SPAC文芸部 横山義志
毎年ひそかに楽しみにしている日がやってきた。シアタースクールの発表会である。2007年・2008年の『オズの魔法使い』、昨年の『青い鳥』、そして『モモ』と、今年で四度目になるが、まちがいなく毎回、涙をぬぐいながら見ている。
みんな何度も読んだことがあるはずの話なのに、見るたびに「こんなに深い話だったんだ」と思っておどろく。そして見るたびに、「本当の幸せ」というのがなんなのか、ちょっと分かったような気になる。
だけどいつも、なぜかそれが長つづきしないのである。一日か二日、ひどいときには数時間もすると、その「本当の幸せ」の感じが消えてしまう。だから今度こそ、思ったことを少しだけ書きとめておこうと思う。
『モモ』はとってもすごい話だが、あまりにもすごい話なので、あらすじは書かない。もったいないからである。
でもそれでは何の話だかさっぱり分からないだろうから、一つだけ書くと、モモという名前の女の子が時間泥棒の集団に出会ってしまうお話である。この物語に出会うと、「時間がもったいない」という言葉が、全然別の意味に聞こえてくる。
たとえば、この物語を舞台の上で見る時間、あるいは見られない人が本で読む時間は、あまりに「もったいない」ので、たまたまこのつまらない文章を読んでくれた人から、そんな貴重な時間を奪ってしまいたくない、と思う。
考えてみれば、この「シアタースクール」という企画自体、時間泥棒たちにしてみれば壮大な時間の浪費である。40人もの子どもたちが一ヶ月間毎日のように劇場に通い、その間、演出家・振付家・3人のアシスタントと2人のサポーター、それに技術スタッフや制作スタッフと、16人ものスタッフが走り回って、それでたった二回公演したら、それでおしまい。
だから発表会を見るときには、とてつもなくぜいたくな気分になる。この子の一瞬のしぐさ、一行の台詞には、この子の一ヶ月、この子の夏休みがつまってるんだ、と思う。それが少しタイミングを逃したり、つっかえたりすると、とても愛おしくなる。
一瞬一瞬に、40人+16人の一ヶ月が詰まっている。そんなものを、ぶらっと見に来てしまって、もしかしたらぼくが時間泥棒なんじゃないか、とすら思う。考えてみたら、どんな舞台だって似たようなものなのだが、演劇で身を立てようと思っているわけでもない子どもたちが、一瞬の腕の張り、ゼロコンマ何秒のタイミングに自分の存在を賭けているのを見ると、そんなことが今更のように、初めて気づいたかのような新鮮さで、感じられるのである。しかも一発芸ではなく、そんな瞬間瞬間がつもりつもって一時間にもなる。こんなに密度の濃い一時間を、こんなに気軽に見てしまっていいものだろうか。
というわけで、出演している子どもたちに申し訳ない、位に思ってしまっていたのだが、今回四度目にして、よくよく考えてみれば、ぼくがすぐに「本当の幸せ」を忘れてしまうのも、気軽に見に来ているせいかも知れない。一ヶ月この物語を生きてきた子どもたちにとっては、全然ちがうのかも知れない。もしかしたら、あの子どもたちは、「どうせぼくたち程には分からないだろうけど」くらいの気持ちで、その知恵をちょっとだけ分けてくれているのかも知れない。
時間をかけないと分からないことがある。時間がたつと忘れてしまうこともある。
でもそうしたら、もう一回時間をかけてみるしかない。
「大人は分かってくれない」と思っていたことを、今どれだけ憶えているだろうか。
「こんな大人になりたくない」という大人に、今どれくらいなってしまっているのだろうか。
30年前に比べて、人は幸せになったのだろうか。
30年後、人はもっと幸せになれるのだろうか。
あるいは30年後、自分はもっと他人を幸せにできているだろうか。
時間泥棒に盗まれてしまわないうちに、寝る前の15分間、こんなことを考えた。
シアタースクール経験者も多く参加しているもう一つの夏休み企画、『ユメミルチカラ』は9月4日(土)・5日(日)公演予定。こちらも楽しみ。