8月15日(日)、シアタースクール発表会の2回の公演が
無事終了いたしました。
たくさんの方々にご来場をいただき、2公演ともにほぼ満席となりました。
ありがとうございました。
公演当日、刻々と迫る開演に向けてなお、
午前中の稽古でも演出の指示が飛ぶなど
参加者たちの力を存分に引き出してのぞんだ発表会。
普段通りの元気いっぱいの姿を見せてくれる子もいれば
舞台袖で緊張が隠せない子もいました。
それでも全員が立派にこの一ヶ月の稽古の成果を発揮した、濃密な1時間。
客席にいらっしゃったお客様には、
舞台に立っている子どもたちの持つエネルギーと
『モモ』という作品のもつメッセージとを
しっかりと感じ取っていただけたことと思います。
各回の終演後は、1Fロビーに並んで
ご来場いただいたお客様にご挨拶。
歓声や笑い声が絶えないにぎやかなひとときとなりました。
シアタースクール2010夏の参加者たちの演劇経験は様々でした。
これまでのシアタースクールや、学校での部活で演劇に親しんでいる子もいれば
今回ほとんど初めて演劇や舞台に触れたという子どももいました。
そんな経験の違いも面白さのひとつ。お互いの姿を見て学ぶことは、
きっといい刺激になったことでしょう。
「また来ます!」と口々に劇場をあとにした子どもたちに再び会えること、
そしてまた、この劇場が新しい個性が発揮される場となることを、
楽しみにしています。
発表会パンフレットによせてのSPAC芸術総監督宮城聰のコメント
「全身で、ことばを言うこと」
いまとても心配になっていることがあります。
それは、日本で、いや世界中で、「ひとりごと」どうしのコミュニケーションばかりが増えているのではないか、ということです。
ひとびとは、相手に対して、まず「ひとりごと」として意見をつぶやく。それは文字や画像というデータになって相手にとどき、そして相手は、そのデータに対して、共感や反感のことばを、ひとりごととして発する。
このスタイルが、ネット上ばかりでなく、ふだん顔をあわせている人間のあいだにもひろまっているような気がするのです。それは単にとなりにいる人にもメールしてしまう、という意味ではなく、肉声で会話をしているときでさえ、そのしゃべり方が「ひとりごと」になりつつあるのではないか、ということなのです。
日常的なコミュニケーションに文字を使うことがいけないとは思いません。ただ、大事なことは、相手という「人間」ぜんたいを感じ、受け止めて、そして文字や画像はあくまで相手の「一部分」に過ぎない、ということをわかった上でデータのやりとりをすることではないでしょうか。
人間というものは、そっくりデータに置き換えられるほど単純にできてはいないと思います。相手がデータとして外に出した意見がたとえ自分にとってメチャむかつく内容であったとしても、実際に生きているその相手は、全体としてみれば、自分にとって受け入れ可能な存在だということがあると思います。そうでなければ、十人十色の人間たちが一緒に生きていくことができません。
ひとがことばを体から発するとき、文字データに置き換えられる内容だけではなく、もっともっといろいろなパワーを放出しているはずです。文字データに固定化できないそのパワー(生きているものだけが放つパワー)が相手にとどき、相手のからだはそのパワーに反応して、なにかしらの変化を起こす――これが人間どうしのコミュニケーションだったはずです。こうして影響を与えあうことは、疲れることにはちがいないのですが、そのときには「相手も自分もいっしょに疲れる」わけで、それが「おたがい生きているんだなァ」という信頼感につながっていたのではないでしょうか。
現代演劇にも「ひとりごと」の流行が迫ってきました。でもわたしたちは、舞台の上で、「全身を使ってことばを言いたい」と考えています。ここだけは頑固に、若い人たちに伝えてゆきたいと思っています。
全身で、ことばを言うこと。そこにこそ、いま劇場で学び取れるいちばん大切なものがあると信じているのです。
宮城聰 (みやぎさとし/SPAC芸術総監督)