劇場文化

2012年6月24日

【THE BEE】自己を破壊する家族――『THE BEE』を家族から観る (芹沢俊介)

 子どもを虐待する親を責めたくなる気持ちをおさえて、そこで起きている事実に目をこらすなら、家族の自己破壊という像が見えてくる。自分の産んだ子を大事にいつくしみ、育てるのではなく、逆に苛むのだ。苛んだはてに、死に至らしめてしまう場合もまれではない。これを、自分で自分の家族を破壊する姿と言わずに、なんと捉えるべきであろう。
 そこで、問いが現れる。なぜこんなことが起きるのだろうか。
 説明抜きで私見を記せば、家族は内側に何かを抱え込んでしまったのだ。その抱え込んだ何かが、あることをきっかけに動き出し、ついに制御不能に陥ってしまうのだ。そうした手のつけられない暴走状態は、カタストロフィー(破局)を迎えるまで、終結することはない。
 家族が内側に抱え込んでしまった何かを、『家族という意志』という本のなかで、私は自己本位主義的志向であると考えた。要するにエゴイズムのことである。エゴイズムはいつも自分の欲望を最優先させようとする。したがってときに、目の前に子どもがいるという現実、妻がいるという現実、すなわち家族があるという現実は、どこまでも自己実現を目指すエゴイズムの前に立ちはだかる障害物として見えてくる。虐待をはじめとする家庭内に生じる厄介事の中心にあるのは、こうした独走しようとするエゴイズムの問題である。
 家族の個々は、このエゴイズムを飼いならすことによってしか、自らの家族を安定的に存続させることは困難である。これが、私たちが現に生きている家族の現状ではないか。そしてこれが、劇『THE BEE』が書かれなくてはならない背景ではないだろうか。
 劇は、飼いならしたはずのエゴイズムが、手綱を切って暴れ出し、制御不能と化し、家族を自己破壊するところまで突き進んでしまうまで終わらない、そういう進行をとる。
 ここには二つの家族が出てくる。一つは、主人公の井戸の家族である。劇は、刑務所を脱走した殺人犯小古呂が、井戸の留守中、井戸の妻子を人質に、井戸の家に立てこもったというところから始まる。もう一つの家族は、脱獄犯小古呂の家族である。井戸と同じ六歳になる男の子と妻がいる。小古呂の脱獄は、自分の妻子に会いたい一心からであり、会わせなければ井戸の妻子を殺すというくらい強い執心からである。
 人質になった妻子の救済が目的のはずだった井戸の行動がしだいに変容していく。一方は被害者、他方は加害者という関係からはじまる二つの家族が、井戸と小古呂、二人の、一歩も退かぬエゴイズムの激突を軸に、一方が他方の鏡像をみるような展開をたどることになるのだ。このダイナミズムが劇『THE BEE』の見所だと、家族論的には理解していいように思える。
 一方が他方の鏡像であるのなら、互いに引き返すことができないまま繰り返されるエゴイズムの応酬が何をもたらすか、その行方は誰にでも予測できるだろう。井戸が小古呂の妻子を苛む、すると小古呂が井戸の妻子を苛む。こうした応酬が、井戸にとっても小古呂にとっても、自分の妻子を苛むことと同じなのである。つまり、二つの家族が鏡像関係に入ったことによって、二つの家族に自己破壊が起きているのである。
 さて、THE BEE――蜂である。主人公井戸が蜂を苦手とするということは、やや強引にすぎるかもしれないけれど、蜂は井戸のエゴイズムに対する抑止力を象徴するものと言えるのかもしれない。井戸の加虐行為が後戻りできない状態でエスカレートするのは、井戸が蜂を殺した後であることに注目すれば……。少し解釈に傾きすぎたようだ。多謝。

【筆者プロフィール】
芹沢俊介 SERIZAWA Shunsuke
評論家。社会問題を中心に子ども、家族、教育に関する評論で活躍。著書に『親殺し』(NTT出版 2008)、『「存在論的ひきこもり」論』(雲母書房 2010)、『家族という意志』(岩波新書 2012)ほか多数。