劇場文化

2012年6月12日

【ライフ・アンド・タイムズ―エピソード1】<ドラマトゥルク・ノート(抄訳・ロングバージョン)>ルールのある自由 ケリー・コッパーとパヴォル・リシュカの演劇について(フロリアン・マルツァッハー)

 「ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ(オクラホマ野外劇場)」、これはカフカの未完の小説『アメリカ』に登場する怪しげながらも期待を持たせる劇団の名前である。この劇団は、締切日の深夜12時までに応募すれば、誰にでも適切な仕事を提供するという。この小説の主人公であるチェコ出身の移民者カルル・ロスマンもまた、このチャンスをものにして、新たな人生を目指し、すぐにオクラホマ行きの列車に乗り込んでいく。
 演出家で劇作家のケリー・コッパーとパヴォル・リシュカは、2003年に自分たちの劇団を立ち上げる日まで、ずっとこの劇団名を頭に思い描いていた。それまでのパヴォル・リシュカの人生は、小説のように波瀾万丈というわけではないにしても、このカフカの作品と驚くほど似ていたからである。スロヴァキアの小さな街で生まれ育ったリシュカは1991年、18歳の時に、うさんくさい短期の求人に応募して渡米することとなった。それまで一度も外国旅行をしたこともなく、兵役に就くはずだったのに、それから1週間もしないうちに、リシュカはオクラホマに降り立った。
 リシュカは仕事のない昼間に、大学で哲学と創作の授業に出るために、夜中必死に英語を勉強していた。成績が悪いと、学生ビザを失ってしまうからだ。オクラホマは、リシュカにとってのアメリカでの故郷だった。

 リシュカは1992年、ニューハンプシャー州のダートマス大学で創作と演劇を学んでいるときに、ケリー・コッパーに出会い、2人でニューヨークに引っ越して、イーストヴィレッジのワンルームマンションで長い間一緒に暮らし、作品を創っていくことになる。かつて「前衛の都」と呼ばれたこの街が生んだ近年の最も注目すべき作品のうちのいくつかは、2004年以降、この2人が「ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ」名義で創ったものである。[…]

 今ではとりわけヨーロッパで成功を収めているとしても(ここ数年でほとんどの重要な国際演劇祭に登場し、ザルツブルクでは「若手演出家賞」を獲得した)、2人の演劇には明らかにニューヨーク的なところがある。それは単に、ウィーン・ブルク劇場とアメリカの俳優を共演させた『ライフ・アンド・タイムズ』が「ミュージカル」というアメリカ独自の芸術形式を用いているから、というだけではない。この2人が影響を受けたのは、確実にマンハッタンの風土なのである。レディメイドの発明者としてのマルセル・デュシャン、日常生活をアートにまで高めたアンディ・ウォーホル、ジョン・ケージやマース・カニンガムに見られる偶然的選択、ケン・ジェイコブスによる映像の再使用、リチャード・フォアマンによる舞台や観客の操作、ウースター・グループに見られる完璧さの魅惑と過剰な要求、そして忘れてはならないのが、トラッシュとキャンプを賞讃するジャック・スミスの独自の美学である。これらの全てが、ネイチャー・シアターの作品のうちに影響を刻んでおり、ネイチャー・シアターはひそかに、歓びをもって、自らをこの伝統に属するものと見なしている。[…]

 『ライフ・アンド・タイムズ』は、単にクリスティン・ウォラルの人生を映し出しているだけではない。このテクストは、6人の俳優に振り分けられることで、複数の人物の伝記のようになっている。振付に関しては、リシュカはとりわけ自分の子供のころに見た動きや写真を使っている。「スパルタキヤード」というのは、チェコスロヴァキアで(また他の旧東欧諸国で)行われていた陸上競技大会の名前である。中でも、振付を伴った集団での体操が見ものだった。物語をより匿名的なものにするために、ウォラルの話に出てくる人名や地名のうちのいくつかは、ケリー・コッパーの似たような子供のころの想い出の人名や地名に置き換えられている。
 こういった戦略や技法はつねに(演劇よりもむしろヴィジュアル・アートや文学といった分野において)、いわゆる「 作者問題」を提起することとなる。だが、コッパーとリシュカが自分の作品について出した回答は、控えめなものではない。確かに2人は他の人が作った素材を使っているが、選択し、文脈を作り、形式を作ったのは、つまり素材から芸術作品を作ったのは、この2人なのである。芸術形式は、自分自身について考えていることよりも、何らかの意味で優れたものでなければならないのである。[…]

 ネイチャー・シアターにとって、演劇のライブ性について真面目に考えるということは、全く同じ公演は決してないということ、それぞれの公演は新しいものとして展開されるということである。初日が明けてからだいぶ経っても、演出家が全ての公演に立ち会うのは、このためである。惰性に陥らないように、パフォーマンスのルールについて、新たな指示や変更を(時には上演中に)出すこともよくある。[…]

 芸術的な手法としての偶然と自由は、明確に決められたルールがある限りにおいて意味を持つ。「何でもあり」では、美学的には大したものを生み出すことができない。コッパーとリシュカが劇作品のなかで使う制約やハードルは、特に重要な意味を持っている。パフォーマーにとっての自由と演出家によるコントロールのあいだ、予見できないものと几帳面さとのあいだのバランスを見出さなければならないのである。パヴォル・リシュカのカールした口ひげや、往々にして造花や小鳥があしらってあるケリー・コッパーの装飾的な髪型といった2人の外見は、まさにこの原則を表すものでもある。2人が自分たちの活動を真面目なものと捉えてほしいと思っているとすれば、それは自分自身に対しても、相手に対しても、特別な努力を要求することになる。この2人は、人生においても演劇においても、あまりに容易なものには価値があるとは思っていない。また、一見やすやすとやっているかのように見える名人芸にも興味がない。これは彼らにとっては、自分に対する挑戦を十分にしていない証であり、まだ自分の限界に至っていないことの証なのである。マジックが面白いのは、それが本当の魔術ではないと分かっているときだけなのだ。
 両足を動かしながら妙な顔をしている俳優が、どうやって実存に関することを伝えうるのか。見るからにしんどい作業によってである。通常は台詞とともに俳優の最も重要な援軍となるしぐさや動きも、俳優の味方になってくれないどころか、敵対しさえする。大きな障害を持った人が、何かを伝えるために、唇の震えや窮屈な様子で、一生懸命になって、誇張された発声をしているのに似ているかも知れない。私たちも、その意味を理解するためには、集中して耳を傾けなければならないのである。[…]

 『ライフ・アンド・タイムズ』においては、俳優が直面しなければならない制約やハードルは多種多様である。[…]振付は台本の中身とは必然的な関係がなく、厳密な左右対称が要求され(必ずしもそれが成し遂げられるとは限らないが)、とりわけ俳優たちがダンサーでも歌手でもないこと(歌手であるジュリー・ラメンドラを除けば)を考え合わせれば、そのために高度の集中と相互調整が必要であることが分かるだろう。これに加えて、出演者の背景の多様性もある。ニューヨークのインディペンデントシアター出身の俳優たちが、ブルクテアターの俳優たちと一緒にパフォーマンスを行っているのである。これによって、中央ヨーロッパとアングロサクソンの演技の伝統のあいだの違い、音楽への対処の仕方の違いといった、言語問題に似た問題も起こりうる。
 俳優が保身のために一定のパターンに陥ったり、戦略を立てたりするたびに、そういった努力は裏をかかれることになる。保身は退屈であり、常にバーはより高く設定されなければならないのである。こうして、たとえば、つねに新たな振付が導入されることとなる。高すぎるハードルは(演劇においては往々にしてそう考えられているように)不完全さの表れでも欠点でもなく、ここではむしろ意図的に導入されている。「何百人もの人たちが君たちを見るために座っているんだ。君たちが楽をする必要がどこにある?」というわけである。
 ネイチャー・シアターの公演は観客にとってパズルのようである。どこに焦点を合わせるかによって、表面にばかり気を取られることもあれば、その裏にある物語に集中することもある。形式と内容はつねに紛争状態にある。台詞も、演技も、メロディーも、空間構成も、衣装も、特定の意味を表象するものではなく、演出家が1つの明瞭な解釈に興味を向けるためのものでは全くない。これらは贈り物であり、これらが結びついて文脈を決める要素となっていくが、そこから自分自身にとっての意味を導き出すことは、私たちの手にゆだねられている。そう、私たちにとっても、あまりにも容易であれば、自分が到達できるであろうところまで行くことができないのである。