ブログ

2015年11月20日

【王国、空を飛ぶ!】脚本・演出 大岡淳ロングインタビュー

◆中高生鑑賞事業「SPACeSHIPげきとも!」 パンフレット連動企画◆

中高生鑑賞事業公演では、中高生向けの公演パンフレットをみなさんにお渡ししています。パンフレット裏表紙のインタビューのロングバージョンを連動企画として、ブログに掲載します。


脚本・演出 大岡淳(おおおか・じゅん)
演出家・劇作家・批評家。批判的エンタテインメントの創造を目指し、静岡県内外で演劇・人形劇・オペラ・ミュージカル・コンサート等を幅広く手がける。演出近作として『此処か彼方処か、はたまた何処か?』(2014)が好評を博した。編著に『21世紀のマダム・エドワルダ』(光文社)。現在、SPAC文芸部スタッフ、ふじのくに芸術祭企画委員、静岡文化芸術大学非常勤講師を務める。

――アリストパネスの『鳥』を上演作品に選んだ理由を教えてください。
以前から、アリストパネスという劇作家は必ず演出しようと思っていました。演劇史を考えると、最重要の作家はアリストパネスではないかとつねづね思っています。昔、演劇誌『テアトロ』の「夢の劇場」という特集に寄稿したことがあるのですが、そこでアリストパネスに新作を書かせたいと書いたことがあるくらいです。喜劇は演出家として経験を重ねないとつくれません。さめざめと哀しみを喚起して感情同化を巻き起こすよりも、単純に人を笑わせるほうが難しいのではないかと思います。笑いは、批評・批判・風刺精神の表れですが、それで上演時間を保つのは難しい。喜劇に手が出せるとしたら経験を重ねてからだろうと思っていまして、私は30代の後半から、少しずつ喜劇的な題材を扱うようになりました。そういえば、今回の『王国、空を飛ぶ!』で音楽監督をお願いした渡会美帆さんと初めて組んだのは、2009年に袋井市・月見の里学遊館で上演した、モリエールの『喜劇ゴリ押し結婚』でした。SPACでは、俳優の奥野晃士さんとつくってきた「動読」シリーズ。これは奥野さんのパーソナリティの賜物ですが、コミカルな作風のものも多かったです。それらの蓄積を踏まえて、いよいよSPACから静岡芸術劇場で演出を任されるという名誉な仕事をもらい、宮城聰SPAC芸術総監督から提示された候補作はいくつかありましたが、悲劇ではなく喜劇、他の作家ではなくアリストパネスを選びたいと思いました。

――なぜ古代ギリシアの喜劇を現代の物語におきかえたのですか?
古代ギリシアの演劇が、なぜ演劇史で重要かと言えば、そこでだけは言論の自由が保障されていたからです。原作者のアリストパネスは、ペロポネソス戦争に反対した作家で、戯曲のなかで、戦争推進派の同時代人を名指しで揶揄し、嘲笑し、挑発しました。「あんな連中が勇ましいことを言うのは気に食わない」と主張していたわけです。裏返せば、2500年後に自分の戯曲が読まれるかどうかなんて想定していなかったはず。ですから、そのままの形で上演しても文脈がわかりにくいですね。そこで『王国、空を飛ぶ!』は、主人公が人から鳥へ、そして鳥から神になるという、原作の骨格をふまえつつ、現代人に対する風刺を試みました。でも、本質は変えていないつもりです。

――アリストパネスのように演劇で個人批判をしてもいいのですか?
確かに個人攻撃は抵抗がありますよね。問題をゆがめかねないと思います。それでもアリストパネスがおもしろいのは、批判の矢を誰に向けるかについて、明確な方針があるわけではないこと。誰の味方でもなく、誰に対しても敵である。なぜなら、それが喜劇だから。「こういう人っているよね」という、ものまねのおもしろさを追求しています。あらゆる人間をやり玉にあげて、いくつかのパターンに押しこめて、この世の縮図をつくりあげる。それがたぶん喜劇の愉快な暴力性です。

――『王国、空を飛ぶ!』は、JR山手線の電車内の場面から始まります。静岡県の中高生にとっては、ちょっと距離感のある設定かもしれないという気がしました。中高生にどういう風に眺めてほしいですか?
日本社会全体の典型を描くために、サラリーマンを置いてみました。場面もまた典型的な光景として、朝の山手線から始まります。静岡県内の中高生は、山手線なんか乗ったことがない人のほうが多いでしょう。中には、単身赴任か何かで東京に勤務しているお父さんをお持ちの生徒さんもいると思いますが、ともかく、大人になって就職し、静岡を離れたらこんな生活が待っているのかもしれないという、10年後の自分自身を想像して見てもらいたいですね。サラリーマンは、今やあまり普遍性はなくなっていますが、一般的な大人を表象するのに便利な類型であることに間違いはない。

――確かに、10年後、中高生は『王国、空を飛ぶ!』に登場するサラリーマンのような生活をしているかもしれません。
公共劇場としては学習効果も考えなければいけません。中高生が等身大で理解できる範囲内で話をおさめてしまうと、テレビのお笑い番組と変わりませんよね。お笑いではそれをやるわけです。学校生活に設定を求めるコントが多いのはそのためでしょう。部活とか教室とかね。学園ものにしておけば、見る人の了解の範囲を設定しやすい。そんなふうに中高生におもねってしまうと、共感はできるけれど、何ら発見はないということになってしまう。古代ギリシアでは、アリストパネスの後にメナンドロスという作家が登場します。そのあたりからギリシア喜劇は新喜劇の時代に入り、これが後世のローマの演劇に受け継がれていきました。メナンドロスの作品は、ほぼホームドラマです。今上演してもそのままで伝わる。しかしアリストパネスの作品のほうが普遍性があると思うのは、社会の縮図を描こうとしているから。喜劇は、人間を類型化して描くところに特徴があります。固有名があまり必要のない世界です。『鳥』でも「詩人」とか「父殺しの若者」とかいう具合に固有名を持たない登場人物が出てきます。血液型占いではA、B、AB、Oで人間を網羅しますし、13星座であれば13種類の人間に区別しますよね。喜劇でも、人間を類型化しパターンをつくるわけです。全体性を仮構すると言えばいいでしょうか。そうすると、おのずから喜劇においては、中高生が無条件に共感できる話は、物語の一部分にすぎないということになります。ついでに言うと、悲劇は、固有名を持つ個人を描きます。例えば、シェイクスピアの『ハムレット』。王子一般が、ハムレットみたいに、父の復讐を課題としているわけでもなければ、それに躊躇をおぼえる日々を過ごしているわけでもない。ほかでもないハムレットだからこそ、復讐をためらい続けて、気が狂ったふりをする。『ハムレット』の悲劇は、ハムレットという固有名と切り離せません。

――原作に出てくる鳥人間ヤツガシラは、『王国、空を飛ぶ!』では学生運動の元闘士になっています。この設定にはどんな考えが込められていますか?
アリストパネスの原作『鳥』は、古代ギリシアのアテナイ市民が、日常生活から脱出し、架空の国家をつくり、そこへ逃げる話です。『鳥』に登場するヤツガシラの意味合いには重いものがあります。テ―レウスという王様が、ヤツガシラに化けたという設定になっている。テ―レウスは、妻プロクネーの妹を強姦し、その復讐で子どもを殺されます。この喜劇の背景に踏まえられているのは、こういう陰々滅々とした悲劇です。伝説によれば陰惨な復讐劇で憎しみあっていたテ―レウスとプロクネーが、『鳥』では仲睦まじいヤツガシラとナイチンゲールの夫婦として出てくるんです。憎しみあっているはずの2人が平和に共存しているという設定は、アリストパネスが一工夫したところです。その趣向は、今回は活かせないので、なぜ人間が鳥になる設定が必要なのか考えました。

――ヤツガシラは原作では神話上の王様だったんですね。その設定を変える必要があったということですか?
アリストパネスは、もともと人間だったけど鳥になったというキャラクターを入口として、人間と鳥が言葉によって対話できるという説明づけをおこなっています。では、今の日本社会で、その役割が果たせるのは誰か。人間社会を捨てて鳥社会に染まる人がいるとすればどんな人物か。普通に考えればヒッピーかなと思います。1960年代に政治運動の花が開いて、それが急速に潰されていくと、70年代にコミューン志向が登場し、80年代も持続して、資本主義に対する後退戦を闘っていくというスタイルが残りました。自給自足のコミューンをつくる人も、少数ながら存在したわけです。コミューンによって市民社会から逃避をはかる。こういうものが鳥の国のモデルになるのではないかと思いました。ただしヒッピーはもはやほとんど共有できない記号です。その他に市民社会から離脱するモチベーションを持っていた人は誰かと考えると、いわゆる団塊の世代に当たる、全共闘の闘士ではないかと考えました。1969年1月19日の東大安田講堂事件では、東大生はほとんどバリケードのなかに残っておらず、最後の最後まで戦っていたのは、よその大学から駆けつけてきた新左翼党派の連中でした。つまり、逃げた人もいれば、逃げ遅れた人もいたし、逃げずに戦った人もいた。警察官僚の佐々淳行が機動隊を指揮して安田講堂に突入した時、最後までバリケードに立てこもっていた人たちは、何を考えていたのかなと想像しました。屋上に追いつめられて、「この空を飛べたら…」と思った人がいたらおもしろいんじゃないか。69年の安田講堂事件を契機に、学生運動は急速に衰退します。運動を経験した後、普通に就職した人が多かったわけです。思想的には小市民へ転向したということになりますが、そんななかで、鳥の仲間入りをして志を貫いた人がいたらどうか。企業社会・市民社会から飛び出てしまって、何十年かを過ごしていたら……荒唐無稽な設定ですが、そのような人物が再び、鳥の国の建設に力を貸し、一度は捨てた夢を取り戻そうとする。その結果として何が生まれるか、を考えてみたわけです。ちなみに、大手予備校の講師にはこういう感じの人、たくさんいますけどね。

――鳥の国のイメージは、コミューンなんですね。大岡さんの脚本を拝見すると、鳥の国は、鳥たちの直接民主制のような形で成立しています。一方で、「ウンチョ国(雲鳥国)」と言われて揶揄されてもいます。大岡さんのコミューンへの評価は両義的なんでしょうか?
そうですね。このお芝居では、コミューンがひとつの国家へと発展していきます。人間の集団をどう運営していくのかを考えると、意思決定の方法は、3通りくらいしかありません。一人の代表者が全体のことを決めるか、複数の代表者にゆだねるか、みんなで決めるか。古代ギリシアの哲学者アリストテレスが『政治学』のなかで言っていることでもあるし、近代政治学の祖マキャヴェリもこの3パターンを状況に応じて組み合わせて使っていくしかないというようなことを言っています。「王様が決める」「貴族が決める」「みんなで決める」のうち、最後の「みんなで決める」が民主制です。現在では民主制が一番いいということになっているわけですね。鳥の国は小さなコミューンから出発しますが、民主制を採用している点で、本質的には現代の国家と変わりません。とすると、『王国、空を飛ぶ!』は、ミイラとりがミイラになる話といえるかもしれない。国家から逃れようとした人たちが、もうひとつの国家をつくる話ですから。評価が両義的になるのは、そのためだと思います。

――近年、民主主義へのポジティブな見方は高まっているような気がしますが、この劇では、民主主義のポジティブではない側面への目配りがあるように思いました。そのあたりはいかがですか?
古代ギリシアの哲学者プラトンは哲人政治を求めていて、少数のエリートが全体のことを決めたほうがいいと考えていますね。アリストテレスも民主制が衆愚制になるのを警戒しています。現在でもよくポピュリズムという言葉によって衆愚が批判の対象になりますが、民主制が衆愚制に陥るのは、どういう時なのか。あるいは、衆愚制ではない民主制とはどういう状態なのか、よくわからないんです。みんなが賢くなって、それで物事を決めればうまくいくはずだというのは、理想論としてはわかりますが、でもただの理想論ですよね。そもそも「民主主義」という言葉の問題があります。本来は物事の決め方を表現しているだけの言葉である「democracy(デモクラシー)」を、日本人は「ism(イズム/主義)」だと勘違いしているんじゃないですか。戦後長らく「民主主義」は主義だという風に捉えられてきた。しかし率直に言って、「民主主義」に、主義としてのポジティブな価値を置くことに、私は違和感を持っています。

――民主主義は思想ではなく、集団の意思決定の仕組みにすぎないということでしょうか?
そうです。政治学者の福田歓一に、『近代民主主義とその展望』(岩波新書)というよく読まれた本があります。その本にも、20世紀の民主主義には民衆が自分自身を解放していく理念が込められていると書かれています。でも、本来はそんな理念ではなく、人間集団における意思決定の方法のひとつにすぎないのではないでしょうか。平時はそれこそ民主的に話しあえばいいんですが、問題は、集団が危機に陥った時です。こういう場合、スピードが重要です。みんなで相談している時間がないとなった時、どう意思決定するか、誰の意思を優先するかが問題となる。ここに人間集団の持っている難しさがあります。敵が攻めてきた、災害に襲われた、リーダーが死んだ、とかね。マキャヴェリもリアリストですから、うまくいけば何だっていいと言っている。アリストテレス以来の伝統をくんで、やり方は色々あるけど、その時その時で、うまくいく方法を選べばいいとしか言っていない。それがいつのまにか、民主主義は常に素晴らしいという話になっていて、民主制に主義(イズム)が含まれているかのような幻想が生まれました。みんなで決めることが、みんなではない誰かに決定をゆだねることよりも、マシな方法だと言われていますが、みんなが間違ったらどうするのかという難問が残されているわけです。みんなが間違って、戦争や大量虐殺へ突き進んだことはいくらでもあるじゃないですか。その問題を考えたほうがいいと思います。みんなが間違った時に解決する装置を、私たちは本当に持っているのか。『王国、空を飛ぶ!』では、そのことについて問題提起しているつもりです。今起きている民主主義への期待が、もっと民主化されれば日本は戦争から遠ざかるというメッセージを含んでいるとしたら、私にはそうは思えない、ということです。

――なるほど。今のお話を中高生向けにわかりやすくお願いできますか?
学校では、民主主義が大事で、多数決で決めるのがいいと教わっていますよね。で、みんなが間違ってしまって、おかしな決定をしても、教室には先生がいますから、「みんな間違ってるぞ!」と教えてくれます。でも、大人になったら先生はいません。先生抜きの学級会が間違ったことを決めた時、どうしたらいいのか。この作品は、そんな問題を投げかけています。

――今回は音楽劇になっているようですね?
演出するにあたって、私自身が演劇人として大きな影響を受けた劇作家ベルトルト・ブレヒトを参考にしています。ブレヒトは、感情同化とカタルシスを観客に強いる演劇に対して批判的です。そのような感情同化を撹乱する行為を「異化」と呼んでいます。ブレヒトは音楽劇をたくさんつくっていて、クルト・ワイルやハンス・アイスラーといった作曲家と組んでいました。単に人を感動させる道具として音楽を添えるのではなく、人々の理性を喚起するような、感動という心の働きを突き放すこともできるような、乾いた部分を持った曲調を、ブレヒトはワイルやアイスラーに工夫させました。お祭り騒ぎ、どんちゃん騒ぎ、トランス状態に入るような祝祭的なにぎやかさを極めながらも、観客が自分自身のなかでそれらを突き放して、ものを考える余地をつくりだす。そういう方法論をブレヒトはとりました。『王国、空を飛ぶ!』は、私がこれまで手がけてきたブレヒト的な音楽劇の方法論が、演出の主軸になっていると思います。

――作曲家の渡会美帆さんが手がける音楽はいかがですか?
渡会さんは、美しい旋律を書ける方で、静岡でずっと頑張っていらっしゃる作曲家ですけれども、今回は、彼女にしてみれば旋律をつけにくいんじゃないかという歌詞をたくさん書きました。どこまで本気でどこまで冗談かわからないような……音楽家はそんな歌詞をどう扱えばいいのかという難題を渡会さんに強いています。渡会さんは、古典的な作曲技法を身につけている作曲家ですし、現代音楽のような、あえて感動させない音楽を主に作曲しているわけではありません。非常に繊細な曲づくりをされる方ですから、あえてワイルやアイスラ―と同じような課題を背負って作曲してもらったほうがおもしろいのではないかと思いました。たぶん渡会さんもそれを想定して、パーカッショニストの永井朋生さんや私の仲間であるフルーティストの渡部寿珠さんといった、引き出しの多い人たちを楽隊に招いてくれました。随所に茶化しを混ぜながら、楽しませ感動させるだけでなく、批判的に考えさせる音楽をつくってもらっているつもりです。

――朝比奈尚行さんをキャスティングした狙いを教えてください。
朝比奈さんは、時々自動というパフォーマンス集団の主宰者です。時々自動は、歌、ダンス、映像、演劇など、色んな要素をごった煮にしてパフォーマンスをつくる集団です。80年代から継続的に活動されており、私もファンです。私が見始めたのは90年代でした。そのころは大変な活躍ぶりで、世田谷パブリックシアターで何ステージも上演し、毎回席が埋まるほどの人気でした。批評家の柳澤望さんが「90年代は、時々自動とダムタイプと大岡淳の商品劇場という、3つのカンパニーの時代だった」とおっしゃっていました。一般的には全然そんなことは言われておらず、「静かな演劇」が登場した時代ということになるんでしょうが。私からすると、90年代の時々自動は、手本でありライバルでもありました。

――時々自動は、世代的には大岡さんより上ですよね?
時々自動には色んな世代の人がいますが、朝比奈さん自身は、どんぴしゃり団塊の世代ですね。それが驚かされるところで、彼らのパフォーマンスはポップで、感覚的に見れば、バブル世代が中心なのかなと思えます。朝比奈さんの現在67歳だそうですが、初めて年齢を知ったとき、そんなに年上の人なのかと驚きました。演劇界で色々と伝説となっている人でもあります。昔の桐朋学園で演出家・千田是也の薫陶を受けて…というところから始まり、黒テント界隈に身を置いたあと、独立して時々自動の前身にあたる自動座というカンパニーを立ち上げた。その後、時々自動で活躍を始められてからは、オンシアター自由劇場の串田和美さんや、蜷川幸雄さん、ケラリーノ・サンドロヴィッチさん、長塚圭史さんや亡くなった中村勘三郎さんと仕事をされたり、テレビの仕事もされてます。時々自動を商業ベースに乗せるかどうかが問題になった際には、「時々自動を生活の手段にしない」と、カンパニーとして決定したと聞きました。あえてメジャー化していくことを拒んだ、ということなんでしょう。団塊の世代の演劇人は、70年代以降、政治的テーマを出しづらい状況になりました。80年代のバブル時代がやってきて、消費社会が肥大し、演劇もポップでライトなものが流行るようになった時、次の一手を打ったことが、時々自動という集団の先駆性でありおもしろさだと思います。

――そんな集団を率いている朝比奈さんに、どんな役割を期待していますか?
SPACの俳優はスズキメソッドを重視しますが、このメソッドは、現代演劇のなかに様式性を持ち込む志向の強い方法論です。表面的な言い方になりますが、SPACの俳優は、細部に至るまでコントロールされたものをつくるのに情熱を傾ける人たちだと思います。しかし『王国、空を飛ぶ!』は、それに加えて、俳優の自発性や内発性をうまく表に引き出さなければ成立しないと思います。喜劇ですから、単に演出家が指示したことを俳優にやってもらって、それでお客さんが笑うかと言うと、とてもそうは思えない。コメディは、俳優自身のアイデアを取り入れることが多いでしょうし、即興性も必要です。井上ひさしや三谷幸喜のように完全に脚本の力だけで成立させるコメディはべつかもしれませんが、例えば、三宅裕司のスーパー・エキセントリック・シアター(私が初めて憧れた劇団ですが)は、俳優たちがどんどんアイデアを持ち込んで、演出家が修正していくという作業をしていたようです。もちろんそのような方法論も万能ではなく、いいほうに転ぶ場合も悪いほうに転ぶ場合もあると思いますが、ともかく今回は、演出家の指示通りにやってもらうというつくり方はしていません。この場合、アイデアを引き出す媒介になる何かが必要です。朝比奈さんのように、パフォーマーとして引き出しがあって、アイデアやコンセプトをぽんぽん出してくれて、かつ、演じることや歌うことを、自分がやりたいこととしてやってくれる人がいると、他の俳優のガイド役になるだろうと思いました。その役割を見事に果たしてくださっています。

――美術の深川信也さんもSPAC初参加になりますね。
深川さんは、発見の会という劇団のメンバーです。私は、発見の会が1967年に初演した『此処か彼方処か、はたまた何処か?』を2014年に演出しました。60年代演劇で目立っているのは、鈴木忠志、唐十郎、寺山修司などですが、思想運動としてのアンダーグラウンドを捉え返した時、瓜生良介の発見の会は重要です。そこで劇作家・上杉清文さんの業績に注目して上演したわけです。私が過去、批評家として評価した作品に『ふるふる――山頭火の褥』があります。翠羅臼さんの作・演出ですが、これも深川さんが美術を担当されていたようです。御覧いただければわかる通り、大変ダイナミックな美術を作って下さいました。今回は、朝比奈さんと深川さんという、大きな意味でアンダーグラウンド演劇運動の流れをどこかで意識しながら活動してこられた人たちの胸を借りて、音楽喜劇をつくろうとしています。このような文脈は観客にとってあまり意味のない話かもしれませんが、公立の劇場の企画なのだから、単にやりたいことをやるのではなく、戦後演劇の歴史を具体的に踏まえる作業をやったほうがいいような気がしています。そんな思いもあり、今回は、お二人に御助力いただいています。

――最後に中学生と高校生へメッセージをお願いします。
中学生には、この馬鹿馬鹿しい話を体で受けとめてほしい。この芝居のスピード感に素直に乗っかってくれると嬉しいです。高校生には「大人の社会はこうやって動いているのか…」と背のびをして楽しんでもらえれば嬉しいです。世の中を高みから見下ろし、「馬鹿だね」とケラケラ笑える、そんな時期は、人生のなかで10代にしか訪れません。中高生にのみ許された特権的な感覚で、楽しんでもらえれば幸いです。

2015年9月6日 静岡芸術劇場にて