劇場文化

2012年6月10日

【ライフ・アンド・タイムズ―エピソード1】『ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマを見たときのこと』(岡田利規)

 2008年の夏、僕がやってるチェルフィッチュという劇団が、オーストリアのザルツブルクに公演をしに行きました。あまりにもザ・観光地、という街のしつらえにいささか辟易したのと、観光用の馬車がたくさん闊歩しているせいで街がとにかく馬糞くさく、しかし「美しい」町並みとそれとの組み合わせはなかなかチャーミングでいいぞと思ったのを覚えています。
 そんなザルツブルクで僕らが参加したのは、クラシックコンサートやオペラといった正統的な趣に溢れるものから、そんなことからはすっかり自由な現代演劇まで、とにかく多種多様なプログラムをやるフェスティバル。その中のひとつ、現代演劇の若手演出家コンペティションに出場したのです。
 4組の若手演出家がノミネートされて(そのうちの1人が僕だったというわけです)、それぞれの作品が週替わりに上演される、僕らはその第3週めにつつがなく上演を終え、そのまま次の巡業地へと移動したのですが、翌週末、僕だけザルツブルクに戻ってきました。4組めの上演が終わった翌日に行われる、コンペティションの結果発表に立ち会うためです。
 というわけで、最終組の最終日の上演を、僕は見ることができました。それがネイチャー・シアター・オブ・オクラホマの『ロミオとジュリエット』だったのです。そんなタイトルだからといって、シェイクスピアの有名戯曲を台本通りに上演するわけでもなければ、原作に大胆な解釈をくわえて、というのでさえもないのでした。このグループの中心人物、ケリー・コッパーとパヴォル・リシュカのふたりは、電話の会話を録音するのが好きみたいなのですが、『ロミオとジュリエット』で用いられたテキストは、彼らがいろんな友達に電話して「ロミオとジュリエット」のあらすじを話してくれと頼み、その録音が書き起こされたものでした。今回上演される『ライフ・アンド・タイムズ―エピソード1』も同様のコンセプトでテキストができあがってますね。実はみんな、ロミジュリのあらすじをあんまりわかってなくて、うろ覚えでいい加減なことを言います。その音声を舞台上の俳優はイヤホンで聞きながら、その通りのフレーズを話すのです。上演の途中でときどき、意味なくウサギだったかクマだったかの着ぐるみが踊るのでした。
 いい演劇だなあ、と思いました。肩肘張ったところがなにもなくて、ふにゃふにゃしていて。それでも押し出しの強いところはしっかり、ぐいっと押し出されてるから、アメリカっぽいなあ、いいなあ、と思ったりもしました。観客とのあいだに、リラックスした関係が形成されます。2人はこんなコメントをしたことがあるようです。「舞台上でやられることって基本的には私たちとお客さんが一緒の時間を過ごすための、ただの口実」。いいこと言うなあ。上演と観客の関係について明確な見解を持っていることがわかるコメントですからね。
 さて、そのときの若手演出家コンペティションは、ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマのケリー・コッパーとパヴォル・リシュカが受賞しました。壇上に上がった2人は、はにかんだような雰囲気がある人たちで、僕はこの人たち好きだ、と思いました。2人は賞金と、モンブラン社特製のマックス・ラインハルト・モデルなる万年筆を賞品としてもらってました。あ、僕も参加賞で普通のモンブランを頂きました。
 授賞式のあと、ノミネートされていた演出家たち、コンペティションの主催者たちの会食がありました。屋外に並んだテーブルに一堂に会し、夏のザルツブルクの眩しい日差しをパラソルで遮りつつ、馬糞の香りもほのかに漂う中、おいしい食事とワインをごちそうになりました。2人が住んでる街ニューヨークで今度公演するよ、じゃあ見に行くよ、などと話してたのですが、結局当地で会ったことはなく、しかし今回静岡に来てくれるので、彼らにも彼らの舞台にも4年ぶりに会えます。

【筆者プロフィール】
岡田利規 OKADA Toshiki
演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。2005年『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。同作は世界27都市で上演され、11年12月には公演回数延べ100回を記録した。08年、小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』で、第2回大江健三郎賞受賞。

2012年6月8日

【オリヴィエ・ピィの『ロミオとジュリエット』】死(タナトス)へと疾走する生/性(エロス)(エグリントンみか)

 2011年の初秋、パリのオデオン座で、オリヴィエ・ピィ翻訳・演出の『ロミオとジュリエット』を見た。椰子の木、可動式の木箱と階段、シャッター、ピアノ、ドレッサーといった大道具が、役者たちによって動かされ、目紛しく姿を変える。絢爛豪華な劇場とコントラストを成す、虚飾を剥ぎ取られた簡素な舞台。そこへ喪服を着た役者たちが一同に会して始まり、終わる200分は、悲劇と喜劇、恋愛と憎悪の間を激しく揺れ動き、劇場内の温度を上げながら、瞬く間に過ぎていく。あたかも、死の欲動たるタナトスの暴走を抑える(とフロイトが仮定した)愛と生の欲動たるエロスまでもが暴走したかのように、「不幸な星の恋人たち」の生/性は、死へと直走っていく。
 愛と死への疾走速度をいや増したのは、演出家自身による、大胆なまでに独創的なフランス語訳に他ならない。弱強五歩格を多用したシェイクスピアの英語の韻文を、リリカルな六歩格のアレクサンドランへ、その散文をカジュアルな現代口語へと変貌させたピィの戯曲は、艶かしいレトリックに富んだ恋歌、露骨な猥談、さらには劇聖を揶揄する奔放な言葉遊び( ‘De…secouer…sa poire…Shake his pear…Shakespeare…’「梨(男根)を振れ、シェイクスピア」 第2幕第1場)といった、原作にある様々なモチーフを編み直した、色鮮やかなタペストリーとなっている。
 シェイクスピア戯曲が持つ猥雑さを引き継いだピィ戯曲の恋人たちは、「ロマン主義的な解釈によって流布した、世間しらずのおめでたいカップルのイメージ」を、あざとく裏切ってみせる。ロミオとその父モンタギューの2役を演じるマチュー・デセルティーヌは、一瞬にしてロザラインを忘れ、ジュリエットに夢中になりながらも、半裸で男友達との疑似セックスに興じ、ロミオが異性愛だけでなく、同性愛の手練手管にも富んでいることを臭わせる。カミーユ・コビ(SPAC公演では、セリーヌ・シェエンヌ)演じるジュリエットは、木箱に寝そべったまま登場し、母親のキャピュレット夫人と乳母に呼ばれ、凄みのある低い声で返事をしながら、気だるそうに起き上がる。そして、自分の結婚相手は、命がけでも自ら射止めてみせると叫ばんばかりに、ピストルを構えながら階段を下っていく。かのロミオをリードする程に性愛のレトリックに長けた(原作では若干13歳の)若きヒロインは、手足の長い華奢な体に白いドレスを纏いながらも、純粋無垢な乙女のイメージとはかけ離れた、すでに成熟した女である。
 情熱的というより、動物的といった方が相応しい抑え難い欲動に取り憑かれ、舞台を走り回り、床に倒れ込むタイトルロールたちの性癖は、意味深長なダブリングによって演じ分けられる、ほかの登場人物にも見受けられる。性的な暴言を吐きながら、宿敵モンタギューに半裸で喧嘩を売る召使サムソンと、全裸で乳母を挑発するマーキューシオ(フレデリック・ジルートリュ)。舞踏会でブタの面を被って道化に徹し、快楽を貪る家長キャピュレットと、家長の力を盾にジュリエットに結婚を強いるパリス(オリヴィエ・バラジューク)。ライオンの面を被ってロミオへの報復を誓うティボルトと、黒いヴェールを被ってロミオの毒殺を企むキャピュレット夫人(カンタン・フォール)。ストッキングなどの小道具一つで別の役へと早変わりする手法は、個々の人格の表層性と同時に、異なる人物が持つ隠れた共通点を炙り出し、観客に新たな読みの可能性をも示唆する。
 最終場面、喪服を着た役者たちが再び一同に会し、2人の家長から約束されたロミオとジュリエットの金像に代わって、白い粉が撒き散らされる。「両家の憎しみの生け贄」となった若き恋人たちの灰を撒くことによって、その早すぎた死を弔い、あの世での新床を言祝ぐかのように。

参考文献 ジークムント・フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6』(井村恒郎編 人文書院 1970年)

【筆者プロフィール】
エグリントンみか EGLINTON Mika
翻訳家。神戸市外国語大学英米学科准教授。専門はイギリス演劇研究。SPACで宮城聰演出『ふたりの女』(唐十郎作)、『真夏の夜の夢』(シェイクスピア原作、野田秀樹潤色)の字幕用英訳に携わる。

2012年6月2日

【ペール・ギュント】「ペール・ギュント」、戯曲と音楽のあいだ。(小林旬)

ノルウェーの国民的文豪ヘンリック・イプセン(1828-1906)の戯曲『ペール・ギュント』(1867)は、戯曲のかたちをしてはいるものの、舞台的な制約をほとんど無視している。なにしろペール・ギュントという人間は、端的に言えば、どうしようもない男、荒唐無稽、場あたり的で自己欺瞞に充ちている。物語の時間は40年ちかくにわたり、ノルウェーの大渓谷の村から山の魔王の宮殿、暗闇、モロッコの海辺にサハラ砂漠、カイロの精神病院、嵐の海、墓地、荒野など、おそよ舞台に表現づらい情景が連続する。破天荒な冒険譚、壮大なファンタジー。物語はどんどん肥大化してゆくが、主題はむしろ自己という中心へと加速度的に展開、いや、回転する、と言おうか。「ギュント的おのれ、それはそもそも/希望、願望、欲望の山、/ギュント的おのれ、それはそもそも/機智、欲求、追求の海」。第4幕でペールはそう豪語するが、第5幕、死神の使者であるボタン職人が宣告する。「おのれに徹するとは、おのれを殺すこと」。ノルウェーのノーベル賞文学者でイプセンとも親交のあった大詩人B.ビョルンソン(1832-1910)の評、『ペール・ギュント』という戯曲は、「ノルウェー人の利己主義、狭量、うぬぼれに対する風刺」である。
1874年、エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)は31歳のとき、ドレスデンにいたイプセンから長い手紙を受け取った。『ペール・ギュント』を舞台で上演するための音楽を依頼するものだった。25歳のとき、あの劇的なピアノ協奏曲 イ短調 op.16(1868/1906-07)で喝采を浴び、作曲家として世に認められることになったグリーグだが、彼は自らの音楽を抒情的でさりげないものであると感じていた。たとえばグリーグの音楽的な小宇宙をかたちづくるピアノのための小品のかずかず《抒情小曲集》(1867-1901)。彼にとって、どぎつい『ペール・ギュント』は「手に負えない主題」だった。彼は『ペール・ギュント』の文学的価値はおおいに認めてはいたが、それは自身の音楽性とはほとんど相容れないし、そもそもこの戯曲に音楽的なところがあるだろうか―。こんにちグリーグの作品でもっとも知られているのがピアノ協奏曲と《ペール・ギュント》なわけだが、それらはむしろ彼には“らしくない”音楽なのかもしれない。いったん断りはしたものの、結局グリーグがイプセンの依頼に応じたのは、やはり祖国ノルウェーを愛していたからだ。
グリーグの音楽にノルウェーの心がはっきり宿っていると高らかに宣言したのは巨匠F.リスト(1811-86)だ。かつて「ピアノの魔術師」とよばれて華々しく活躍したが、いまやもう晩年の域、ローマで僧籍の身にあった。彼はあるとき楽譜店でグリーグの楽譜に眼を留める。そこにこの若い作曲家の才能を認め、翌日、賞讃と招待の手紙を書き送った。グリーグはローマのリストのもとを訪れる。リストはあのピアノ協奏曲を初見で、しかし圧倒的にドラマティックに奏(ひ)きながら、「これがほんとうの北欧だ!」と叫んだ。
『ペール・ギュント』を舞台化することは、イプセンにしたところで、それがそうとう困難なことであることは判っていた。彼は、こんな規格外な戯曲を舞台化するには、音楽は「口あたりのよいもの」でなくてはならないと考えていた。その点、グリーグは最善の選択だった。グリーグにしても、この《ペール・ギュント》op.23(1874-75)の音楽を「観客が呑みやすいように丸薬にかけた糖衣」にたとえている。
1876年、グリーグの音楽を附した詩劇《ペール・ギュント》は初演された。イプセンとグリーグのもくろみはとりあえずは成功したが、「それは多分に甘ったるい音楽のせいで、作品そのものが理解されたわけではなかった」(原千代海)。「砂糖がむしろつきすぎているように思われる」(P.ワッツ)。劇作家・評論家G.B.ショー(1856-1950)はその音楽について、「この作品の表面的な問題をわずかに捉えているだけで、その本質までには及んでいない」と厳しい。しかしグリーグは判っていたのだろう。「いま、オスロで《ペール・ギュント》を上演するのは、なかなか効果的だ。なにしろ、オスロでは物質主義が昂まり、我々が高尚で神聖だと考えているものをみな押し殺そうとしているのだから。エゴイズムを映しだすもうひとつの鏡が必要だと私は思う。《ペール・ギュント》はそういう鏡なのだ」(ビョルンソンへの手紙)。―第2幕、魔王がペールに言う。「お前たち人間はみな同じだ。口では魂だの何だのと言っているが、握りこぶしでつかめるものでしか、ありがたがらない」(★)。
グリーグはひじょうに個人的な、プライヴェートな作曲家だといえるだろう。愛する国ノルウェーが独立しようとする気運が昂まるなか、彼はフィヨルドの寒村で、《抒情小品集》をこつこつと、まるで日記のようにつづっていた。やがてグリーグは国民的な作曲家となったが、音楽によって革命をおこそう、というのではない。彼は彼の在りかたで、あくまで抒情的でさりげない音楽によってノルウェーの音楽を築きあげた。グリーグがイプセンの詩劇を充全に理解していたとしても、それを本質的に音楽に表現するのは、彼の音楽性、というか、彼の生きかたには、どうもしっくりとはこなかったのだろう。しかし、民族的な主題に情熱を注ぎ、グリーグにとってもっとも劇的で、聴くものの心に物語の情景をありありと描かせる音楽となったのである。
《ペール・ギュント》の初演は音楽を含め、好意的に迎えられた。ぜんぶで26曲のなかから、4曲の第1組曲 op.46(1888)、また別の4曲の第2組曲 op.55(1891)が編まれた。グリーグの《ペール・ギュント》が愛されているのは、劇音楽としてではなく、これらの組曲によってであり、また、イプセンの戯曲『ペール・ギュント』はこの音楽によって世に知られているといってもいい。
現在、イプセンの『ペール・ギュント』を上演するにあたって、グリーグの音楽はそぐわないと考えられている。そもそもこの戯曲が上演されることもあまり多くはないが、それだけに、この音楽の全曲を聴く機会はなおさらない。にもかかわらず、誰もが〈朝〉や〈ソルヴェイグの歌〉を耳にしたことのあるのは2つの組曲があるからだが、それがこれほどまでに世に膾炙されているのは、やはり音楽がすてきだからだ。その音楽には印象的な旋律やリズムがふんだんに、ぜいたくに用いられている。戯曲を離れて、自律した音楽、2つの組曲として聴かれるのは、むしろ作品にとっては幸せなことだったのかもしれない。これだけすてきな音楽を生みだすのは、たやすいことではない。ただ、それだけに、《ペール・ギュント》はグリーグにとって超えようにも超えることのできない最大の壁となっただろう。その後の彼の音楽は、もっとひっそりとした小径へと歩んでいったから―。

『ペール・ギュント』からの引用は基本的に毛利三彌訳(論創社、2006)により、★は毛利訳で省略されているため『イプセン戯曲全集』第2巻(原千代海訳、未來社、1989)による。

【筆者プロフィール】
小林旬
静岡音楽館AOI学芸員。これまで約500曲の曲目解説を執筆。また静岡他の民俗芸能を調査・研究。D.マッケヴィット:《トランスルーセンス》(静岡、東京。2002)、M.ラヴェル:《ボレロ》(熊本。2003)、志田笙子:《四季》(ケルン。2004)、F.ガスパリーニ:歌劇《ハムレット》(静岡。2007)など演出。

【ペール・ギュント】〈自分自身であること〉への旅 ――イプセン『ペール・ギュント』をめぐって(木村直恵)

 〈ペール・ギュント〉とは、イプセン自身の紹介によると「近代のノルウェー民話に登場する半ば伝説的、半ば架空的人物」(1) である。この人物は1867年、イプセンの手によって新たに生まれ変わった。といっても、イプセンの書いた戯曲によれば、この年はペール・ギュントが年老いて死んだ年でもあるらしいので、彼はこの時、1つの生命を終えるとともに、新たな生命を獲得したということになるのだろう。

 ペール・ギュントの物語は、もとの民話と、イプセンの戯曲とではずいぶん異なっている。民話のペールはふてぶてしく、小知恵のまわる男だ。猟師のペールはある日、山のなかで日が暮れてしまい、奇妙なものと遭遇する。ふいに足にぶつかったそれは、「冷たくて大きくてつるつるした」なんとも得体の知れないものである。「こいつ、誰だ」と、思わず尋ねるペールに、それは「おれは、まがりさ」と名乗る。それはじつにへんてこな物体で、ペールがそれをよけるために歩き過ぎようとしても、どこまでいってもそれにぶちあたってしまう。どうにかペールが目的の小屋のなかにたどり着くと、そこにも冷たい大きなつるつるとしたものが浸入していた。「まがり」にすっかり包囲されていることに気付いたペールは、機転をきかせて退治することに成功する。さらにペールは、人間に災いをもたらそうと意地悪くうかがうトロルたちをつぎつぎと巧みにかわし、退治していく。(2) 民話のなかで、ペールはちょっとした英雄である。
 では、イプセンが生み出した戯曲『ペール・ギュント』はどうだろうか。この作品においてイプセンは、民話を素材としつつも、物語に大きく手を加えて膨らませていった。その結果、もとの民話とはほとんど別物といってよいほど、『ペール・ギュント』は完全にイプセンの創作と化した。その変貌のありさまは、われわれがこの過激にして過剰な作品を体験するためのひとつの手がかりとなる。
 イプセン版『ペール・ギュント』の物語は、それに出会う者に、なにより1人の男の流寓の生涯を印象づけるはずだ。ノルウェーの田舎村に生れ育ったペールは、はるばるモロッコの海岸に、次いで砂漠に、さらにエジプトのスフィンクスの傍らに姿を現す。ペール自身によれば、彼はそれまでに貿易商として世界中を駆け回ったこともあるというのだ。そして年老いたペールは帰るべき場所も失ってノルウェーに戻り、さすらい続ける。ペール・ギュントの生涯とは、生れ故郷を立ち去って以来、ずっと根を下ろすことのない流浪の連続であった。ところで意外なことに、このような流浪はもとの民話には存在しない要素である。イプセンは、戯曲『ペール・ギュント』の物語の骨格をなす要素として、〈旅〉を与えた。この旅は物語のなかでどのように展開され、またどのような機能を持ったものだっただろう。
 物語は20歳のペールとともに始まる。ペールに与えられた属性は、嘘つきのほら吹き、粗暴で高慢で生意気なのらくら者、村中の鼻つまみのろくでなしである。ペールはいつも自分がなにか「でっかいこと」をしでかして、周囲の鼻を明かしてやることを夢想している。だがその「でっかいこと」が何であるのか、ペールに具体的な心当たりがあるわけではない。ただお伽話に出てくるような王さまや皇帝の漠然としたイメージが去来するばかりである。
 ある若者が、その一身にはまったく分不相応に思われる欲望や野望への衝動を抱いていて、それゆえに時に人の顰蹙を買い、時にその未知数の将来を期待させるといった話には、ある普遍性がある。そのようにして野心ある若者が旅立つ物語は、いかにも伝説や民話の類にふさわしい題材だ。だが、ペール・ギュントは19世紀の近代人である。正しく言えば、イプセンはペール・ギュントに19世紀という同時代を生きさせることを選択した。もしペールが故郷の村から出奔せずに終ったなら、彼の野望はせいぜい村人の物笑いの種にしかならなかっただろう。そしてやがては若気の至りという解釈のもとに、無害な村の語り草に追加されるにとどまっていたかもしれない。だがペールの形なき野望のドライブは、村の共同体を飛び出して、近代の世界のなかで形をとることになった。ペールの旅とは、その欲望の展開過程にほかならない。
 帝国主義の雰囲気を背景として、19世紀的現実に相応するかたちで解放されたペールの欲望は、3つの形をとって示される。ひたすら富を求める実業家ペール、恋する予言者ペール、そして歴史学者ペールだ。失敗を繰り返しながら流浪と変転を繰り返すペールであるが、彼はつねにひとつの命題に支配されている。それは〈自分自身であること〉だ。中年の成功した実業家ペールは、得々として自分の人生訓を語る、「男子なんたるべきか、おのれ自ら。これがわが輩の単純なる答え」。恋に溺れる予言者ペールは、エキゾチックな娘アニトラに語りかける、「生きるとはどういうことか知っているか?/それは足を濡らさずに流れに漂い時代の河を下ること、完全におのれ自らを保ちながら」。学者ペールはスフィンクスの傍らで知り合った男にこう自己紹介する、「わたしはずっと努めてきました。わたし自身であろうとね」(★)。そして死の間際まで〈自分自身であること〉がペールを引きずり回す。
 だが、そのペールの〈自分自身〉とはいったい何なのか。富、恋、知…、近代の凡庸な欲望の対象を次から次へと節操なく追い求めるペール・ギュントが何者であるのかは、傍で見ているわれわれにもよく分からないことだ。ところで、この問題についてはペール自身が得意気にこう述べている。「ギュント的おのれ、それはそもそも希望、願望、欲望の山、ギュント的おのれ、 それはそもそも機知、 欲求、 追求の海。」
 つまるところペール・ギュントは何者でもないのだ。それはオポチュニスティックに発現される非定形の欲望が、自己を騙っているという事態にすぎないのだ。

 イプセンは、近代人における〈自分自身であること〉の病いにきわめて意識的な作家だった。『ペール・ギュント』以降の作品には、〈自分自身であること〉をリゴリスティックに追及し、強迫することが引き起こす悲劇が何度も現われる。例えば『人形の家』におけるノラの出奔は、署名という〈自分自身であること〉を象徴する行為が契機となっている。だがこの問題に関して言うと、『ペール』以後の作品は、よりいっそう深刻であるがゆえに、むしろ一面的である。言い換えると、のちの作品群に比べると、はるかに非現実的に見える『ペール』のほうが、人間の現実のありようにずっと肉薄しているように思われるのである。
 〈自分自身であること〉という言葉は2度、若くて向こう見ずだったペールに投げかけられた。まずはトロルの国のドヴレ王によって。「山の外、照り輝く大空の下ではこう言う、『人間よ、おのれ自らに徹せよ!』/ここ、われらトロルの間ではこう言う、『トロルよ、おのれ自らに満足せよ!』」ついでトロルの国を脱出したペールは、奇妙な体験をする。闇のなかで茫洋とした得体の知れないものに包囲されてしまうのだ。「答えろ!何ものだ?」「おのれ自ら」。「おのれ自ら」を名乗るこの不気味なものはボェイグ――すなわち民話の「まがり」である。これこそイプセンがペール民話からつかみ出した物語の核だった。ペール・ギュントはこのとき、「おのれ自ら」なるものにどこからどこまでも取り巻かれてしまったのだ。だが民話と違い、それは切り抜けることも打ち倒すこともできない。そしてそれは「回り道しろ、ペール!」と命令しつづける。
 ペールの旅は、この命令に導かれて始まったのだった。それゆえ、大いなる回り道に終わることが最初から運命付けられている。しかもそこにはドヴレ王の言葉が深く刻みつけられている――ただし〈満足〉という言葉が含まれていたことを、すっかり意識の外に追い払ってのことだったが。かくしてペールの旅はある構図によって規定されることとなった。すなわち<自分自身であること>というテーマが、〈欲望〉と〈満足〉という相対する2極から引っ張られているような構図だ。
 だからペールは、いつでも日和(ひよ)る。「大胆不敵さのコツとはそも何か?行動する勇気を持つためのコツとは何か?それは落し穴に落ちた人生の荒野に絶えず可能性を残して立っていること。…いつでも引き退ることができるように常にうしろに橋を作っておくこと」。「傍観者として、安全な距離から」(★)というのが彼のモットーだ。そして流行を追うこと、順応すること、なんにでも慣れてしまうこと。自分自身であろうとする欲望を追いかける道程には、最初から満足が織り込まれている。それゆえ〈自分自身であること〉は、その本人の主観的意識に反して、いつだって中途半端な試みにならざるを得ないのである。40年の長い放浪を経ながらあまりに成長も成熟もしない主人公をつうじて、欲望が形をとるおぞましさと、形にすらならないことの空しさとを2つながら描いてみせるこの物語は、りっぱなアンチ教養小説(ビルドゥングスロマン)の様相を呈している。
 だが、〈自分自身であること〉を貫いて成熟していけることなど、この近代の世界のなかでありうることなのだろうか。エジプトの精神病院で狂人たちの皇帝(ペールの野望はここで叶う!)となったペールは、彼自身も狂人である病院長から、狂人とは徹底的に自分自身であるような人間たちだと説明を受ける。また、年老いたペールは、「おのれ自らだったことなんて1度もない」凡庸な魂として、ボタン作りから魂を回収されそうになる。老ペールはボタン作りから逃れるため、悪魔にすがり付いて地獄に行くための条件を聞き出す。悪魔が示した条件とは、夜も昼も、自分自身であり続けること――であった。〈自分自身であること〉の貫徹は、近代の世界においては、狂気か、地獄に通じる道なのである。

 それでは〈自分自身であること〉の不可能がこの物語の結論であったのか。イプセンは『ペール・ギュント』の結末をたんなるシニシズムのうちに閉じてはいない。むしろこの作品の最大の魅力は、〈自分自身であること〉という問題をめぐる深い洞察を構成している点にこそある。われわれはここで民話には存在せず、イプセンが創造し、付け加えたもうひとつの重要な要素――女たちが、この作品に配置された意味を問うてみなければならない。
 この物語はペールの母オーセに始まり、ソールヴェイに終る――2人の女に支えられた物語世界という構造をとっている。この2人の女において、まぎれもなく〈愛〉が形象化されている。彼女たちは、ろくでなしペールをただひたすら深く愛さずにはいられない。オーセは、息子にさんざん迷惑をかけられつつも「あの子を失くすわけにはいかないんだ!」と叫ぶ。これはほかならぬ彼自身を、そのあるがままの存在において承認し求める者だけが発することのできる、究極的な愛の言葉である。ソールヴェイはそれを分かち合い、受け継ぐ関係にある。この際、ソールヴェイに「あんな男をなぜ」と尋ねることに意味はない。なぜなら愛は出来事であり、究極的にいかなる理由付けも動機も拒むからである。それはただ、近代的欲望や満足から完全に離れたところで屹立している、まったく手段的ならざる何かなのである。だがそれゆえに、近代的世界において〈愛〉は居場所を失う。イプセンはそのことについても意識的だった。
 のちの『人形の家』でも、『野鴨』でも、イプセンは、同一性と真正性の証明を求める強烈な光のもとに、剥き出しに暴き立てられ、追い立てられることにいたたまれなくなる愛の姿を描いた。興味深いことにこのような愛の荒廃を、イプセンは〈自分自身であること〉の追及と表裏する問題として取り出した。ペールもまた、〈愛〉の手前でそれを迂回して以来、〈自分自身であること〉を求めて愛なき世界をさまよいつづけてきた。だがこの作品においては、これ以後の作品とは異なり、〈愛〉の居場所は世界の背景に保持されつづけていた。
 ペールのまわり道は、それがソールヴェイの前から始まったのである以上、当然、再びソールヴェイのもとへたどり着くことによって閉じられる円環でなければならない。年老いて盲目になったソールヴェイは、若き日に待っていてくれと言い置いて去ったきり帰って来なかった男のすべてを抱擁する。われわれはそこで初めてペールがペール自身であった場所の在り処を知るのである。「じゃ、言ってくれ、おれの全身、おれの真実、おのれ自らとして、おれはどこにいたか?」「わたしの信仰の中、希望の中、愛の中。」――これこそ、この物語のすべてが収斂していく場所である。〈自分自身であること〉をめぐるペールの不毛なあがきと、棄てた故郷の〈愛〉のなかで、すでに、つねに成就していた彼自身とのこの対照は、きわめて印象的である。
 〈自分自身〉とはいったいどこにあるのか――他者による深い承認のうちに。このことをイプセンは演劇的(ドラマチック)な仕組みのうちに見事に明かしてみせた。ペールのさまよった世界は広大だが平板なものであった。だがイプセンは、結末でオーセとソールヴェイによって支えられた枠(フレーム)を浮き立たせることで、世界を一挙に重層化してみせる。身勝手に傲慢に世界を駆けめぐってきた19世紀の主人公ペールは、その瞬間、主人公の座を〈愛〉に譲る。それは〈自分自身であること〉について、演劇が与えたひとつの歴史的回答である。
 ただしイプセンは『ペール・ギュント』を、上演を想定しない戯曲として書いた。このスペクタクルを舞台のうえでいかに立ち上げて見せるか、それは近代という長い時代が続いている限り、後世に託された挑戦でありつづけている。

*テキスト日本語訳の引用は、基本的に毛利三彌訳により、★は毛利訳で省略されているため原千代海訳を用いた。

1 1867年1月5日付フレデリック・ヘーゲル宛書簡
2 「ペール・ギュント」『世界の民話3・北欧』、ぎょうせい、1976

【筆者プロフィール】
木村直恵
学習院女子大学准教授。専門分野は比較文学、比較文化。主著に『<青年>の誕生 明治日本における政治的実践の転換』(新曜社、1998年)。

【アルヴィン・スプートニクの深海探検】スケールと方向感覚(山村浩二)

 オーストラリアのティム・ワッツによるインディペンデントな人形劇『アルヴィン・スプートニクの深海探検』は、手作り感覚あふれるたった一人で行われるパフォーマンスだ。この劇の主人公スプートニクという名前の響きから、すぐにソ連の無人人工衛星を連想した。人工衛星は大気圏外の旅にでるが、このスプートニクは逆方向の深海の旅にでるお話だ。人工衛星のスプートニクは丸い球体に4つの長い足がついたシンプルな形だが、この主人公が深海へと潜るときの潜水服も大きな丸いマスクに4本の手足が小さく出ていて、その姿も人工衛星に似ていなくもない。犬のライカだけを乗せた無人人工衛星の孤独な旅とイメージを重ねて観ていた。
 アニメーションの映像は、ティム・ワッツ本人による自作で、自身もウクレレを演奏したり、歌を歌ったりして登場する。物語の中心になる主人公スプートニクは、手描きで描かれたシンプルなアニメーションと指人形で表現されている。この人形は、手袋をはめた手で体と手足を演じ、そのうえにもう片方の手で潜水服の頭を乗せただけの至ってチープな作りだ。全体に見かけはとてもラフでシンプルなデザインだが、光や映像に周到な仕込みがしてあって、記録された映像とライブパフォーマンスが次第に渾然一体となり、いつの間にか「ここ」ではない別の次元の「どこか」へ連れていってくれる。
 シンプルで、スタイリッシュな舞台装置が印象に残る。舞台の中央に置かれたのは、1メートルほどの丸いスクリーンで、光の当て方次第では少し透けてスクリーンの裏側も見える。このスクリーンの丸い形がキービジュアルになっているのだ。丸い地球、丸い潜水服のマスクとその中の丸いガラス、丸い光の魂と、円を中心にグローバルな地球規模のマクロの世界からミクロの内的世界までを繋げている。通常の演劇では、舞台の上手下手と左右の位置関係が中心になるが、映像と人形劇というコンパクトな世界観で、海底への下へ下へと進む方向感覚を生み、等身大の人間中心のスケール感も崩していく。
 この軽やかでユーモラスな作品は、自分が普段接しているインディペンデントの短編アニメーション、特に若い作り手たちの作品にとても近い感覚を受けた。もちろん舞台の多くがアニメーションの投影映像で、そのタッチがまさにインディペンデント・アニメーションそのものだというのも理由だが、アニメーションをスクリーンの外まで押し広げ、ミニチュアのセットのなかで指人形を演じ、自分の演奏と歌で盛り上げる。その辺りの制作の規模、すべて手作りで自分のイメージを形にしていくところに溢れているインディーズ精神が、まさに共通するのだ。また、通常人形劇の人形は目鼻のあるキャラクターで何かしら性格付けがなされているものが多いが、この主人公は、丸い光の穴だけがあいた、丸い潜水マスクをずっと被っていて、目鼻はもちろん表情を表す要素はまったくなく無表情だ。ただ頭の角度や動きのタイミングだけで演じ分けている。それでも観客はいつのまにか彼の仕草のなかに表情や感情を見いだしている。ささやかなタイミングだけで、スケールの違うものに次第に感情移入していくところも、とてもアニメーション的な表現だ。
 ストーリーも、温暖化により水没した地球を救うという一見壮大な物語のようで、登場人物はスプートニクだけという、人間関係のスケールは小さく、他者との関係性を挟むことなく世界を救うという、最近の日本のサブカルチャーで社会学的に分類される「セカイ系」そのもので、これも今時のアニメーションと共通する傾向だ。そういう意味で『アルヴィン・スプートニクの深海探検』は、いまの若者にとても共感を得る作品ではないだろうか。これは演劇という既存の枠を意識させないプライベート感覚溢れるエンターテイメントだ。

【筆者プロフィール】
山村浩二 YAMAMURA Koji
アニメーション作家、東京藝術大学大学院教授。代表作に『頭山』、『カフカ 田舎医者』、2011年カナダ国立映画制作庁との共同制作『マイブリッジの糸』など。絵本画家、イラストレーターとしても活躍。

【スカラ=ニスカラ―バリの音と陶酔の共鳴―】対談 久保田麻琴×春日聡 『スカラ=ニスカラ』をめぐって

フィールドワーク ――美への共鳴として

春日(以下、春) まずは、この作品をご覧になってのご感想を教えていただけますか。

久保田(以下、久) 『スカラ=ニスカラ』を最初に観たのは、東京藝術大学の博士号授与に関する審査作品としてギャラリーで展示されていたときです。それを観て、まず非常に美しいと思いました。これほど審美的な作品が、学術的な作品として提出されたとき、学者たちはどう反応するのかと思ったぐらい、作品の審美性に驚きました。
 それでも、この作品はテーマとして、人間がトランスすることや、神に近づくという根源的な祭祀の行為を見ようとしている。そのためにバリという地を選んだことが、ちゃんと伝わってくるんです。そういう意味では、学術的な意味を十分持ちながら、それとバリの生活や概念の美が、作品の中で見事に両立しています。
 例えば、バリでワヤン・クリッと呼ばれる影絵芝居を夜通しライブで観ると、そこには尋常ではないトランス状態なんかがあって、非常にシャーマニックなものを感じるんですよ。それにみんな頻繁に日常の中でお供えをしたりと、神概念と一般住民がここではものすごく近いところにある。これはすごいところだなと思いました。そういうインドネシアに特有な感じが、この映画にはちゃんと詰め込まれています。それをおどろおどろしくも堅苦しくもなく、美的にきちんと人に伝えようとしている。何かを暴いてやろうとかというのではなく、バリの美と自分の心がシンクロしている様があるんです。だからこの映画は、そういう地元のプリミティブだけど、珍しくて高貴な信仰心なり精神性を、非常に美的な方法で、形や動きや音などで残している。そういう心あるフィールドワークなのだと思います。

 作品の中で、特に印象的だったシーンはありますか。

 サンギャン=ドゥダリ[二人の少女が眼を瞑ったままシンクロし優美なダンスをする儀礼]のシークエンスは特に完成度が高いですよね。

 ここはもう本当に震えながら撮ったんですよ。あまりにも美しくて。この儀礼に限らず、バリでは頻繁にそういう目に遭うのですが。

 やっぱりこの儀礼や場所そのものが、一種魔法にかかっているんですよね。

 そうですね。場所がもうマジカルですね。もしもカメラやレコーダーを持っていなければ、場のマジックに巻き込まれて一緒にトランスしてしまうのだと思います。

 それが撮り手を支配している感じがすごくあります。

 裏話をしますと、映像としてスムーズに流れてはいるんですけれども、このときの状況はボロボロでした。カメラは度重なるハードな取材で砂埃と湿気にやられて絶不調でしたし、録音テープのあちこちにマイクケーブルのタッチノイズも入っていて、編集はかなり大変でした。しかも、私の場合フィールドワークでの撮影や録音は、いつも1人でやっているんです。DATとマイクとビデオカメラとそのマイクと35ミリフィルムカメラを全部1人で操作していて、千手観音みたいな状態でした。しかも祭祀儀礼ですからリハーサルもなく、1回限りです。このシーンは本当に魔法にかかったようなところがありますね。

インドネシアの島々に咲き誇る文化

 無数の島々からなるインドネシアでは、インドの要素や、地理的に近い中国の要素などが、島ごとに多様な音楽や芸能、文化のヴァリエーションを作り出しています。インドネシアの伝承芸能は、同じ植物だけれども色や形が微妙に違う花のようで、本当に百花繚乱です。音楽ということで言えば、ワールド・ポップ・ミュージックになったブラジルやジャマイカに劣らない資源がある、文化的にはものすごい大国です。

現代における音楽映画の可能性

 様々なメディアが台頭する中、映像、特に音楽映画には、今後どのような可能性があるとお考えですか。

 かつて映画がテレビに替わったように、ネットメディアの出現によって、今や録音物を芸術作品として売るということは、産業として成り立ちにくくなっています。でも『スカラ=ニスカラ』や、私の関わった映画『スケッチ・オブ・ミャーク』の、宮古島の神歌という一種の宗教音楽にも顕著なように、世の中には残す価値のあるフォークロアはいっぱいあると思うんです。だから、そういうものを録音や映像で残すことは、まだまだ非常に有効で、そういう記録は、世界のいろんな人たちが、自分たちはつながっているんだ、自分たちは人間として生きているんだということを実感させる、非常に強力なツールになると思います。だから、産業としては成り立ちにくくても、こういう仕事はやらないわけにはいきません。

アイデンティティのツールとしての芸術行為

 私が記録してきた音楽をやっている人たちは、仕事は別に持っていることがとても多いです。宮古島の祭祀に関わる人びとは、サトウキビを作ったり、漁師の奥さんだったり。阿波踊りの人も、公務員だったり、現場工事やっていたり、いろんな人がいるわけです。そういう人たちが自分の心をひとつにまとめる、自分のアイデンティティを持つためのツールとして、音楽や踊りという芸術行為をやっているわけで、それは彼らの生にとっては非常にリアルなわけですよね。
 それは、人間性を取り戻すがために奴隷たちが歌っていたブルースやスピリチュアル(黒人霊歌)由来のロックにしても、プアホワイトと呼ばれるような、ヨーロッパからアメリカに渡ってきた人の音楽にしても同じです。宮古の人たちの神歌にしても、彼らが人頭税などの極限状態のもとで、生きるということはどういうことかという深い体験をしたからこそ、人を惹きつけるあれだけの強いものが残っているんだと思います。

【筆者プロフィール】
久保田麻琴 KUBOTA Makoto
学生時代に参加した「裸のラリーズ」を皮切りに「夕焼け楽団」、「サンセッツ」と音楽演奏グループで活躍。90年代以降はプロデューサーとして多くのアジアの音楽、近年では宮古島や阿波踊りの音楽を発表。宮古の神歌を活写したドキュメンタリー映画『スケッチ・オブ・ミャーク』はまもなく封切られる。『世界の音を訪ねる』(岩波新書)を出版。

【ペール・ギュント】ペール・ギュントはエヴリマンか(毛利三彌)

 ヘンリック・イプセン(1828-1906)は近代リアリズム劇の父、社会問題劇の確立者。今も世界中で、シェイクスピアについで多く上演されるといわれる。代表作は?と問えば、一昔前の演劇愛好者なら、即座に『人形の家』『ゆうれい』『ヘッダ・ガブラー』と、あがったものだ。だが、イプセンの祖国ノルウェーで、彼が書いた25の劇作品のうち、どれがいちばん好きかと問えば、おそらく10人のうち8人は、『ペール・ギュント』と答えるだろう。これは社会問題劇を書き出すよりずっと前、1867年に書かれた厖大な劇詩。わたしもノルウェーで同じ答えをしたら、へえ、日本人に『ペール・ギュント』が分かる?という顔をされた。これは典型的にノルウェー的な劇だと、彼らは思っている。
 ペールは、ノルウェーのど真ん中とされる中央山岳地帯の伝説上の人物。それをイプセンは、大言壮語だが日和見的、無鉄砲だが自分本位の、憎めないペール像に仕立てた。ペールは、山にひそむトロルの王国に乗り込む。トロルは、ノルウェーお伽噺でよくみる妖怪、妖精、魔物をいっしょくたにしたような、みにくい間抜け。これはノルウェー人の独善性の象徴だ。
 イプセンは一級の詩人と目されるが、この劇詩には近代ノルウェー語の複雑な状況もからむ。それには、これまた複雑な近代の歴史がからんでいる。ノルウェーは、19世紀初めのナポレオン戦争でナポレオン方について敗戦国となったデンマークの属国だった。だから、戦勝国スウェーデンに割譲され、それまでの支配的なデンマーク語文化から脱却しようと、地域に根ざした伝統的な言葉から、新しいノルウェー語を作り出す試みがなされた。てんやわんやの言語紛争の結果、1905年の完全独立のあと、デンマーク語系と新ノルウェー語の両方が国語と認められた。イプセンはこの劇で、混乱した国語事情をとことん皮肉っている。
 世界でも最前線の福祉国ノルウェーは、いまは北海油田で大いに潤っているが、『ペール・ギュント』が書かれた頃は、まだまだ発展途上の貧しい農業国。多くの農民が飢えてアメリカに移民した。ペールのように、世界を股にかけ大金を儲けるのを夢に見て。かつては、といっても、はるかはるかの昔だが、あの有名な北欧ヴァイキングこそノルウェー人の先祖。無人のアイスランドに植民し、ヨーロッパ人で最初にアメリカ大陸を発見した。南はシチリア島まで荒らしまわったが、その最大の成果は、ノルウェー(北欧)のキリスト教化。改宗したヴァイキングたちが戻ってきてキリスト教を国教にしたのだ。だが、土着宗教、土着文化との軋轢は現代までつづく。イプセンは国教会に批判的だったというが、『ペール・ギュント』はもっともキリスト教的な作品とされる。
 ところが、フランシス・ブルというノルウェーの著名な批評家は、戦後、オックスフォード大学で講演をしたとき、ある日本の研究者がペール・ギュントを典型的な日本人だといったという話をした。俄然、1970年頃から、世界の最先端に立つ演出家が、好んでこの劇を舞台にのせ始めた。ドイツのペーター・シュタインは、体育館のような劇場で2晩がかりで上演。第4幕では、巨大なスフィンクスを出現させ、カイロの病院では、全裸の男が首を吊って観客の度肝を抜いた。破天荒なスペクタクル、ユニヴァーサルな喜劇、ペール・ギュントはエヴリマン。初演のときにグリーグが作曲した劇音楽は、『ペール・ギュント組曲』となって世界を巡ってもいる。
 だが、ちょっと待って、とフェミニストたちはいうかもしれない。エヴリ・マンかもしれないがエヴリ・ウーマンではない。女をほったらかして世界中を飛び回り、したい放題のあげく、死に際になって、慰めを求めて女のところに舞い戻ってくるペールを、文句一つ言わずに優しく抱きしめるソールヴェイ。これは女を侮辱している、と、当時も「新しい女」から非難された。しょせん、ペール・ギュントはエヴリ・マンか。今日この劇詩を舞台化するときの、これが最大の問題点。ペーター・シュタインは、ペールを抱くソールヴェイをピエタ像になぞらえた。しかもそれを、写真屋がフラッシュをたいて写真におさめるのである!

【筆者プロフィール】
毛利三彌 MORI Mitsuya
成城大学名誉教授。専門分野は演劇学。またイプセン研究で知られる。主著に『イプセンのリアリズム-中期問題劇の研究』(白鳳社、1984)、『イプセンの世紀末-後期作品の研究』(白鳳社、1995)、『演劇の詩学-劇上演の構造分析』(相田書房、2007)。

【マハーバーラタ~ナラ王の冒険~】『マハーバーラタ』とサイコロ賭博と宮城聰の<危険な関係>(船津和幸)

 インドの誇る大叙事詩『マハーバーラタ』は世界の出来事はすべてここに含まれていると豪語する。それもそのはず、メインのプロットは全体の5分の1ほどで、残りは、聖者が主人公たちに教訓的に語ってきかせるという形で、多彩な挿話が入れ子式に展開されるからだ。聖典『バガヴァッド・ギーター』も、閻魔を手玉に取る「才女サーヴィトリー物語」も、そして吃驚仰天、もう1つの大叙事詩『ラーマーヤナ』までも取り込んでいる。べらぼうな物語だ。「ナラ王物語」はその中でも一際ドラマチックな劇中劇である。
 『マハーバーラタ』本筋では、善玉の長兄ユディシュティラは、いかさま賭博に嵌められ、一旦は、王国ばかりか自分も含めて5兄弟、愛する共通の妻ドラウパディーまでを賭で失うが、最終的には全員が13年間の放浪生活を強いられる。落ち込む彼を慰めるために語られるのが、やはりサイコロ賭博で負けて王国から追放されるが、最後はめでたしめでたしの、ナラ王とダマヤンティー姫の物語だ。
 インド人のDNAには、どうやら「サイコロ賭博好き」遺伝子が書き込まれているようだ。インダス文明遺跡からは、今のと同じ!1の目の反対側が6の目であるサイコロが発掘されているし、最古の聖典『リグヴェーダ』には、サイコロ(ヴィビータカ樹の実)賭博に狂って女房に捨てられる哀れな男の歌もある。また『マヌ法典』には「悪徳の中で酒と賭博と女と狩猟は最悪」、「賭博者は追放せよ!」と再三繰り返され、思わずニヤリとしてしまう。ギャンブルのスリルとサスペンス、絶望と逆転勝利の快感は一度味わうと病みつきとなる。そして演劇も…。
 この「ナラ王物語」において、ナラ王に取り憑く魔王「カリ」とは、サイコロで最悪の「1の目(カリ)」のアバター(権化)であり、末法「カリ」の憑依である。『マハーバーラタ』では、博打すら時代精神の賭なのである。むむ、スケールが違う。
 インド古代のバラモン祭式は、何日間も続く演劇的な一大パフォーマンスであった。呪文集『アタルヴァヴェーダ』担当のバラモンの監督下、僧侶らは、神々への讃歌集『リグヴェーダ』を朗唱し、歌曲集『サーマヴェーダ』を歌い、祭詞集『ヤジュルヴェーダ』に規定された芝居がかった所作で儀式を執り行う。
 インド演劇の最大権威書であるバラタ仙人作『演劇典範』(ナーティア・シャーストラ)には演劇の起源神話がこう語られている。神々は、創造神ブラフマーに演劇のヴェーダを所望した。ブラフマーは「おやすいご用じゃ」とばかり、リグヴェーダ朗唱から台詞術を、サーマヴェーダ歌唱から音楽を、ヤジュルヴェーダ所作から演戯術を、そして人の魂を操るアタルヴァヴェーダ呪法から観客の情調(ラサ)操作を抽出し、それをバラタに伝授したとある。
 ヴェーダの言葉は言霊(ブラフマン)であり、語られてはじめて呪力を発揮し、存在は存在者となるのである。聖書の「光よ、あれ!」のロゴスである。しかし存在者はロゴスに反逆を試みる。存在者としての身体は、感情・パトスに揺り動かされ衝動的に踊り出すのである。だから人は感極まると小躍りするのだ。
 ブラフマーから演劇を伝授されたバラタは、舞踏王シヴァの面前で演劇を披露するが、「舞踏が欠けてる!」と一喝され、宇宙をも破壊するといわれる舞踏ターンダヴァをシヴァから伝授されたという神話は、パフォーマンスの本質を説き明かす。と書きつつ、アッと声を上げてしまった。これはそのまま、スピーカーとムーヴァーが、ロゴス・パトスの緊張関係の中でせめぎあう「宮城演出」の本質ではないか!
 「ナラ王物語」という響きは、昔難解なサンスクリット語に苦しんだ者にはノスタルジーである。文法を終え最初に挑戦するのが、ランマン編「サンスクリット読本」で、その冒頭が、「聖者ブリハッドアシュヴァはかく語りき」で始まるこの「ナラ王物語」であった。ナーガリー文字解読と文法解釈に苦悶し内容などは「あっち向け、ホイ」、まことにシュールな訳文を徹夜ででっち上げたものだった。この物語が、エロスあり、悪魔憑きあり、賭博あり、変身譚ありの、絶世の美女ダマヤンティーの波瀾万丈のファンタジーであることを味わったのは、ず~っと後で再読した折であったことをそっと告白しよう。これからサンスクリット語を、と考えている方は幸せである。魅惑的な宮城編「演劇版サンスクリット読本」から入門できるのであるから。

【筆者プロフィール】
船津和幸 FUNATSU Kazuyuki
信州大学人文学部教授、インド芸術論
最近は『マハーバーラタ』に魅せられて、国際交流基金プロジェクトでインド人演出家を招聘し、学生とのコラボで、バーサ戯曲『腿を砕かれた、難敵ドゥルヨーダナ王』(2009)、『エーカラヴィヤの親指』(2010)を松本で制作上演。今年9月にインドで『腿を打ち砕く』(シャンカル・ヴェーンカテーシュワラン氏新演出)を上演予定。