劇場文化

2012年6月29日

【春のめざめ】「悲劇」と「喜劇」の匙加減(酒寄進一)

 ドイツの作家フランク・ヴェデキントの『春のめざめ』は1891年に出版されたが、15年後の1906年までドイツ国内で上演が禁止されていたといういわくつきの戯曲だ。副題は「子どもたちの悲劇」。悲劇といえばもともとは高貴な人の没落を描き、その落ち方の大きさに観客が涙したもの。しかしその観客が「市民社会」出身者で構成されるようになると、同じ市民の悲劇が描かれるようになる。つづいて19世紀の市民悲劇は同じ市民の中にさらなる悲劇の主人公を探すようになる。たとえば、女性の葛藤に目を向けたイプセン、過酷な労働者の惨状を描いたハウプトマン。抑圧に苦しむ子どもの姿を赤裸々に描いたヴェデキントもその系譜につながるだろう。
 ただしヴェデキントは、その「悲劇」をわざと過剰に描くことで笑いを誘う、つまり「喜劇」的な一面まで加味させている。作者本人、すべての場面に笑いの要素があるとまでいっている。この「悲劇」と「喜劇」の匙加減が、昔から演出家や出演者を刺激してやまないようだ。
 『春のめざめ』はドイツ国内で再演されない年がないほど人気がある。しかも若手役者の登竜門のように扱われているところがある。一昔前だが、ドイツの名優ブルーノ・ガンツ(主演映画に『ヒトラー ~最期の12日間~』)の舞台デビューもモーリッツ役(ペーター・ツァデック演出 1965年)だった。日本でも串田和美演出(1998年)で北村有起哉(モーリッツ役)がデビューしている。
 『春のめざめ』はブロードウェイミュージカルになり、2009年劇団四季のミュージカルにもなった。そうしたことも手伝ってか、ストレートプレイも昨年、3種類観る機会に恵まれた。
 ひとつは2月25日から27日にかけて文学座アトリエで公演された文学座附属演劇研究所第50期本科夜間部の卒業発表会(高橋正徳演出)。よく走り、よく飛び跳ねる演出で、それが「子ども」たちの焦燥感や歓喜をうまく表現していた。
 次は4月27日から5月1日にかけて恵比寿のエコー劇場で公演された劇団アルターエゴ第44回公演(田村連演出)。本来セリフが担う感情表現をダンスに置き換え、最後の場面で「仮面の男」が口にする言葉を複数の役者に振り分け、多声的にすることでより普遍的な意味づけをした演出が斬新だった。
 3つ目は12月15日から17日にかけて日本大学芸術学部演劇学科の舞台総合実習2Aとして公演されたもの(桐山知也演出)。場面の順番を入れ替える大胆な解釈が行われ、大人を白塗りにし、子どもを素面にしたり、意味深なBGMを使ったりと、「子ども」の内面世界を視覚・聴覚的に現出させる工夫が随所に見られた。
 ところで本家本元のドイツではどのような舞台がかかっているのだろう。とくに印象に残っている2本がある。ひとつはベルリンのベルリナー・アンサンブル(クラウス・パイマン演出 2008年初演)。舞台を前後に2分する回転パネル(表裏それぞれ白と黒)だけで構成されるミニマルな演出で、この回転パネルがあるときはドアになり、またあるときは激しい回転によって風を表現する。風はもちろん「子ども」たちの心象風景でもある。もうひとつはベルリンのドイツ座で市内の高校生たちを中心に演じられたもの(マルク・プレッチュ演出 2010年初演)。等身大のはじけるような演技が「演技」に見えなかった。この公演に使われた小ホールは1906年に『春のめざめ』が初演された場所。ドイツの百年を考えさせられ感慨深かった。
 さて、オマール・ポラスはどんな新しい仕掛けと世界観を見せてくれるだろう。観るのが楽しみで、ワクワクしている。

【筆者プロフィール】
酒寄進一 SAKAYORI Shinichi
和光大学教授、ドイツ文学翻訳家。訳書F・v・シーラッハ『犯罪』(東京創元社)で今年度本屋大賞翻訳小説部門1位。他にF・ヴェデキント『春のめざめ』(長崎出版)、ネレ・ノイハウス『深い疵』(東京創元社)など。