「明けない夜はない」という表現が嫌いだ。だって、暮れない朝もないから。
それでも、そんな定型句に一縷の望みを仮託して心をサバイブさせねばならぬほど追いつめられていたのである。この『ジャン×Keitaの隊長退屈男』には。
初めて本作に触れた日、それはすなわち初めて作・演出のジャン・ランベール=ヴィルドと会った翌日だったのだが、主演の三島景太さんとの顔合わせを兼ねた食事会の場で手渡された分厚い原稿にはまだ別の方の手になる別の日本語訳が与えられたままだった。公演日はおろか企画自体が実現するのかすら誰にもわかっていない状況で、ジャンだけがひとり、2010年秋に初めてSPACを訪れた際たまたま観劇した『わが町』(今井朋彦演出)で三島さんを発見したときの想い出、運命の出会いを実感したその衝撃について熱病に浮かされたように語り続けていたのを覚えている。
やがて故あって正式に翻訳を仰せつかったのが2011年春のこと。以来、実に丸3年もの長きに渉りこの作品にこれほど苦しめられようとは、あの時点では予期すべくもなかったのだった……ごめんなさい。嘘です。してました。むしろ丸ごと。いわゆる「想定内」というやつです。って古いですか。すいません。
なにしろ聞けばこの話にはフランス版オリジナルがあるという。しかも舞台は第一次世界大戦の塹壕戦で、主人公はもちろんフランス人兵士。それを第二次世界大戦の日本兵の話に変えようというのだ。つまり翻訳のみならず大胆な翻案の作業も避けられない。よりによって格別の慎重さと厳密さが求められる戦争モノの時代考証(下手したらすっごく叱られるぞ。誰かえらい人から。たぶん)を、「コニチワ」「アリガト」「サヨナラ」しか知らないジャンと、しがないフランス語翻訳家の2人(+演出助手のアリシアちゃん)だけでやろうってそれはもう正気の沙汰とは思えない。お願い嘘だと言って。言わないとぶつよ?
などと自暴自棄を起こしていても始まらない。為せば成る、為さねば成らぬ何事も、と原文の精読にとりかかった私の健気なポジティヴ・シンキングはしかし、ものの3ページで打ち砕かれた。ジャンの操る圧倒的な「詩語」の前に。縦横に響き合う音韻、奇怪にみえて幾層にも意味を湛えた比喩、キリスト教文化圏の高度なリテラシーを要求される引喩・オマージュの数々……代名詞ひとつとってもどれをどう受けているのか容易には策定を許さない。しかもそのすべてが一人の男の長大なモノローグとしてはてしなく語り下ろされてゆく。うつくしい悪夢のような構造。想像を遥かに上回る詩語の濁流。
「大げさだなあ。フランス演劇のモノローグが詩語に溢れているのは読むまでもなくわかりそうなものじゃないか」と思われる方もあるかもしれない。なるほど優れた演劇作品がフランスものに限らず「詩性」に貫かれているのはむしろ必定だ。ただし、純粋に言語という観点からすれば「詩性」と「詩語」とは必ずしも等号では結ばれない。まったき詩の器に盛られたジャンのような詩性もあれば、日常的でポップな言語の躍動する詩性もある。先般、やはりここSPACで上演されたパスカル・ランベール作・演出の『愛のおわり』などはさながら後者の極北であり、日常言語を暴走させ、そのドライヴ感を詩性へと昇華させるパスカルと、古典を彷彿とさせる高踏的なジャンとはまさに好対照のスタイルといえるだろう。
ついでながら両者は作中における「性」に関しても見事に対照的なスタンスだ。正視にも清聴にも耐えがたい性描写をこれでもかとセリフにねじ込み高笑いするパスカルと、五感と語感を総動員して受け止めなければすり抜けていってしまうほど密やかな仕掛けに綴じ込んで忍び笑いするジャン。そんなジャンは日ごろから際どい発言を連発し(いわゆるエスプリというやつであります)、貴婦人のごとく潔癖(下ネタに関してだけ、ですが)なのがパスカルの方というあたりも芸術家の在りかたとして実に示唆的ではなかろうか。
ともあれそんな、どこまでも両極端なふたりの言語を、あろうことか(納期の関係で)ほぼ同時進行で訳す羽目に陥った私。なんてかわいそうなんでしょう。複数をかけもちしている翻訳家というものはふつう、ひとつの作品に行き詰まると他の作品へ逃避して気分転換を図るものだが、今回はそれすらも許されない。だってどっちも逃げ出したいほど難しいんだもん。時差を利して夜ごとジャンとのスカイプミーティングを重ね、翻訳と翻案を並行して進める日々。数多の参考文献をひっくり返し、映像資料をかき集めネットを検索しながら、朝起きたらすべてなかったことになっていないかしらん、と何度願っただろう。なんとかでっちあげた第1稿といったらもう、どこからどう突っ込んでよいのか皆目見当もつかぬほど奇妙奇天烈な言語世界であった。あの原稿を手渡された三島さんの心中いかばかりであったろうか……私だったら泣いてますね、絶対。
なにより私は――この際だから書いてしまうと――斯様に困難な作業に営々と取り組む一方で、そもそも本作を翻案する必然性について確信がもてずにいた。「塹壕戦に挑むフランス兵と南洋で滅びゆく日本兵。国や時代は違えど極限状態におかれた人間の孤独と狂気には普遍性がある」というジャンの主張はよくわかる。けれども言語のレベルで考えれば、せっかくここまで高度に洗練された原文を翻案と称してあちこち負荷をかけながら日本語にしたところで、自慢の修辞は過剰装飾に、豊かな暗示は時代遅れの教条主義に回収され、暑苦しくも野暮ったい「翻訳劇」に成り果ててしまうのではないか。なんかよくわかんないけどインテリの人は好きそう、と片づけられるのだけは避けたい。ああいうセリフって言ってる本人は気持ちよさそうだけど観てる方は気恥ずかしいよね、なんて失笑を買ったら悲しすぎる。きっと三島さんも同じ気持ちだったと思う。
そんな不安と諦念の相半ばした状態でフランスはカーン国立演劇センターへと滞在製作(といっても日本での世界初演に向けた稽古なので、いわば逆輸入製作だが)に招かれた私たち。到着と同時にジャンからご馳走尽くしのめくるめく歓待を受け、さらなるプレッシャーに苛まれる三島さん(きまじめ炸裂)と、あっさり上機嫌になる平野(くいしんぼう万歳)。
一夜明け、ついにやってきた初稽古のスタジオで三島さんが三島さんの顔と身体と声をもって最初の台詞を発語した。それだけで、あらゆる不安はものの見事に瓦解した。これならいける。大丈夫。間違いない。まだ稽古は少しも進んでいないのに、1時間強を堂々演じきって爆雷のような拍手に包まれている三島さんの姿がみえた気がした。それほどに三島さん演じる隊長は、強靭で、滑稽で、繊細で、なによりジャンの言語と遥かに隔たっていた。修辞に満ちた流麗な詩の言葉たちに対して、むせかえるような存在のリアリティをまとった三島さんの身体はあまりにも異質で、どこまでもちぐはぐだった。
そしてあくまでも、泥臭かった。
ときに無様で、荒誕(こうたん)でさえある三島さんの泥臭い肉体は観る者に安直な陶酔を許さない。常に限界の向こう側を指向する三島さんの泥臭い全力は、シニシズムに自閉して傷つくまいとする者を汗みどろの世界へと引きずり出す。
かくして陶酔を拒む肉体は、言語も文化も性別すらも超克して疾走する。否、這いずり回る。匂い立ついのちの湿地帯を。文字通り、身一つで。
【筆者プロフィール】
平野暁人 HIRANO Akihito
翻訳家。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手がける。訳書に、カトリーヌ・オディベール『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)、クリストフ・フィアット『フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ』(明石書店)などがある。『ジャン×Keitaの隊長退屈男』の翻訳と通訳を担当。