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2015年1月21日

【『グスコーブドリの伝記』の魅力 #15】 観劇レポート(清野至)

 幕があがる前の時間が好きだ。といっても静岡芸術劇場には緞帳幕はない。だから、劇が始まる前の舞台には舞台装置があるのが見える。SPACでは開演前の時間にプレトークイベントがあったり、観客を楽しませる工夫が多くあったりするが、僕は少し早めに客席に座って、これから始まる物語に想像を巡らせるのが好きだ。1月17日土曜日、SPACの新作『グスコーブドリの伝記』を観た。この日は初回で満席だった。僕の座った二階の席からは客席の様子も伺えた。となりの友人と語らう人、パンフレットを読む人、メガネを拭く人、皆思い思いに開演を待っている。この開演前の期待に満ちたざわめきも好きだ。
 役者達が登場し、客席のざわめきは静かになる。楽器の演奏が始まる。劇が始まる。
 ところで、宮沢賢治というと僕は『風の又三郎』の一節を思い出す。イーハトーブでは「どっどど どどうど どどうど どどう」と風が吹くそうだ。声に出して読むと面白い。リズムがある。劇の序盤ではそうした擬音のみならず、役者のセリフ回しも謳うようだった。時にはそれがやりすぎなのかラップのように聞こえてきたりもした。そうした謳うようなセリフ回しは聞いているだけで心地良かった。舞台美術は無機質だけどどこか暖かい白木でできた額縁で構成されていて、それらを組み替えて場面を転換する。白装束の役者達が装置を動かすと、ワクワクした。まるで絵本のページをめくるようだった。しかしよく考えると、舞台装置は白木の骨組みで、役者は主役を除いて人形なのだ。でも、だからこそ、宮沢賢治の魅力的な言葉、それを喋る役者達の魅力が際立っていた。額縁の後ろにあるのは、劇場の壁と音楽隊だが、不思議なことにイーハトーブを想像できた。イーハトーブは宮沢賢治のオノマトペで出来ているんだと思った。
 実は途中で少し、飽きてしまった。最初は額縁が転回する舞台美術にワクワクしていたのだが、途中でその場面転換に飽きてしまったのだ。ところが、最後の最後に、額縁は予想外の使われ方をした。それは、グスコーブドリがたった1人で成した偉業だった。僕は最後のグスコーブドリの偉業(の表現)は本当に見る価値のある素晴らしいものだったと思う。
 
 『グスコーブドリの伝記』は宮沢賢治の書いた名作童話、らしい。僕はこの話を読んだことが無い。と思っていたが先日、自分の本棚を漁ったら文庫本があったので、どうやら昔読んだことがある、らしい。つまり昔読んだ時は印象に残らなかった、らしい。今回観劇する前に原作を読んで、どうして当時印象に残らなかったのか分かった。この物語はすごく単純なのだ。グスコーブドリは森で家族と幸せに暮らしていたが、冷害に見舞われる。家族と離れ離れになったブドリはてぐす工場で働いたり農業をして生活をするが、度重なる自然災害で苦労をする。しかしやがては学問を成して人々を災害から救う仕事に就く。最後には命を賭けて人々を冷害から救う。
 ご都合主義な物語だと思う。だから当時は印象に残らなかった。ひねくれていたのかもしれません。しかし、今回SPACの『グスコーブドリの伝記』を観て、この物語の魅力が少し分かったように思う。これは、理想の話なのだ。ご都合主義でもいいんだ。劇中で繰り返される「ここはサイエンスフィクションの世界です。」というセリフがある。宮沢賢治の柔らかなオノマトペの言葉があふれるなかで、この角ばった言葉はすごく異質に感じた。続けて「出来ると思ったら出来る」とグスコーブドリは話す。そうして、命を賭して人々を救う。火山に向かうグスコーブドリをクーボー大博士は「未完成すなわち完成。世界はずっと完成しない。それこそが完成。」と引き止める。僕には、このセリフが宮沢賢治の現実の叫び、諦めのように聞こえた。
 個人的には、もちろん説教は嫌いだし、誰かを救うような「道徳的」なお話には居心地の悪さを感じている。宮沢賢治にもそれほど興味は無かった。しかし『グスコーブドリの伝記』はすんなりと僕の心に入ってきた。溢れるオノマトペと歌のようなセリフ群が心地よくて、とても居心地の良い舞台だった。

2015.1.18

IMAG0013_2清野至(きよの・いたる)
1988.2.9生
静岡大学演劇部OB
2013年より、劇団静火に所属し第六回公演「三人姉妹」より同劇団で役者として活動中。