劇場文化

2012年6月2日

【ペール・ギュント】ペール・ギュントはエヴリマンか(毛利三彌)

 ヘンリック・イプセン(1828-1906)は近代リアリズム劇の父、社会問題劇の確立者。今も世界中で、シェイクスピアについで多く上演されるといわれる。代表作は?と問えば、一昔前の演劇愛好者なら、即座に『人形の家』『ゆうれい』『ヘッダ・ガブラー』と、あがったものだ。だが、イプセンの祖国ノルウェーで、彼が書いた25の劇作品のうち、どれがいちばん好きかと問えば、おそらく10人のうち8人は、『ペール・ギュント』と答えるだろう。これは社会問題劇を書き出すよりずっと前、1867年に書かれた厖大な劇詩。わたしもノルウェーで同じ答えをしたら、へえ、日本人に『ペール・ギュント』が分かる?という顔をされた。これは典型的にノルウェー的な劇だと、彼らは思っている。
 ペールは、ノルウェーのど真ん中とされる中央山岳地帯の伝説上の人物。それをイプセンは、大言壮語だが日和見的、無鉄砲だが自分本位の、憎めないペール像に仕立てた。ペールは、山にひそむトロルの王国に乗り込む。トロルは、ノルウェーお伽噺でよくみる妖怪、妖精、魔物をいっしょくたにしたような、みにくい間抜け。これはノルウェー人の独善性の象徴だ。
 イプセンは一級の詩人と目されるが、この劇詩には近代ノルウェー語の複雑な状況もからむ。それには、これまた複雑な近代の歴史がからんでいる。ノルウェーは、19世紀初めのナポレオン戦争でナポレオン方について敗戦国となったデンマークの属国だった。だから、戦勝国スウェーデンに割譲され、それまでの支配的なデンマーク語文化から脱却しようと、地域に根ざした伝統的な言葉から、新しいノルウェー語を作り出す試みがなされた。てんやわんやの言語紛争の結果、1905年の完全独立のあと、デンマーク語系と新ノルウェー語の両方が国語と認められた。イプセンはこの劇で、混乱した国語事情をとことん皮肉っている。
 世界でも最前線の福祉国ノルウェーは、いまは北海油田で大いに潤っているが、『ペール・ギュント』が書かれた頃は、まだまだ発展途上の貧しい農業国。多くの農民が飢えてアメリカに移民した。ペールのように、世界を股にかけ大金を儲けるのを夢に見て。かつては、といっても、はるかはるかの昔だが、あの有名な北欧ヴァイキングこそノルウェー人の先祖。無人のアイスランドに植民し、ヨーロッパ人で最初にアメリカ大陸を発見した。南はシチリア島まで荒らしまわったが、その最大の成果は、ノルウェー(北欧)のキリスト教化。改宗したヴァイキングたちが戻ってきてキリスト教を国教にしたのだ。だが、土着宗教、土着文化との軋轢は現代までつづく。イプセンは国教会に批判的だったというが、『ペール・ギュント』はもっともキリスト教的な作品とされる。
 ところが、フランシス・ブルというノルウェーの著名な批評家は、戦後、オックスフォード大学で講演をしたとき、ある日本の研究者がペール・ギュントを典型的な日本人だといったという話をした。俄然、1970年頃から、世界の最先端に立つ演出家が、好んでこの劇を舞台にのせ始めた。ドイツのペーター・シュタインは、体育館のような劇場で2晩がかりで上演。第4幕では、巨大なスフィンクスを出現させ、カイロの病院では、全裸の男が首を吊って観客の度肝を抜いた。破天荒なスペクタクル、ユニヴァーサルな喜劇、ペール・ギュントはエヴリマン。初演のときにグリーグが作曲した劇音楽は、『ペール・ギュント組曲』となって世界を巡ってもいる。
 だが、ちょっと待って、とフェミニストたちはいうかもしれない。エヴリ・マンかもしれないがエヴリ・ウーマンではない。女をほったらかして世界中を飛び回り、したい放題のあげく、死に際になって、慰めを求めて女のところに舞い戻ってくるペールを、文句一つ言わずに優しく抱きしめるソールヴェイ。これは女を侮辱している、と、当時も「新しい女」から非難された。しょせん、ペール・ギュントはエヴリ・マンか。今日この劇詩を舞台化するときの、これが最大の問題点。ペーター・シュタインは、ペールを抱くソールヴェイをピエタ像になぞらえた。しかもそれを、写真屋がフラッシュをたいて写真におさめるのである!

【筆者プロフィール】
毛利三彌 MORI Mitsuya
成城大学名誉教授。専門分野は演劇学。またイプセン研究で知られる。主著に『イプセンのリアリズム-中期問題劇の研究』(白鳳社、1984)、『イプセンの世紀末-後期作品の研究』(白鳳社、1995)、『演劇の詩学-劇上演の構造分析』(相田書房、2007)。