6月22日、谷田公民館にてリーディング・カフェを開催しました。
谷田自治会のボランティアスタッフが谷田地区の高齢者の方々を対象にデイケア・サービスをしています。公民館に集まって体操をしたり、お茶を飲んで歓談したり… 皆さんひとつの場所に集まって時間を過ごされるのを楽しみにしているようで、どことなくそんなゆったりとした空気が漂っていました。
そこでひとつ一緒に戯曲を読んでみよう!ということで、谷田自治会の方からお話をいただきリーディング・カフェを開催することになりました。今回は40名近くの方に参加していただきました。平均年齢75歳! リーディング・カフェ史上もっとも年齢層の高いものになりました!
人生の大先輩に囲まれてのリーディング・カフェで読んだ戯曲は唐十郎の『ふたりの女』。春の芸術祭でのSPACの新作を、20日の初日をあけて、早々に読むことになりました!
声を張り上げる方がいれば、慎ましやかな声があり、笑いの混じる声があれば、難しそうに顔をしかめて読む声があり… 年を重ねることで、様々な経験が体に蓄積されて、それが戯曲を読むことであらわになる、というような、同じ時間だけ生活してきたはずなのに、それぞれの時間を生きてきたんだと、その声、体、語り口から染み出るようなリーディングでした。
戯曲は、そのせりふを語る身体によって色彩を変えます。例えば、「ありがとう」と小学生の男子が言うのと、皺の深い老人が言うのでは、印象はもちろん、その言葉から感じ取れる奥行きが違いますよね。『ふたりの女』が初日を迎えるまでには、何度も何度も稽古が繰り返されたわけですが、初日をあけて、こうした機会に皆さんと戯曲を読むと、新しく見えてくるものがあります。それは、せりふを読む身体が(俳優のそれとは)違うからで、しかも自分らの親以上に離れた年齢の方々の、紆余曲折を経て、それぞれの時間に洗われ、耕された身体、その蓄積が、せりふを通して表へ出てきたからです。
演劇が多様な人間を許容するのは、演劇にとって、単に、それらが必要だからにすぎません。その意味で演劇だって必要性に迫られています。裸足が痛いから靴を履くように、喜びだけでなく怒りが必要です、演劇には。だから、演劇がおもしろいのは、演劇が人を求めることよりもむしろ、人の方が演劇を求めるときです。せりふという、ある意味では窮屈な形式を通して、過去の経験が(それは別に生きていた過去じゃなくてもいいんです)、そして未来の経験が(これもまた生きたことのないものです)溢れてくる、しかも肌のうえを走るさざなみのような言葉として。そのとき、必要性は可能性に変質する… そんなことをぼんやりと思わされました。
リーディング・カフェにとっても今回は新境地となりました。より幅広い年齢層の方々と、できれば様々な境遇の皆さんと、またリーディング・カフェを開きたいと思っておりますので、よろしくお願いします!