーラタ』のことでいっぱいだったのだろう、話に出てくる例も同作だった。『マハーバーラタ』を観劇してぼくがその日気づいたのは、何度も同じ語りが繰り返されるという構造についてだ。ナラ王とダマヤンティ姫の多難な境遇が、様々な登場人物によって何度も語られる。けれどそれが少しも気にならない。確か少しそんな話をした。
反復。これは演劇のひとつの秘密かもしれない。舞台は生もの、お客さんとの一回限りの出会い、とよく言うけれど、上演自体は何度も反復される。そこにはおそらく、演劇が共同体の儀礼であった頃からの、根深い習慣がある。単に興行期間の問題ではない。もっと深いところで、演劇の根本を支えている、物語の手続き。反復によって、演劇は物語になり、幸福な場合、歴史になる。
『マハーバーラタ』の執拗に繰り返される語りは、演劇の本質に直結していた。そんなテツガク的な考察など何のその、あの時、演出家は、実際の舞台効果を説明したのだった。いわく「大切なことほど何度も語ることが必要だ。特に、理解してもらわないと、お客さんが物語についていけない状況をつくってしまう台詞は…」。演出家の言葉は、効果について最も研ぎ澄まされている。
グスコーブドリのグの字も出ない最初の打合せを経て、山崎氏から出てきた脚本を読んで驚いた。効果的な反復が、随所に散りばめられていたからだ。反復は、台詞の意味内容だけでない。語感や音列、比喩の構造に至るまで、豊かに書き込まれている。蘭のスープ、ネリの泣き声、火山の噴火音、ユリに似たクラレという花…詳しくは観劇のお楽しみだが、あげればキリがないほどだ。
鑑賞事業公演初日の前日、2015年1月12日、ゲネプロ。脚本に埋め込まれた数々の反復が活かされていることを確認する。注意深く見ていると、反復を読み取った俳優の語り、音楽による肉づけ、抽象化された舞台美術や小道具、存在感を引き立てる照明の陰翳と、有機的につらなった、舞台効果の“思考回路”を発見し、作品という大きな構築物の隠されたファサードが一瞬光るような気がする。
↑ ゲネプロ舞台写真(撮影:日置真光)
こんなことも思う。この作品は、観客の想像力を、作品の外側から呼び込むような、見えない穴を持っている。その穴から作品の内部へ、大きな気息が吹き込んでくるようだ。フォルマリズムの継承者のように、芸術の自律を志向してきたように見える宮城氏のこれまでの演出作とは、もしかしたらずいぶん違う可能性をはらんでいるかもしれない。なぜそう感じるのかはまだわからないのだが…。
気がかりもある。中学高校生に、わずか27年のグスコーブドリの人生の儚さと、それだけに率直な悲哀に満ちた意志が伝わるだろうか…。
鑑賞事業公演初日。上演中の客席を気にかけながら、前日の心配を思い返していた。スタートを切ったばかりの作品、そう簡単に、誰もが感動!なんて美談はない。演劇という見慣れないメディアに触れて、生徒たちは戸惑いつつ、グスコーブドリの数奇な運命に見入ったり、あるいは逆に、心地よい居眠りに身をあずけたりしていた(最高の夢のBGMになるならそれもいい!)。この不思議な、文字通りうすい伝記から、あつい生涯のしずかな燃え盛りを掴んでくれる子がいれば嬉しいのだが、どうだろう。
目の前に姿があれば、人は何かを投影する。グスコーブドリへの投影。そのきっかけに、あの反復が、絶妙な力を与えてくれるのは言うまでもない。反復には間が必要だ。最初の一打と、次の一打には、必ず間がある。その間に、観客は、失ったものの空白や若く乾いた意志を投影し、グスコーブドリなんてヘンテコリンな人物の生涯に、深い哀切を抱く。
投影されたそれが夢や希望だってこともある。そうやって人と人は、狭い世界を少しだけ広げて、広げたぶんだけくつろいで、長い間、生きてきたのだろう。
のるかそるかと、半分天意に任せていたぼくは、『グスコーブドリの伝記』演劇化計画は、山師・赤ヒゲの言う通り「賭け事」だと思ったものだ。こっちの極には、偶然をみかたにつける、一回限りの投機がある。不安はなかった。なにせいつもの宮城組。美加理氏、阿部一徳氏、吉植荘一郎氏等々、手堅いキャスティングに、音楽は棚川寛子氏。劇団ク・ナウカ時代からの共生の経験以上に、芝居を練り上げるよいエンジンはない。
反復は、何より、ひとまとまりの人々、すなわち劇団と観客の存在そのものだ。舞台から受け取る、得体の知れないそれは、中高生らが産まれてくる前から続く、長い長い反復の、一回限りの投機における、唯一無二の質感なのだということを、うら若い彼ら彼女らが気づくはずもない。劇場を去る子どもたちの、あどけない足取りを見て、不似合な想念がわいてくる――神懸かりと噂される「賭博師」が、どれだけの間、「賭場」に住んでいたと思う? 「賭け事」は、運だけじゃない。
文・西川泰功
ライター。SPAC『グスコーブドリの伝記』でドラマトゥルクを担当し、原作の脚本化のサポートをはじめ、俳優や技術スタッフとディスカッションをしたり、広報用の記事を書いたりしている。SPACでは2009年より中高生鑑賞事業用のパンフレット編集に携わる。その他の仕事に、静岡の芸術活動を扱う批評誌「DARA DA MONDE(だらだもんで)」編集代表(オルタナティブスペース・スノドカフェ発行)など。
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SPAC新作
『グスコーブドリの伝記』
2015年1月13日~2月1日
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