劇場文化

2012年6月8日

【オリヴィエ・ピィの『ロミオとジュリエット』】死(タナトス)へと疾走する生/性(エロス)(エグリントンみか)

 2011年の初秋、パリのオデオン座で、オリヴィエ・ピィ翻訳・演出の『ロミオとジュリエット』を見た。椰子の木、可動式の木箱と階段、シャッター、ピアノ、ドレッサーといった大道具が、役者たちによって動かされ、目紛しく姿を変える。絢爛豪華な劇場とコントラストを成す、虚飾を剥ぎ取られた簡素な舞台。そこへ喪服を着た役者たちが一同に会して始まり、終わる200分は、悲劇と喜劇、恋愛と憎悪の間を激しく揺れ動き、劇場内の温度を上げながら、瞬く間に過ぎていく。あたかも、死の欲動たるタナトスの暴走を抑える(とフロイトが仮定した)愛と生の欲動たるエロスまでもが暴走したかのように、「不幸な星の恋人たち」の生/性は、死へと直走っていく。
 愛と死への疾走速度をいや増したのは、演出家自身による、大胆なまでに独創的なフランス語訳に他ならない。弱強五歩格を多用したシェイクスピアの英語の韻文を、リリカルな六歩格のアレクサンドランへ、その散文をカジュアルな現代口語へと変貌させたピィの戯曲は、艶かしいレトリックに富んだ恋歌、露骨な猥談、さらには劇聖を揶揄する奔放な言葉遊び( ‘De…secouer…sa poire…Shake his pear…Shakespeare…’「梨(男根)を振れ、シェイクスピア」 第2幕第1場)といった、原作にある様々なモチーフを編み直した、色鮮やかなタペストリーとなっている。
 シェイクスピア戯曲が持つ猥雑さを引き継いだピィ戯曲の恋人たちは、「ロマン主義的な解釈によって流布した、世間しらずのおめでたいカップルのイメージ」を、あざとく裏切ってみせる。ロミオとその父モンタギューの2役を演じるマチュー・デセルティーヌは、一瞬にしてロザラインを忘れ、ジュリエットに夢中になりながらも、半裸で男友達との疑似セックスに興じ、ロミオが異性愛だけでなく、同性愛の手練手管にも富んでいることを臭わせる。カミーユ・コビ(SPAC公演では、セリーヌ・シェエンヌ)演じるジュリエットは、木箱に寝そべったまま登場し、母親のキャピュレット夫人と乳母に呼ばれ、凄みのある低い声で返事をしながら、気だるそうに起き上がる。そして、自分の結婚相手は、命がけでも自ら射止めてみせると叫ばんばかりに、ピストルを構えながら階段を下っていく。かのロミオをリードする程に性愛のレトリックに長けた(原作では若干13歳の)若きヒロインは、手足の長い華奢な体に白いドレスを纏いながらも、純粋無垢な乙女のイメージとはかけ離れた、すでに成熟した女である。
 情熱的というより、動物的といった方が相応しい抑え難い欲動に取り憑かれ、舞台を走り回り、床に倒れ込むタイトルロールたちの性癖は、意味深長なダブリングによって演じ分けられる、ほかの登場人物にも見受けられる。性的な暴言を吐きながら、宿敵モンタギューに半裸で喧嘩を売る召使サムソンと、全裸で乳母を挑発するマーキューシオ(フレデリック・ジルートリュ)。舞踏会でブタの面を被って道化に徹し、快楽を貪る家長キャピュレットと、家長の力を盾にジュリエットに結婚を強いるパリス(オリヴィエ・バラジューク)。ライオンの面を被ってロミオへの報復を誓うティボルトと、黒いヴェールを被ってロミオの毒殺を企むキャピュレット夫人(カンタン・フォール)。ストッキングなどの小道具一つで別の役へと早変わりする手法は、個々の人格の表層性と同時に、異なる人物が持つ隠れた共通点を炙り出し、観客に新たな読みの可能性をも示唆する。
 最終場面、喪服を着た役者たちが再び一同に会し、2人の家長から約束されたロミオとジュリエットの金像に代わって、白い粉が撒き散らされる。「両家の憎しみの生け贄」となった若き恋人たちの灰を撒くことによって、その早すぎた死を弔い、あの世での新床を言祝ぐかのように。

参考文献 ジークムント・フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6』(井村恒郎編 人文書院 1970年)

【筆者プロフィール】
エグリントンみか EGLINTON Mika
翻訳家。神戸市外国語大学英米学科准教授。専門はイギリス演劇研究。SPACで宮城聰演出『ふたりの女』(唐十郎作)、『真夏の夜の夢』(シェイクスピア原作、野田秀樹潤色)の字幕用英訳に携わる。