劇場文化

2012年6月29日

【おたる鳥をよぶ準備】鳥が人を葬るとき(島田裕巳)

 人はなぜ踊るのか。
 それは、飛ぶためである。
 人間には羽根や翼などなく、本来は飛ぶことができない。だが、人間は周囲に飛ぶことのできる存在があることを知り、それに強い憧れをもってきた。
 そして、飛ぶことをめざしてきた。飛行機の発明も、そこに発しているが、もう一つ、踊ることを通して人は地球の引力の影響から脱しようとしてきた。
 20世紀初頭に活躍した伝説的なバレエ・ダンサー、ニジンスキーは空中に静止しているようだと言われた。彼は人であるにもかかわらず、踊ることで鳥に近づいたのだ。
 私もかつて、踊ることを通して人が鳥になる場面を目撃したことがある。
 セゾン劇場(現在のル テアトル銀座)での山海塾の公演、『卵を立てることから―卵熱』でのことだ。舞台の上にあった台の上に仰向けになった天児牛大が羽ばたくと、そのからだは飛んだ。私は、たしかにその光景を「視た」。
 地を這うように踊る能楽のシテも、ときに鳥になる。『道成寺』の最後、飛ぶことで鐘のなかに吸い込まれていく。
 踊ることが鳥になることであるとするならば、その世界で何者かが葬られるとするならば、やはりそれは鳥の流儀にかなったものでなければならない。
 選択肢は「鳥葬」しかない。
 鳥葬は、今日でもチベットで行われている遺体処理の方法である。古代に栄えたゾロアスター教でも、鳥葬が行われていたと言われる。
 鳥葬する際には、遺体を草原に運んでいく。遺体は、鳥が食べやすいように切り刻まれる。そこには、血を流すことで、鳥を集める効果もある。すると、ハゲタカなどがやってきて、遺体を食べ尽くしていく。
 この鳥葬に立ち会うツアーもあるようで、ネット上にはそれに参加した日本人の体験もつづられている。
 チベットで鳥葬が選択されているのは、火葬にするための木がないからだとも言われるが、ならば土葬という選択肢もあるはずだ。
 それでも鳥葬が続けられているのは、遺体が鳥に食べられることによって、その魂が、天に昇っていくように感じられるからではないだろうか。
 鳥葬は、それに立ち会った日本人にはグロテスクに感じられるかもしれないが、日本でほぼ100パーセント近く普及した火葬だって、考えてみれば遺体を火で焼くわけで、もし私たちがその過程をこの目で見なければならないとしたら、まともには正視できないだろう。
 死というものが残酷であるように、人を葬るという行為にも残酷な部分がつきまとっている。チベットの人々は、その残酷な部分を鳥に担ってもらうことで、どこかこころを癒されているのかもしれない。
 日本では、鳥葬は法律に引っかかるので、実施は不可能である。
 しかし、火葬した遺骨を墓に収めたとき、私たちはからだはそこに葬られたかもしれないが、魂の方は墓から解き放たれ、天に昇っていったと考える。だからこそ、最近では、墓の前で、『千の風になって』を歌う人が増えているのだ。
 風になってしまうのであれば、墓など本当は要らない。私たちのなかに、どこか鳥葬に対する憧れがあるのも、死んでから薄暗い墓のなかにとどまらなければならないことに抵抗があるからだろう。
 鳥葬は、残酷さと爽快さを併せ持っている。物事というものはそういうもので、つねに両面を持っている。
 私たちは、鳥葬にインスパイアーされた舞台の上で、踊り手がこの両面を鮮やかに表現するのに接することになるであろう。

【筆者プロフィール】
島田裕巳 SHIMADA Hiromi
宗教学者、文筆家。 東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員などを歴任。著書に『葬式は、要らない』(幻冬舎新書 2010)、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書 2012)他多数。