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2015年1月16日

【『グスコーブドリの伝記』の魅力 #13】 大澤真幸はこう読んだ!

1月10日(土)、『グスコーブドリの伝記』稽古見学会とともに、
トーク「大澤真幸は『グスコーブドリの伝記』をこう読んだ!」を開催しました。

大澤さんと言えば、膨大な知識と発想とでさまざまな事柄をユニークな切り口で論じることで知られていますが、実は宮沢賢治をとりあげたこともあって、『思想のケミストリー』(紀伊國屋書店)という本の中で、『銀河鉄道の夜』について「ブルカニロ博士の消滅―賢治・大乗仏教・ファシズム」というタイトルで書かれています。

『グスコーブドリの伝記』についてはまだきちんと語ったことがないということで、
この機会にぜひにとお話しいただきました。
この日、大澤さんが話してくれたのは、観劇を通して何かを「考える」ことのヒント。
その内容をまとめてみました。
観る前に読んでもヨシ、観た後に読んでもヨシ、
賢治ワールドの奥深さをご堪能ください!

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1.ほんとうの幸せ・普遍的な善
宮沢賢治がどういうことのために生きていたのかというと、「ほんとうの幸せ」のためなんです。「誰かにとっては良いけれども、別の誰かにとっては悪い」ということではなく、「全ての人にとっての幸せ」というのが「ほんとうの幸せ」であると考えていた。別の言い方をすれば「普遍的な善」。
『グスコーブドリの伝記』の中で、クーボー大博士の授業に出てくる「歴史の歴史」という装置は、歴史観が時代・人によって変わるということを通して、「普遍的な善」というものを思い出させてくれます。似たようなことが『銀河鉄道の夜』でも描かれています。銀河鉄道の乗客は、どんどん降りていきますが、これは停車駅がそれぞれの価値観、考え方、信仰を表現しているんです。ジョバンニとカンパネルラだけは最後まで降りません。全ての人の価値観を普遍的に考えるべく、最後まで降りないんです。賢治は模型とか標本に対して偏愛を持っていました。それは普遍的に全ての世界を見下ろす眼差しにすごく憧れていたからなんです。

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2.「開かれた愛」と「特定の人への愛」
みんなが幸せになるということは地球上すべての人に同じような愛情をもつということ。誰に対しても「開かれた愛」。しかし人が人を好きになったり大事に思ったりする気持ちは、ふつうは「閉じられて」います。自分の仲間、家族、恋人・・・。他の人より大事だと考えるのはふつうですよね。が、これでは「普遍的な善」を実行することができません。
賢治が晩年書いた手紙にこんな文面があります。

私は一人一人について特別な愛といふようなものは持ちませんし持ちたくもありません。
さういふ愛を持つものは自分の子どもだけが大切といふ当たり前のことになりますから。

つまり、人を愛するのは当たり前のことだけど、それだけではダメだと言っているんですね。羅須地人協会という、若い農民を集めた私塾を設立したのですが、ある日、賢治に好意を持っていた女性が協会のメンバーにライスカレーを振舞ったのですが、賢治はこれを拒絶しました。賢治はこの女性が自分に好意があることを知っていましたが、彼女と恋愛関係を持ってしまうと彼女が「特別な存在」になってしまうからです。誰かだけを特別に大事にする愛を拒絶して「開かれた愛」を基本にしていたんです。ブドリが皆のために最後死んでしまうのはまさに究極の「開かれた愛」です。

ですが、特定の人への「閉じられた愛」とみんなを愛する「開かれた愛」は単純に対立しているわけではなく、この間にはもうちょっと複雑な関係があるんです。『グスコーブドリの伝記』の最初では家族の愛が描かれています。てぐす工場でも、ひどい労働環境ではありますがそれなりに食べさせてもらっているし、てぐす工場の男も優しいところがあるんです。その後赤ひげとは仲良くなり、良くしてもらいました。そこから段々イーハトーブ全体に向けた話になっていきます。狭い世界から広い世界へと向かっていくブドリの愛は、特定の人への愛からみんなへの愛へと変わっていくんです。賢治にとっての「特定の人への愛」の存在は妹・トシでした。妹への愛は「特定の人への愛」だから「開かれた愛」とは究極的に対立しているようですが、僕はこのふたつの愛の関係は、一方では足を引っ張り合うような関係でありつつも、「特定の人への愛」が「開かれた愛」を支えていると思います。賢治の妹は若くして亡くなりました。嘆き悲しみ、妹の死を受け入れられなかった賢治は妹の魂を探すため北へと旅に出ます。そのときに作られたオホーツク挽歌に

海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでいるのかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ

 
という一節があります。まず妹への愛があります。それがなんらかの形で遠いひとびとへの愛に変わった。「特定の人への愛」が「開かれた愛」への導火線になっています。賢治が目指した「普遍的な善」の背後にある「開かれた愛」は、「特定の人への愛」との間に対立と繋がりがあるという複雑な関係があると思います。

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3.存在を消したいという欲求
『グスコーブドリの伝記』で書かれている自己犠牲はとても立派なことですが、逆に言うと「ちょっと立派すぎない?」と思いませんか。「全てのひとの幸せのためにあなたの命を犠牲にしなくちゃいけない」とは、簡単には言えない要求ですよね。道徳的には厳しい要求ですが、賢治にとってこの要求は過酷でもなんでもないんです。賢治には「自分の存在を消しても良い、むしろ消してしまいたい」という欲求があったのではないかと思います。『ヨダカの星』という作品でよく表現されています。物語の最後でヨダカが消えてしまうことに倫理的な意味合いはないんですよ。ブドリの場合は死ぬことに対して立派な意味がありますが、ヨダカの場合はただ自分が消えたいからなんです。賢治の中にあったほとんど無意識な感覚の「消えてしまいたい」という強い欲求に、立派な理由をつけて道徳的にしたのが『グスコーブドリの伝記』の最後なんです。「開かれた愛」を実現すると、色んな人の気持ちに対して過敏になっていきます。賢治が小学生のとき、同級生が先生に怒られて廊下に立たされていました。水がたっぷり入ったバケツを持たされていたんですけど、賢治はその友達がかわいそうになって、バケツの中の水を飲み干したんです。友達が苦しい思いをしているのを見て、自分が苦しくなってしまったんです。誰かにとっての喜びが、誰かにとっては苦しみかもしれない。その両方を感じ取ってしまうのです。また、自分が話したことで誰かが傷つくことも感じ取ってしまうんです。賢治が肉食を好まなかったということも、ここに繋がるのでしょう。

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4.「究極の善」と「究極の悪」は似ている
『グスコーブドリの伝記』の前身となる『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』という作品があります。『グスコーブドリの伝記』について意地悪な言い方をしてしまうと「都合のいい話」だなと。結局ブドリの行動によってみんなの幸せは守られ、ブドリは英雄になります。これは、物語の中でみんなが火山噴火を望んでいたからなんです。意地悪に言えば死んだ後に英雄になっています。英雄になりたくて自己犠牲を働いたのではないかと、意地悪な言い方もできなくはありません。しかしそうとは言い切れません。「毒もみのすきな署長さん」という賢治らしからぬ、とてもマイナーな短編があります。プハラの国での最大の大罪である「毒もみ」を行った署長さんが死刑になるお話なのですが、死刑になるときに署長さんは「ああ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、全く夢中むちゅうなんだ。いよいよこんどは、地獄じごくで毒もみをやるかな。」なんて言うんです。その後の最後の一行がすごく印象に残っているんですが、「みんなはすっかり感服しました。」とあるんです。つまりある意味で悪を働いた署長さんを褒め称えているんです。
賢治のお話としては非常に珍しい毒のあるお話です。ブドリは「究極の善」を行い、毒もみの署長さんは「究極の悪」を働いた。「善」とはなにか、「悪」とは何かをすごく考えさせられる話なんです。ここでみなさんに考えていただきたいのは、ものすごく徹底している悪と徹底している善が似ているということ。両方とも、利益や打算、損得を完全に超えているんです。賢治の作品を読んでいると「悪いことではなく良いことをしましょう」とは、簡単には言えないような気がします。賢治は純粋にみんなのために良いことをしたブドリにも憧れていましたが、純粋な悪をはたらいた署長さんにも憧れていたのでしょう。善と悪には本当に複雑な繋がりがあって、簡単なものではないと賢治自身もわかっていたと思うんです。一見『グスコーブドリの伝記』は善のお話に見えますが悪との複雑な関係が何重にも重なっているのではないかと思います。
 
 
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SPAC新作
『グスコーブドリの伝記』
2015年1月13日~2月1日
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