劇場文化

2020年4月1日

悲劇喜劇2020年3月号掲載[追悼 クロード・レジ]◆クロード・レジ、岸辺への案内者 宮城 聰

カテゴリー: 2020

 二〇〇七年にSPACの芸術総監督に着任したとき、僕は「まだ日本で公演を行なっていない真の巨匠はクロード・レジだ」と考えていました。
 ですのでなんとかレジ氏の作品を招聘できないかと機会を伺っていたのですが、幸いにして二〇一〇年に『彼方へ 海の讃歌オード』をSPACの演劇祭で上演することができました。
 もちろんこれも簡単に実現したわけではありません。フランスでの装置をそのまま運んでもらうとコスト面で我々の手には負えず、しかしレジさんはツアー先で装置を簡略化するなどという妥協は決して許容しない人なので、SPACの劇場のひとつである「楕円堂」という空間そのものが優れた装置だと納得してもらえるよう、まず舞台美術家を招聘して楕円堂での上演がどうすれば可能になるかを検討してもらい、さらにその上で、最後は、公演の前に二週間近い稽古期間を設けるという条件で、やっと実現にこぎつけました。
 そしてこれがちょっとした奇跡を呼び寄せました。二週間ほどSPAC内の宿舎に滞在しているあいだ、レジさんはSPACの俳優たちの仕事ぶりを目にすることになったのですが、その中で次第に「この俳優たちとならばメーテルリンクの『室内』を創れるのではないか」という思いを抱いてくださるようになったのです。
 実はもう十数年、レジさんは四人以上の俳優が出演する作品を創っていませんでした。レジさんの稽古はあまりにも禁欲的で、本番も全ステージをレジさんが客席中央で観てノーツを申し渡すというやり方なので、フランスの俳優でその「ぎょう」のようなプロセスに飛び込める人は多くなかったんですね。『室内』はレジさんにとって宿願の作品でしたが、出演者が十二人。諦めきれなかったこの芝居を、日本の役者となら創れるかもしれないと考えてくださったのです。
 レジさん、九十歳の年のことでした。

 では、レジさんはいったい何を表現しようとしていたのか。
 レジさんが演出したテキストは、すべて「詩」でした。戯曲の形式で書かれているものもいないものも、レジさんが詩だと思うテキストだけを舞台化していました。
 では、詩を舞台化するというのはどういう作業なのか。
 いま(少し冷静になれた)僕が考えるのは以下のようなことです。
 この世に言葉はあふれているけれど、その中でごくわずか、「生き死にに関わる」言葉というものがある。「絶対的な詩」と呼んでもいいその言葉、書き手にとってのっぴきならないそのような言葉が生まれた瞬間、それを記しながら書き手の身体はしたたかに傷を受けている。もちろんその「傷」は、死に向かうものばかりでなく、俗世の上空にある「喜び」に向かわせてくれるものもある。そのような「深い生き死に」に関わる言葉を、その言葉が書かれた瞬間の詩人の身体の「傷つき」とともに出現させること。つまり俳優があらゆる防具を捨ててその言葉の生まれた瞬間瞬間のからだを生きること。レジさんが求めていたのはそういうことではないか。「絶対的な詩」は、その言葉とほんとうに直面した人間を「生の岸辺」に連れてゆきます。その岸辺の向こうにあるのは、死、あるいは彼岸でしょう。いずれにしても、それは怖ろしいものではない。なぜなら、それを見ることで人はやっと「生」を知ることができるのだから。
 レジさんはそのことを僕らに伝えようとしていた。いま、僕にはそう思えるのです。

宮城聰(みやぎ・さとし)
演出家、SPAC‐静岡県舞台芸術センター芸術総監督。一九五九年東京生まれ。東京大学で小田島雄志・渡邊守章・日高八郎各師から演劇論を学び、九〇年ク・ナウカ旗揚げ。二〇〇四年第三回朝日舞台芸術賞受賞。〇七年四月SPAC芸術総監督に就任。一四年七月アヴィニョン演劇祭から招聘された『マハーバーラタ』の成功を受け、一七年『アンティゴネ』を同演劇祭のオープニング作品として法王庁中庭で上演。平成二十九年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。一九年四月フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。