劇場文化

2012年6月2日

【ペール・ギュント】「ペール・ギュント」、戯曲と音楽のあいだ。(小林旬)

ノルウェーの国民的文豪ヘンリック・イプセン(1828-1906)の戯曲『ペール・ギュント』(1867)は、戯曲のかたちをしてはいるものの、舞台的な制約をほとんど無視している。なにしろペール・ギュントという人間は、端的に言えば、どうしようもない男、荒唐無稽、場あたり的で自己欺瞞に充ちている。物語の時間は40年ちかくにわたり、ノルウェーの大渓谷の村から山の魔王の宮殿、暗闇、モロッコの海辺にサハラ砂漠、カイロの精神病院、嵐の海、墓地、荒野など、おそよ舞台に表現づらい情景が連続する。破天荒な冒険譚、壮大なファンタジー。物語はどんどん肥大化してゆくが、主題はむしろ自己という中心へと加速度的に展開、いや、回転する、と言おうか。「ギュント的おのれ、それはそもそも/希望、願望、欲望の山、/ギュント的おのれ、それはそもそも/機智、欲求、追求の海」。第4幕でペールはそう豪語するが、第5幕、死神の使者であるボタン職人が宣告する。「おのれに徹するとは、おのれを殺すこと」。ノルウェーのノーベル賞文学者でイプセンとも親交のあった大詩人B.ビョルンソン(1832-1910)の評、『ペール・ギュント』という戯曲は、「ノルウェー人の利己主義、狭量、うぬぼれに対する風刺」である。
1874年、エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)は31歳のとき、ドレスデンにいたイプセンから長い手紙を受け取った。『ペール・ギュント』を舞台で上演するための音楽を依頼するものだった。25歳のとき、あの劇的なピアノ協奏曲 イ短調 op.16(1868/1906-07)で喝采を浴び、作曲家として世に認められることになったグリーグだが、彼は自らの音楽を抒情的でさりげないものであると感じていた。たとえばグリーグの音楽的な小宇宙をかたちづくるピアノのための小品のかずかず《抒情小曲集》(1867-1901)。彼にとって、どぎつい『ペール・ギュント』は「手に負えない主題」だった。彼は『ペール・ギュント』の文学的価値はおおいに認めてはいたが、それは自身の音楽性とはほとんど相容れないし、そもそもこの戯曲に音楽的なところがあるだろうか―。こんにちグリーグの作品でもっとも知られているのがピアノ協奏曲と《ペール・ギュント》なわけだが、それらはむしろ彼には“らしくない”音楽なのかもしれない。いったん断りはしたものの、結局グリーグがイプセンの依頼に応じたのは、やはり祖国ノルウェーを愛していたからだ。
グリーグの音楽にノルウェーの心がはっきり宿っていると高らかに宣言したのは巨匠F.リスト(1811-86)だ。かつて「ピアノの魔術師」とよばれて華々しく活躍したが、いまやもう晩年の域、ローマで僧籍の身にあった。彼はあるとき楽譜店でグリーグの楽譜に眼を留める。そこにこの若い作曲家の才能を認め、翌日、賞讃と招待の手紙を書き送った。グリーグはローマのリストのもとを訪れる。リストはあのピアノ協奏曲を初見で、しかし圧倒的にドラマティックに奏(ひ)きながら、「これがほんとうの北欧だ!」と叫んだ。
『ペール・ギュント』を舞台化することは、イプセンにしたところで、それがそうとう困難なことであることは判っていた。彼は、こんな規格外な戯曲を舞台化するには、音楽は「口あたりのよいもの」でなくてはならないと考えていた。その点、グリーグは最善の選択だった。グリーグにしても、この《ペール・ギュント》op.23(1874-75)の音楽を「観客が呑みやすいように丸薬にかけた糖衣」にたとえている。
1876年、グリーグの音楽を附した詩劇《ペール・ギュント》は初演された。イプセンとグリーグのもくろみはとりあえずは成功したが、「それは多分に甘ったるい音楽のせいで、作品そのものが理解されたわけではなかった」(原千代海)。「砂糖がむしろつきすぎているように思われる」(P.ワッツ)。劇作家・評論家G.B.ショー(1856-1950)はその音楽について、「この作品の表面的な問題をわずかに捉えているだけで、その本質までには及んでいない」と厳しい。しかしグリーグは判っていたのだろう。「いま、オスロで《ペール・ギュント》を上演するのは、なかなか効果的だ。なにしろ、オスロでは物質主義が昂まり、我々が高尚で神聖だと考えているものをみな押し殺そうとしているのだから。エゴイズムを映しだすもうひとつの鏡が必要だと私は思う。《ペール・ギュント》はそういう鏡なのだ」(ビョルンソンへの手紙)。―第2幕、魔王がペールに言う。「お前たち人間はみな同じだ。口では魂だの何だのと言っているが、握りこぶしでつかめるものでしか、ありがたがらない」(★)。
グリーグはひじょうに個人的な、プライヴェートな作曲家だといえるだろう。愛する国ノルウェーが独立しようとする気運が昂まるなか、彼はフィヨルドの寒村で、《抒情小品集》をこつこつと、まるで日記のようにつづっていた。やがてグリーグは国民的な作曲家となったが、音楽によって革命をおこそう、というのではない。彼は彼の在りかたで、あくまで抒情的でさりげない音楽によってノルウェーの音楽を築きあげた。グリーグがイプセンの詩劇を充全に理解していたとしても、それを本質的に音楽に表現するのは、彼の音楽性、というか、彼の生きかたには、どうもしっくりとはこなかったのだろう。しかし、民族的な主題に情熱を注ぎ、グリーグにとってもっとも劇的で、聴くものの心に物語の情景をありありと描かせる音楽となったのである。
《ペール・ギュント》の初演は音楽を含め、好意的に迎えられた。ぜんぶで26曲のなかから、4曲の第1組曲 op.46(1888)、また別の4曲の第2組曲 op.55(1891)が編まれた。グリーグの《ペール・ギュント》が愛されているのは、劇音楽としてではなく、これらの組曲によってであり、また、イプセンの戯曲『ペール・ギュント』はこの音楽によって世に知られているといってもいい。
現在、イプセンの『ペール・ギュント』を上演するにあたって、グリーグの音楽はそぐわないと考えられている。そもそもこの戯曲が上演されることもあまり多くはないが、それだけに、この音楽の全曲を聴く機会はなおさらない。にもかかわらず、誰もが〈朝〉や〈ソルヴェイグの歌〉を耳にしたことのあるのは2つの組曲があるからだが、それがこれほどまでに世に膾炙されているのは、やはり音楽がすてきだからだ。その音楽には印象的な旋律やリズムがふんだんに、ぜいたくに用いられている。戯曲を離れて、自律した音楽、2つの組曲として聴かれるのは、むしろ作品にとっては幸せなことだったのかもしれない。これだけすてきな音楽を生みだすのは、たやすいことではない。ただ、それだけに、《ペール・ギュント》はグリーグにとって超えようにも超えることのできない最大の壁となっただろう。その後の彼の音楽は、もっとひっそりとした小径へと歩んでいったから―。

『ペール・ギュント』からの引用は基本的に毛利三彌訳(論創社、2006)により、★は毛利訳で省略されているため『イプセン戯曲全集』第2巻(原千代海訳、未來社、1989)による。

【筆者プロフィール】
小林旬
静岡音楽館AOI学芸員。これまで約500曲の曲目解説を執筆。また静岡他の民俗芸能を調査・研究。D.マッケヴィット:《トランスルーセンス》(静岡、東京。2002)、M.ラヴェル:《ボレロ》(熊本。2003)、志田笙子:《四季》(ケルン。2004)、F.ガスパリーニ:歌劇《ハムレット》(静岡。2007)など演出。