劇場文化

2014年4月24日

【よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン】官能と内省――テアトロ・デ・ロス・センティードスの芸術(武藤大祐)

 舞台を見に出かけて、「今日はいい芝居を見た」とか「今日のはもう一つだった」とか、そういう次元に到底収まらない、精神に突き刺さるほどの体験をしてしまうことがまれにある。一時の興奮や充足感などではなく、翌日からの自分の生き方に多少とも変化をもたらすような、忘れがたい出来事になることがある。
 もちろん運さえ良ければ、作る側と観る側とのたまさかの巡り合わせで、そうしたことは起きるといえるかも知れない。しかしそんな確率の問題ではなく、あくまでも意図された芸術上の手法として、観客個々人のプライヴェートな心の琴線を震わせることのできる表現者たちも少数ながら存在する。
 例えばピナ・バウシュの、最も実り豊かだった時期の作品。型破りな表現であるとか、論理を超えた構成であるとか、確かにそうには違いないが、そんな考察をしても仕方がない。むしろ観客の一人一人が、自分の個人的な思いや感情を舞台上の出来事に投影して、それぞれの仕方で多様なドラマを見出すことが求められるし、自ずとそうなるように表現の余白がたっぷり取られている。
 あるいは大野一雄のダンス。大野のダンスを、客観的に吟味しようとするほど虚しいことはない。巧拙や美醜など超えたところで、定かな形式すらないようなそのダンスを見る時、観客はいつの間にか自分の「私」を剥き出しにされ、孤独にそれと向き合うほかなくなる。
 バウシュも大野も、自分の言いたいことや見せたいものを決して観客に押しつけては来ない(だからいかに客観的に分析しても、核心を捉えることはできない)。その代わりに、観客をある未決定のシナリオの中に招き入れ、開かれた創造的プロセスとでもいうべきものに巻き込み、参加させる。それぞれの人生を歩んできた個々人の記憶や想像力を刺激しながら、その上演の中で過ごす時間がその人なりの色で染め上げられた、自分だけの大切な体験として成就するように、柔らかく導いていく。だから、百人の観客がいれば、百の「上演」が同時に生じることになる。
 スペインのバルセロナが拠点のテアトロ・デ・ロス・センティードス(直訳すると「諸感覚の劇団」、以下ではTDLSと略)を率いるエンリケ・バルガスも、こうした表現者の一人といえるだろう。しかしその手法は、バウシュや大野らとは大きく異なる。昨今、いわゆる「観客参加型」の演劇が流行しているが、TDLSの作品では、役者と観客が、文字通り、手を取り合いながら、現実とも非現実ともつかないドラマのただ中をくぐり抜けていくことになる。
 2011年、シンガポールの芸術祭でTDLSの『住民たち(Inhabitants)』という作品を観た(体験した)時の、あの衝撃は今でもまざまざと思い浮かべることができる。
 1回の上演につき観客は33人のみ。開演とともに薄暗い会場の中へと案内されると、最初の場面では、シンガポールの街を地図とミニチュア模型で俯瞰しながら、都市が形成されるはるか以前の、ジャングルと漁村が広がる時代にまで遡って眺めることになる。この導入部の後、観客はゆっくりと暗い空間の中を誘導され、脈絡も定かでない夢のようなシーンの連鎖が始まる。固定された客席はなく、自分の足で歩きながら体験する演劇なのである。
 暗がりを抜けると少し開けた空間に出る。3人の女性が点々と腰かけていて、編み物をしている。周囲に観客が集まると、女たちは糸の端を一人ずつに渡し、ひっぱるよう促す。ひっぱるとスルリと抜ける。女はこちらの手を包み込み、この糸を大事に持っているよう、無言で伝えてくる。
 さらに進むと、闇の中に女が2人立っている。観客も二手に分かれ、それぞれの近くに集まる。すると女が入れ替わり、「どうして私を選ばなかったの」と聞く。遠くにはまた別の、天秤をもった女が闇の中に浮かび上がっている。暗く、夢幻的な空気に包まれながら、おそらく誰もが「運命」の比喩を想起する。急速に現実感が薄らいでいくのを感じる。
 再び空間が開けると、サーカス小屋のような建物があり、数人からなる楽団がいる。彼らは奇妙なことに全員目隠しをしているのだが、一人ずつこちらへ近づいてきて、観客の手を取ると、自分の目隠しを外し、何をするのかと思う間もなく、こちらがその目隠しをされてしまう。
 視覚を奪われ、もはや自分の手を取って導いてくれる役者に頼るほかない。シンガポールの街中を思わせる色々な音や匂いが漂ってくる。人の話し声や足音、犬の吠える声、赤ん坊の泣く声、音楽、線香の匂い――。耳元で誰かが囁く、「あなたは今ここにいても、あなたの記憶は至る所に散らばっている」。誰かが何かを肌に触れさせてくる。それが何であるかわかる前に、その感触は消える。目隠しをされて立ち往生している自分たちの間を、音もなく複数の人が動き回っているのが気配でわかる。不意に「一緒に踊って」と手を取られ、ひとしきりデュエットを踊る。「すぐ戻るから」と言われ、置き去りにされる。
 目隠しを外されて再び進むと、暗闇、街の雑踏、そして楽団のパーティ。また暗闇を抜けると突然、大きな空間に出る。視界一面に広がっているのは、息をのむほど美しい、糸で編まれた壮大な密林だった。役者の一人が声をかけて来る。「(前に女から手渡された)あの糸の切れ端を持っていますね。それを、好きな所に結んでください」。神社でおみくじを結ぶ時のように、程よいところを探して結ぶ。すると彼は耳元で囁く。「そう、これがあなたの物語なのです」。
 舞台はここで幕切れなのだが、私は呆然としてしまって、しばらく立ち上がれなかった。無数の糸と結び目からなるその巨大な密林を長いこと見詰めていた。もちろん、人と人が出会って生まれる「縁」や、都市(ここではシンガポール)を作り上げている交通や情報のネットワークが、そこに比喩として示されているのみならず、他でもないこの自分もまたその網の目の一部を紡ぐ存在であることを身体で実感してもいた。
 しかし震えるような深い感情はもっと個人的な所から湧いた。私事で恐縮ながら、その時、ひと月ほど前に他界した父のことを強烈に思い返し、すると糸で編まれた密林は、父と自分や家族のつながり、あるいは生前の父と様々に関わってきたであろう無数の人々の関係の網の目に見えた。そして一人の人間は生涯の間に一体どれだけの数の人と関わるのだろうか、と思いを馳せると、もはや動けなくなってしまった。時間の感覚が変調を来していた。幼い頃に味わった後悔や、毎日通る道の見慣れた光景まで、様々な記憶が去来した。この筆舌に尽くしがたい体験は、これからもずっと忘れないだろう。
 このように、TDLSは(その名の通り)目や耳だけでなく、手や鼻さらには皮膚や足など、あらゆる感覚を通じて、観客一人一人が自ら「体験」するための旅(ツアー)を構築し、上演する劇団である。しかしそこには、ただ即物的な身体感覚ばかりの世界が展開するのではなく、むしろ豊かな感覚的体験を通して初めてたどり着ける、瞑想的ともいうべき深い内省が自然と喚起されてくる点が興味深い。演出家のバルガスは、1940年にコロンビアに生まれ、首都ボゴタの国立演劇学校で学んだ後、アメリカ合衆国で演劇人類学に出会い、そこから神話や儀礼において身体的な感覚が占める役割について研究を重ねて来たというが、観客の想像力を引き出す魔術的な演出と、官能に満ちたドラマトゥルギーは、「演劇」というにはあまりにも特異な表現の地平を切り拓いているように思われる。

【筆者プロフィール】
武藤大祐 MUTO Daisuke
ダンス批評家。群馬県立女子大学准教授。最近の関心は、20世紀のアジア、およびポストコロニアル・コレオグラフィーの理論。共著に『バレエとダンスの歴史――欧米劇場舞踊史』(平凡社、2012)。韓国のダンス月刊誌『몸』に寄稿。