劇場文化

2014年4月26日

クソ社会で見る一瞬の夢〜天野天街版『真夜中の弥次さん喜多さん』に寄せて〜(宮台真司)

※作品内容に言及する箇所がございますので、事前情報なしに観劇を希望される方には、観劇後にお読みになる事をお勧めいたします。

ITOプロジェクト(関西在住人形劇界有志連合)が上演した『平太郎化物日記』を下北沢で観劇したのが2004年夏。それが天野天街氏の演出する芝居の初体験だった。一見すると物語の本筋と関係ない遊戯性の過剰が眩暈を醸し出す。それが迷宮感として語られる。他方、あまり語られないが、構造的かつ伝統的な構成がもたらす批評性の的確さに鳥肌が立った。

以降、天野天街氏の芝居を全て観た。どの芝居でも、恣意的な遊戯性の過剰は、ループに代表される時間軸上の混乱を必ずバックボーン(背骨)としていた。だから最終的には恣意性や過剰さが必然的だったことに納得せざるを得なくなる。しかもこの時間軸上の混乱が、戦間期前期のモダニズムを構造的に反復するものであることで、明確な批評性に結びつく。

戦間期モダニズムは所謂近代主義ではない。そこでは、消えゆくもの(ノスタルジー)と現れ出づるもの(テクノロジー)が交差する。消えゆく闇、現れ出づる光。光と闇の綾が醸す仄暗い時空。仄暗い時空で人は変性意識状態(トランス)に導かれる。そこでは現実と虚構、善と悪、美と醜、生と死が、反転また反転。そう、天野天街的な時空も同じなのだ。

日本の戦間期は1923年の関東大震災を機に始まる。「十二階」が倒壊した浅草も復興に向かうが、並行して後藤新平の帝都大改造計画に従って銀座の開発が進む。帝国議会で予算が通らず計画は銀座開発のみで頓挫したが、20年代後半は「浅草から銀座へ」のホットスポットの転換が生じた。モボとモガ。人は銀座の方がずっとオシャレでモダンだと思った。

異を唱えたのが江戸川乱歩や川端康成だ。戦間期前期はカオスの時代。満州事変に始まる戦間期後期は統合の時代だった。人はカオスよりも統合の方が近代として完全だから尊いと見た。乱歩と川端はこうした見方を〈感情の劣化〉だとした。完成された近代を仰ぐ教養主義者(地位エリート)に対し、仄暗い時空を愛でる卓越主義者(センスエリート)である。

短編『押繪と旅する男』(1929年)に活写されたように、乱歩は仄暗い時空が程なく終焉することを弁えていた。現れ出づる光が強くなれば、消えゆく闇はやがて視界から消え、光と闇の綾からなる仄暗い時空も消えるしかない。だがそんなフラットな時空は人間にとって–とりわけ日本人にとって–生きる甲斐はない。結局、生きる甲斐のある社会は終るのだ⋯。

光と闇の織りなす綾が醸す仄暗い時空。戦間期前期には、程なく消えると予感されつつ、それが実在した。充ち満ちた光でスーパーフラット化した我々の現在には、実在しない。現在は、仄暗い時空ならぬ、光に満ちた暗黒。我々は永久に暗黒に留まるしかないのか。これが天野天街氏の問題設定だと思う。そこではかつてのモダニズムが知恵として甦ろう。

喜多さんが弥次さんをお伊勢参りに誘う。道中の宿屋での一室が舞台となる。前半はループモチーフの反復で観客はトランスに誘われる。畳のシミを踏むと時間が戻るのを知り、片方が舌をかみ切って死んだら、もう片方が畳を踏んで生き返る。この遊びが反復される中で「リアルじゃねえ」の台詞が反復され、観客を変性意識状態に誘う意図が示される。

それに続く「うどんの出前」の挿話では「喜多さんに見えて弥次さんには見えない」というモチーフに「弥次さんに見えて喜多さんに見えない」というモチーフが続く。これは喜多さんの妄想に弥次さんが巻き込まれ、続いて弥次さんの妄想に喜多さんが巻き込まれることの謂いだろう。この鏡像的な反復が、空しさと豊かさの両義性を感じさせる仕掛けだ。

原作では、ヤク中でゲイの喜多さん、その恋人で女房持ちの弥次さん、という設定だが、天野天街版では当初この設定は明示されない。やがて「タビ」と書いた紙が観客に「死」を暗示し、終盤《お房と切れるかオイラと死ぬか》と叫ぶ喜多さんが弥次さんを刺殺しようとする場面で漸く、二人がゲイの関係にある事実と、お房を含む三角関係の存在が示される。

だが喜多さんが弥次さんを刺殺したのか(先の台詞で示される喜多さんの妄想)、弥次さんが自分の奥さんを殺したのか(《ギッチョンギッチョンにな》で示される弥次さんの妄想)は明かされない。続くスラップスティック・ムービー的ドタバタの末、話が冒頭にループしたかと思ったら、《終ったらまたすぐに始まんのよ》云々の遣取りで「劇終」となる。

「死」の暗示以降の展開は、この芝居が手品仕立て(腕の伸長、杖の空中出現、障子穴の移動⋯)をモチーフとする喜劇タッチであるのは見掛けで、実態はドロドロの痴情のもつれの劇であること、それゆえの薬物逃避の劇であること、お伊勢参りという名の絶望の逃避行の劇であることを明かす。目を凝らせば、光と闇が交錯した仄暗い空間が見えてくる。

この芝居は、〈クソ社会で見る一瞬の夢〉をモチーフに据えた自由についての思索である。窓の外に降るザアザア雨や、窓の外で仰仰しく鳴く蝉や、痴情のもつれからの殺人の暗示などは総じて、この世が〈クソ社会〉であることを指し示す。そして《終ったらまたすぐ始まんのよ》に象徴されるループが、〈クソ社会〉が永久に終らないことを暗示しよう。

我々は〈クソ社会〉の中でポジション取りゲームをする浅ましい存在だ。猥雑やカオスの否定面である。だが、猥雑とカオスを極めれば、現実と虚構、善と悪、美と醜、生と死が反転し、〈クソ社会〉なのに、否、〈クソ社会〉だからこそ、そこに〈一瞬の夢〉が浮かび上がる。猥雑やカオスの肯定面である。かくて闇と光が交錯する仄暗い空間が現出する。

この芝居は、我々に自身の不自由を突きつけて不快にさせるテロだけでは終らない。溜飲を下げるだけで何も変えられない社会批判では終らないということだ。自由に見えて不自由という時代は終った。我々は明白に不自由でそれがデフォルトだ。この芝居は我々が絶望的な不自由にもかかわらず前に進めるよう〈クソ社会で見る一瞬の夢〉という作法を示す。

例えば局所的に何度も反復されるループ。一度目はリアル。二度目はアンリアル。三度目以降はリアルとアンリアルの混淆による不確かさ。三度以上反復されると我々はフワッとした変性意識状態に陥る。トランス(夢)に陷りやすい状態、ということだ。夢の中では、現実と虚構、善と悪、美と醜、生と死が、容易に反転し得る。我々は自由な存在になろう。

そこには我々の不自由の指摘を超えた批評性も孕まれる。ループA、ループB、⋯と数多のループを体験するうち、我々は、一回的なリアルなど存在せず、何度も繰り返されてきたリアル(であるがゆえのアンリアル)、万人が経験するリアル(であるがゆえのアンリアル)に過ぎないことを実感する。そこではリアルが非必然化・相対化され、我々は自由になろう。

リアルの非必然化は、天野天街流の「工夫のインフレ」によってももたらされる。布団から人が出入りし、畳穴からしゃれこうべが出入りし、人間が箱人間化し、腕が伸長し、杖が空中出現し、障子穴が動き、障子穴からうどんが延びる。どれも愉快で面白い。でもどうでもいい。「工夫のインフレ」によるリアルの非必然化も、天野天街流の仕掛けだ。

この芝居もノスタルジー素材のオンパレードだ。蝉の声であり、障子の外の雨であり、畳のシミであり、弥次さんが歌う昭和的なメロディーである。だがこれらノスタルジー素材はテクノロジー素材と交錯する。雨もmean meanという蝉の声もプロジェクターが映し出す。弥次さんが歌うのはマイクを通してであり、うどんはiPhoneで注文されるだろう。

そこでは、消えゆくものと現れ出づるものが必ず並行的に示される。ノスタルジーへの耽溺はない。消えゆくものは、消えゆく以上、いずれは消えてなくなる。それはそれでいい。だが消えゆくものと現れ出づるものの交錯は、出鱈目なカオスに見えて、それ自体が〈一瞬の夢〉だ。〈クソ社会で見る一瞬の夢〉だけが我々を自由にしてくれる。間違いない。

【筆者プロフィール】
宮台真司 MIYADAI Shinji
社会学者。首都大学東京教授。著書に『宮台教授の就活原論』(太田出版、2011年)、『きみがモテれば、社会は変わる。』(イースト・プレス、2012年)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎、2014年)等多数。