2013年9月24日

【愛のおわり】『ソクラテスの冗長率』(平野暁人)

 「とんでもない大成功だよ。こんなの初めてだ。頭が追いつかない」
 そんなメールがパスカルから舞い込んだのは、アヴィニヨンの興奮冷めやらぬ2011年8月上旬のことだった。ちょうど7月から休暇と語学研修を兼ねてイタリアの港町に滞在していた私は、パスカル本人から誘われていたこともありなんとか予定を調整して現地まで観に行こうとするも叶わず、仕方なくお詫びかたがた様子伺いのメールを送るにとどめておいたのだが、そこへこの存外浮かれた返信である。
 大成功? あのパスカルの作品が?
 憚りながら、フランス演劇界におけるパスカル・ランベールの経歴とその立ち位置の特異性に少なからず通じている人間にとってこれほど不条理に響くフレーズもないだろう。私自身、パスカルとは『演劇という芸術』『私のこの手で』(ともに2009年11月こまばアゴラ劇場にて上演)以来の付き合いだが、前者では老優が仔犬(本物)相手に延々と問わず語りを続け、後者では完全暗転のなか極小の蛍光灯がひとつまたひとつと灯されてゆきやがて浮かび上がった人間の姿をみれば両性具有、という具合に、いまこうして思い出しながら描写してみてもつくづくカオスである。また翌2010年にここ静岡の野外劇場「有度」にて『世界は踊る〜ちいさな経済のものがたり~』を上演する機会を得た際には、一転して一般参加者を数十人も募りフランス人俳優たちと共に舞台を埋め尽くしてみせた。そんな、常に作・演出を旨とし、自身が芸術監督を務めるジュヌヴィリエ国立演劇センターにおいても新作しか上演させないという徹底したスタイルをとっているパスカルを、コンテンポラリーという枠組みすらもどかしく独自の詩的言語を磨き続けるあのパスカルを、アヴィニヨン中が祝福しているという。頭が追いつかないのはこちらの方だ。
 ほどなくして送られてきたDVDを観て、私は再び絶句した。本気でこれを上演しようというのだろうか。この日本で。不可能だ。まず、これほどのテクストを訳しきれる自信がない。よしんば訳しきれたとして、日本の観客に受け入れられるスタイルだとも思えない。しかしこちらの当惑をよそに日本版の制作準備は着々と進められてゆく。さらにはイタリア、ロシア、アメリカ、クロアチアといった諸外国版の度重なる成功が申し分のない追い風を吹かせる。気がつけば、『愛の終わり』の翻訳を担当していると告げただけでフランス演劇人から一目置かれるほどの作品に育っていた。私はといえば、そんななかでもやはりひとりで途方に暮れていた。2013年1月のあの日までは。
 その日、フランス国内で既に何度目かの再演となるパリ・ポンピドゥーセンターでの公演を体感したその瞬間に、迷いが断ち切れた。明らかに、国も文化も超えた情動が眼前で脈打っていた。なにを伝えるべきかはわかった。あとはどう伝えるべきかだ。すなわち(私の職分に限っていえば)いかに正確に翻訳するかのみならず、日本語を監修してくださる平田オリザ氏へパスカルの詩性をいかに緻密に引き継ぐかが鍵となる。
 ところで、私のような演劇の素人が失礼千万を承知で申し上げるならば、今回の平田氏とパスカルとのコラボレーションがどう結実しうるのかについては当初、あまりはっきりとしたイメージが抱けずにいた。なにしろ周知の通り、平田氏といえば計算され尽くした「言い落とし」「あいづち」「言い間違え」さらには「不在」といった手法を駆使して逆説的に人間の関係性を描き出す「対話(ダイアローグ)」の達人である。翻って本作を貫くのは西欧言語文化のお家芸ともいえる長大なモノローグ(独白)であり、しかもパスカル自身はこの言葉の奔流を初めから終わりまで一切の句読点も改行もなしに「ソクラテスの犬を追って(本人談)」、すなわち絶えず四方八方へと寄り道する思考の流れをひたすら辿って書き上げたという。いうなれば気が遠くなるほどに長く無秩序な一文で綴られた戯曲なのだ。ますます好対照を成すばかりにも思える両者の言語世界はいかにして交わりうるのか。
 はたして、「対話」と「犬」を結ぶ手がかりは「冗長率」にあった。「冗長率とは、言語学の世界の用語で、一つの文章のなかに、どれほど、伝えたい情報と(一見)無縁な内容が含まれているかを示す数値である(平田オリザ著『演劇入門』より)」。ここでは仮に台詞のなかのノイズと言い換えてもいいだろう。対話の達人が配した無数のノイズを媒介として研ぎ澄まされてゆくモノローグ。そうして至高に達したモノローグはやがて自ずから対話の相貌を呈し始める。パスカル―平田版ならではのこのパラドックスをぜひ感じ取っていただきたい。
 世界初演の幕が上がる。

【筆者プロフィール】
平野暁人 HIRANO Akihito
翻訳家。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手がける。訳書に、カトリーヌ・オディベール『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)、クリストフ・フィアット『フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ』(明石書店)などがある。『愛のおわり』日本版の翻訳を担当。


2013年8月13日

【タカセの夢】『タカセの夢』の夢(横山義志)

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 今年8月頭、韓国公演出発前の『タカセの夢』通し稽古を見た。この作品を見るのはもう何度目か分からないが、まず冒頭の、制服を着た女子中高生が歓声を上げながら走りまわる場面で、もう何度となく見ているはずなのに、えらくどきどきする。思えば自分が中学生、高校生の頃は、その年代の男の子なり女の子なりの集団がいかに大変なものかというのはよく分かっていたはずなのに、それから少し経つと、あっという間に忘れてしまうものだ。一言でいえば、動物性とでも言えばいいだろうか。
 『タカセの夢』はやたらとハイブリッドな作品である。日本の童謡やヨーロッパのバロック音楽がアフリカの音楽と同居している。だが、不思議と違和感を感じさせない。最近の舞台では、「多国籍」な作品というのはよく見るようになったが、顔かたちや文化の違いを超えて、このように「人間」というものを感じさせてくれる作品というのは、なかなか出会うことがない。ここでは、都市に棲み、スーツを来て電車に乗る大人たちから、花の咲き乱れる草原で動物に囲まれて歌を歌う子どもたちまで、生き物としての「人間」の姿が、なぜかひとつづきにつながって見える。たぶんそれは、「動物としての人間」を肯定しているからだろう。
 近代の文化は、他の生物に対する人間の優位を原理として打ち立てることで成立してきた。そのために「動物」と「人間」は対立させられ、人間の「動物的な部分」は否定され、抑圧されてきた。だが、そもそも「人間の優位」というのは、そんなに自明なことではない。この「人間の優位」は、動物と共通する肉体ではなく、他の動物が持たない言葉にこそ人間の価値がある、という発想にもとづいている。「言葉は、人間だけがもっているもので、知識や文明を蓄積し、新しいものをつくりだして環境を変化させることができるものです。[…]でも、特別なのは他の動物も同じです。たとえば、発した超音波が物に当たって反響するのを聞くことで外界を認知するのは、コウモリの特徴です。鼻のまわりの筋肉を花びらのように発達させ、地中や水中の虫を掃除機のように吸い取るのはホシバナモグラだけ。みんな特別なんです。」(注)
 コトバもまた、ヒトという動物の身体能力だと考えてみれば、世界はだいぶ違って見えてくる。「ずいずいずっころばし、ごまみそずい!」と歌うとき、ヒトは何を考えているんだろう? というのは、ちょっと間抜けな問いであって、ヒトはそのとき、踊るときと同じように、コトバを発して、それを分かち合うということ自体を楽しんでいるのである。ヒトは動物以上でも、以下でもない。だからおごるべきではないが、卑屈になる必要もない。他の生き物たちと同じくらいには、楽しく生きる権利を持っているはずだ。だが、自分が動物であることを忘れてしまえば、あらゆる幸福を見失うことになるだろう。
 2010年にこの企画を立ち上げるとき、ニヤカムさんは「大人に希望を与え、生きる上で一番大事なことを教えられるようなダンス作品」を作りたい、と言っていた。「子どもや若い世代が他の人とコミュニケーションを取りにくくなっている原因の一つは、携帯電話・インターネット・テレビゲームなど、身体を介さないコミュニケーションがあっという間に拡大してしまったせいだ。子どもたちは本当は他の子どもたちとじゃれあったりしたいのに、子どもたちの世界に電子機器が浸透していくにつれて、そんな機会はどんどん奪われていき、身体を通じたコミュニケーションに対して臆病になっていく」、とニヤカムさんは言う。身体の時間が、バーチャルな時間によって次々と置き換えられていく。日本はこの現象を最も早く経験した国だったのかも知れない。気がつくと、ここ数十年のあいだに、テレビゲーム・アニメ・漫画を通じて、世界の子ども文化はすっかり日本の発明品によって席巻されてしまった。
 稽古場を見に行って、驚いた。稽古が始まる前、舞台芸術公園の芝生の上で、出演する子どもたちが本気でオニゴッコをしたり、ハナイチモンメをしたりしている。こんなに大声ではしゃいで走りまわっている中高生というのも、ほとんど見た記憶がない。この、オニゴッコで全力疾走する楽しさが、そのまま舞台に活かされている。出演者のお父さん、お母さんにうかがうと、参加者たちは、帰ってくると「あー疲れた」と言いながら、週に一度の休みの日にも「今日も稽古があればいいのに」とつぶやいたという。
 『タカセの夢』は「アフロ・ジャパニーズ・コンテンポラリーダンス」と呼ばれている。無理矢理なジャンルだと思う方もいらっしゃるだろうが、このなかに出てくるハナイチモンメやカゴメカゴメを見てみれば、日本を深く深く掘っていけばアフリカにたどりつくことに気がついていただけるのではないか。アフリカの賢者たちの知恵が、静岡の子どもたちを通じて、もう一度世界の大人たちに希望を与えられるのかも知れない。この夢を本気で生きているダンサーたちを見れば、そんな夢を信じたくなる。
(注:岡ノ谷一夫『つながりの進化生物学』朝日出版社、2013年、19頁。)

【筆者プロフィール】
横山義志 YOKOYAMA Yoshiji
SPAC文芸部、海外招聘作品担当。2008年パリ第10大学演劇科博士号取得。


2013年7月17日

【ZAZA~祈りと欲望の間に】プロフェッショナリズムへの意志−−−金森穣は三つの課題をどうクリアしたか(貫 成人)

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 金森穣は、自身、卓越したダンサーであり、少なくとも15年間に44の新作を発表した振付家であり、主宰するNoismで島地保武、平原慎太郎など、優れたダンサーを数多、育てた有能な指導者であり、しかも、そればかりでなく、日本唯一の公立劇場(りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館)レジデンシャルダンスカンパニーの芸術監督でもある。
 まことにうらやましい境遇に見える。だが、考えてみれば、こうした職責をひとりで勤め上げるのは容易ではないはずだ。言葉遣いひとつとっても、振付のためのそれと、行政関係者を説得するためのそれはまったく別ものである。それを金森が勤めおおせるのは、かれの根底にひとつの一貫したもの、すなわち「プロフェッショナリズム」への強固な意志があるからだ。だが、それはどのようなものなのだろう。
 金森の名がダンスファンに浸透したきっかけとなったのは、2004年『SHIKAKU』(新宿パークタワーホール)だった。広いスペースが白い壁によって迷路のように仕切られ、溢れんばかりの観客が当てもなく歩き回り、そのひとびとを掻き分けるように登場したダンサーたちが、大小の部屋や通路のそこここで思い思いのパフォーマンスをおこなう。それにつれて無秩序に場所を変えていく観客は、いつの間にか背後にいたダンサーに突き飛ばされそうになったり、いきなり間近にあらわれたダンサーと目が合ったりする内に、奇妙な身体感覚をおぼえるのだった。
 その体験について脳科学者の茂木健一郎はこう述べている。「周りでいろんな人が踊っていて、もうとにかく今までに経験したことがない、もうすごい妙な経験でしたね。もう言葉にできないし、意味にもできないし、もう溢れ出るしかないっていうか。……全部溢れ出ていっちゃっていること、それが心地いいんですよね」(『芸術の神様が降りてくる瞬間』光文社)。
 『SHIKAKU』はNoism発足直後の作品だが、そこにはすでに金森のプロフェッショナリズムを考えるために重要な秘密が隠れている。
 劇場に登場するのは、プロフェッショナルな、すなわち、生活の不安なく、毎日、トレーニングに専念できるダンサーであるべきだ、と金森は考える。だが、行政を説得しなければその体制は実現せず、そのためには行政や納税者=観客が納得するような作品をつくらなければならない。
 ところがここで難問が立ちふさがる。行政や納税者を納得させるためには、第一に、作品の意図が明解な言葉で説明できなければならず、第二に、その意図は、作者の夢想などではなく、現代社会の「鏡」でなければならない。しかも、第三に、その作品は、劇場にいあわせなければ体験できないような、なにか、言葉では説明しきれないものを観客に与えなければならない。
 一見、相矛盾するこの難問は、どうすればクリアできるのだろう。
 実は、このうち第一と第三の課題解決法を示唆するのが、『SHIKAKU』なのである。
 従来、ダンサーの動きはすべての観客に等しく、見えなければならないと考えられており、実際、通常の、いわゆるプロセニアム形式の舞台(額縁舞台)はそのように設計されている。それに対して『SHIKAKU』の出発点にあったのは、舞台におけるこうした大前提を崩すという明確な意図だった。この作品においてダンサーはいつ、どこにいるべきかだけが指示され、その結果、何が起こるか、各観客がどこから何をどう見るか、その全体がどうなっているかは、一人一人のダンサーはもとより、振付家の金森自身も知りようがなかった。
 意図はシンプルだが、それが生み出すものは限りなく多様である。一人一人の観客がそれぞれの場所で味わうものは観客ごとに異なるからだ。そしてそれは、まさに、ダンサーと無数の観客が同じ場所を占める劇場空間でなければ体験できない効果である。
 だが、第二の課題はどうクリアできるのだろう。その一例を示してくれるのが、今回上演される『ZAZA~祈りと欲望の間に』である。現代の時間感覚とは背馳する時間、多人格が同居した身体、各自の祈りが転化した欲望という、それぞれはまさに現代を映し出す「鏡」だからだ。
 もちろん、作品が実際になにを生むかは、それぞれの過去や生活、気分をもつ観客一人一人が公演をどう味わうか次第である。では、各自が作品を十分味わうためになにが必要か。それは、「考えるな、見よ」という、よく知られた教えだけなのである。

【筆者プロフィール】
貫 成人 NUKI Shigeto
専修大学教授。専門は現象学、舞踊美学、歴史理論。近著に『歴史の哲学―物語を超えて 』(勁草書房)、『哲学で何をするのか: 文化と私の「現実」から』(筑摩選書)などがある。


2013年6月28日

【Hate Radio】ホロコースト・ジェノサイド・オウム ・・・声と情動、不可逆な死角 (伊東 乾)

 2008年6月、ルワンダ共和国大統領府の招きで同国に3週間ほど滞在した。1994年4月ルワンダで発生した大虐殺は市民が市民を鉈で攻撃し、3ヶ月の間に80万とも120万とも言われる命が奪われたものだ。ジェノサイドがラジオの音楽番組で誘導された経緯は映画「ホテル・ルワンダ」などで広く知られる。この事実を知った瞬間、いつか必ずルワンダに行かなければと強く意識した。
 戦争とメディア・マインドコントロールに対する強い疑問は、人間として、音楽家として、私のあらゆる問題意識の根底を貫く。私が小学校1年のとき早世した父は、かつて第二次世界大戦の戦時情宣の中で学徒出陣、関東軍の二等卒となり戦後はシベリアのラーゲリで4年の強制労働を強いられた。2つ年下の母は昭和20年大牟田空襲で焼夷弾の直撃を受け全身炭化の火傷を奇跡的に生き延びている。また幼時から私が教えられた第二次世界大戦後の欧州芸術音楽の倫理は、ナチス・ドイツのホロコーストへの徹底的な反問を基礎に置く。さらにオウム真理教のメディア・マインドコントロールを受けた私の大学時代の同級生、豊田亨君は地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった。これらと全く同根の問題が、過去の歴史でなくルワンダの「いま・ここ」で起きている・・・行かなければ一人の芸術家として嘘をつくことになる。果たして虐殺から14年目、事件の現場に立つことになった。
 しばしば「フツ族・ツチ族」と呼ばれる対立二者は、実はトゥティが武士・牧畜民、フトゥが農耕民といった意味合い、社会的な違いであって民族に違いはない。差別は宗主国ベルギーの分割統治で齎された。1933年、時を同じくしてドイツではナチスが政権を奪取している。それから60余年の社会差別、積もりに積もった取り返しのつかない出来事の数々。内政の矛盾から目をそらせるため多数派フトゥ政権は少数民トゥティへ民衆の憎悪を煽り立てた。そんなフトゥのハビャリマナ大統領の暗殺を切っ掛けとして、準備されたジェノサイドが決行された。
 殺戮の3ヶ月間、ラジオの音楽番組は単に雰囲気に留まらず、虐殺のための極めて具体的な情報をリアルタイムで提供した。「どこそこ通りの奥の店の二階にトゥティのゴキブリ誰それが潜んでいる。行ってみんなで血祭りに挙げろ」といった内容がビートの利いたDJのトークで喧伝され、多くの人がそれに乗った=乗せられてしまった。
 古来ルワンダは素晴らしい詩の口承伝統を持つ。同時に20世紀初頭まで文字の文化を持たなかった。中高年齢層の識字率は今もって上がらない。客観的な文字での事態確認はヒトの認知に冷静な悟性の発現を促す。だがジェノサイドの現場では、ラジオが齎す扇動的な声に煽られ、憎悪の感情に流された人々が現場に殺到し、異常な興奮の中で集団殺人が実行されている。耳にまぶたはついていない。声はダイレクトに情動を掻き立て、悟性は常に情動に遅れる。衝動は人を不可逆な行動に駆り立てるが、そこには常に危険な死角が存在する。気がつくと行為は完了しており、後悔は決して先に立たない。
 虐殺犯を裁くガチャチャの場では、遠来の客として皆から歓迎された。被告たちからすら拍手を受けた。おかげで原告とも被告とも親しく話すことができた。誰も悲しいほどに澄んだ目を生き生きと輝かせている。まる二日の傍聴、最後はすべての人と握手して裁きの場を後にした。
 ジェノサイド鎮圧直後、隣国ウガンダのマケレレ大学医学部教授として難を逃れたエミール・ルワマラボ博士は戦後、ルワンダ国立大学学長として「マスコミュニケーション学部」を創設した。ここで医学部の教授も招いてメディア・マインドコントロールの生理と心理を学生たちとディスカッションしようと・・・日本を出る時点での自分は、見通し甘く・・・考えた。
 実際に教室で語り合った、内戦が長く続いたこの国の大学生たちは、平均年齢が20代後半だった。彼らは14年前、物心ついた思春期の少年少女として現場に居た当事者、しかも加害者被害者双方の子弟が教室を埋め尽くしていた。すべての質疑応答は一人称複数で突きつけられた。「あの時私たちは、あるいは私の両親は、どうすれば正気を保つ事が出来たのですか?」「もう一度同じ情宣があったら、私はどうすればいいんですか?」一つ一つの問いへの答えを、生理や認知に基づいてその場で誠実に共に考えた。私の答えのキーポイントは「笑い」だった。
 ルワンダ国立大学は学生ラジオ局を持っていて、セミナー終了後そのインタビューを受けた。その週末の日曜、別のガチャチャに赴いた私に運転手のトニーが車に戻って来いと呼ぶ。行ってみると、虐殺を呼びかけたのと同じラジオ塔から発信された「メディア・マインドコントロール再発防止」を語る私自身の声がカーラジオから流れている。何かに打たれた。ルワンダの問題が完全に自分の血肉と化した瞬間だった。

【筆者プロフィール】
伊東 乾 ITO Ken
作曲家=指揮者、ベルリン・ラオムムジークコレギウム芸術監督。松村禎三、松平頼則、高橋悠治、L・バーンスタイン、P・ブーレーズらに師事。2013年秋季は「トリスタンとイゾルデ」連続上演に取り組む。東京大学作曲指揮研究室准教授。


2013年6月21日

【母よ、父なる国に生きる母よ】『母よ、父なる国に生きる母よ』――原作者と原作について(久山宏一)

 原題をあえて奇妙な日本語に直訳すると、「母なるものと父国なるものについての作品」となる。「娘」がそれを書いた。
 Bożena(ボジェナ) Umińska(ウミンスカ)-Keff(ケフ) (1948- )は、詩人、作家、エッセイスト、映画評論家、文学史家として、多彩な活動を続ける女性。ポーランド語で執筆するユダヤ系女性として、民族・性・家族関係のステレオタイプ研究という、自らのアイデンティティに直接かかわる主題を取り上げてきた。ワルシャワ大学でジェンダー研究の教鞭をとる。
 大方の読者が彼女の存在を知ったのは、『影を持つ人物――19世紀末~1939年のポーランド文学におけるユダヤ人女性の肖像』(2001)によってだった。ウミンスカ名義で刊行された浩瀚な研究書である。2008年、今度はケフ名義で、戯曲『母よ、父なる国に生きる母よ』(以下、『母よ』)を発表する。
 『母よ』は、「文化的禁忌(タブー)とされる領域に土足で踏み込んでみる実験」である。「娘」が「母」を「くたばれ、ハイエナ!」と罵る場面を書いたとき、ケフは厚顔無恥な自分に我知らず恐れ慄いたという。
 ギリシャ神話における結婚と社会秩序の守り手デメテルとその娘コレ(ペルセフォネ)の物語が基になっている。デメテルは、冥府の王ハデスに連れ去れた娘を探して神界を離れ、人間界を放浪する。最終的に、ゼウスは娘を半年だけ冥界から出し、神界で母娘ともに暮らすのを許す……。
 本作では、「母」はデメテルDemeterを縮めたメテルMeter、「娘」はコレのポーランド語形コラKora、その愛称形のコルシャKorusia/ウシャUsia、またはペルセフォネPersefonaと呼ばれる。メテルは「母Mater」と、ウシャは、(母の嘆きを)「聞く」ことを象徴する「耳uszy(ウシ)」と響き合っている。
 ケフは、こうした神話的原型のうえに、別の次元の事象を塗り重ね、「母と娘の神話の遍在」を描き出そうとする。
 (1)ナット・ターナーの奴隷反乱(1831)などの歴史 
 (2)「トールキン作『指輪物語』のフロド・バギンズ、映画『エイリアン』のエレン・リプリー、ボニーMのヒット曲『バビロンの河』、ジョン・レノンの『イマジン』、ゲームが映画化された『トゥームレイダー』のララ・クロフトなどの文化」とする
 (3)反ユダヤ的発言など、ポーランド人が日常生活で無意識に発する言葉
 『母よ』は、コロスを伴うギリシャ演劇または合唱を伴う歌劇のような形式で書かれ、その中に、採集されたさまざまな言説・物語が(一見)雑然と投げ込まれている。しかし、舞台作りの素材としての魅力は、すぐに有能な演出家の注目するところとなった。2010年にはマルチン・リベラ、翌2011年にはヤン・クラタが舞台化する。
 リベラは、母と娘がテーブルに向かって対面し、背後のスクリーンにコロスが登場する形式にした。母娘のユダヤ性に焦点があてられている。
 クラタは、母・娘・コロスを6人の俳優(5人の女優と1人の女装した男優)に振り分け、場面ごとに役割を入れ替えるようにした。音楽と踊りを多用したミュージカル的な演出で、ユダヤ的要素は最小限にまで捨象された。
 例えば、原作者ケフは、「母親と家族の昔の物語/戦争前の/戦争中の歴史/逃亡し死を逃れ人間以下になるまでの屈辱を受けたユダヤ人/母親の幻想ではなく公文書・映画・記録がある」という作品冒頭の語りを、「ここだけは但し書きとして、おふざけなしに書いた」が、演出家クラタは、ポーランド東方ルヴフ(現ウクライナのリヴィウ)に住み、ホロコーストを生き延びたユダヤ人が繰り返すきまり文句として解釈した。
 ポーランド人の反ユダヤ的発言を並べた「エピローグ」は、視覚的に極めて過激なエンディングに変えられた(観てのお楽しみ!)。ジョン・レノンの『イマジン』を援用して、夢の理想社会を描き出す感動的な場面も削除された。
 原作者ケフはこれらの改変に必ずしも満足していないようだが、挑発的なクラタ演出のおかげで、文化と民族の境界線を越えて理解される舞台が誕生した。
 私は、「母」と「娘」が、臍の緒を連想させる長い髪で結ばれて引き合う場面(原作にはない)を観ながら大笑いし、やがて寒気に襲われたものだ。幼かったころ、母が、箪笥の奥から臍の緒を入れた木箱を取り出し、私に見せたときの衝撃を思い出したからだ。
 なぜ、母はそんなことをしたのだろう? 今、私の臍の緒はどこにあるのだろう?

【筆者プロフィール】
久山宏一 KUYAMA Koichi
ロシア・ポーランド文化研究、ポーランド語通訳。東京外国語大学など非常勤講師、ポーランド広報文化センター・エクスパートを務める。訳書にスタニスワフ・レム『大失敗』(国書刊行会)など。


2013年6月16日

【生と死のあわいを生きて】小島章司の踊った日本とスペイン(山野博大)

 小島章司は、1939(昭14)年10月1日、徳島県に生まれた。はじめは音楽家を志し、上京して武蔵野音楽大学声楽科に入った。しかし彼の興味は早い時期からスペイン舞踊に移り、1966(昭41)年には、26歳でスペインに留学する。直後の1967(昭42)年、スペイン国立舞踊団に入団し、直後に行われたソ連ツアーの一員に加えられる。彼の転向は大正解だった。
 1968(昭43)年には、歌手のラファエル・ファリーナに認められ、一座のスター・ダンサーとしてマドリードの劇場での長期公演で踊る。以後、スペイン各地でさまざまな舞台を踏むが、若さにまかせて1カ月に50回も踊った無理がたたり、3年目に過労でからだをこわしてしまう。
 病気療養中の踊れない時期に、彼はスペイン人にスペイン舞踊を教えた。しかしこれは、まったくありえない出来事だった。スペイン生まれの歌舞伎役者に指導されて、はたして日本人は納得してついて行くだろうか。誇り高きスペインのダンサーたちが彼に教えを乞うようになったのは、小島が日本人のダンサーとして各地の舞台で評判を得ただけではなく、スペイン国営テレビでその映像が全国に流れ、広く名前を知られるようになっていたからだ。1971(昭46)年のフラメンコ・フェスティバルでは、日本人として初めて踊る機会を得たし、またパリのスペイン民族舞踊団に振付者として招かれるなど、活動の範囲を着実にひろげて行った。
 日本での活動は、スペイン行きから10年後の1976(昭51)年から開始する。帰国し《フラメンコの夜》で全国各地で踊った後、1980(昭55)年には、東京にスタジオを開設し、後進の指導と創作活動に力を注ぎ始める。

 彼が日本人でありながらスペイン舞踊にのめり込んだことが、それまでになかった舞踊的成果をもたらす結果を呼んだ。彼は四国の出身なので、全国から何百万人もが集まる大イベントの阿波踊りに親しんで成長したことは言うまでもない。彼は日本の芸能の良さ、楽しさ、スケールの大きさを熟知している。その上、彼の生れたところは、江戸後期に各地で流行した「よしこの節」の流れを色濃く残す土地とのことで、京風の雅やかな踊りの持つ優しい雰囲気にも親近感を覚えると、彼から聞いたことがある。そんな環境が、彼のスペイン舞踊に影響し、独特のカラーを加えたのだ。
 日本に古来から伝わる芸能は、年齢の高い者にも門戸が開かれている。例えば能の秘曲である、世阿弥作の可能性が高いと言われる『関寺小町』には、100歳の小野小町が登場する。つい最近の国立能楽堂創立30周年記念公演で上演され、83歳の能楽師が舞ったが、若さが売り物のクラシック・バレエとはかなり様子が違った。
 73歳になる小島章司は、今も現役のダンサーとして日本ばかりかスペインの舞台でもりっぱに通用する。2011年12月の《小島章司フラメンコ舞踊団2011》東京凱旋公演において、スペイン開催のフェスティバル・デ・ヘレスに招かれて上演した『ラ・セレスティーナ~三人のパブロ』を再演し、自ら魔女セレスティーナ役を演じて日本人ならではの舞踊表現のすばらしさを示した。この舞台で彼は第32回ニムラ舞踊賞を受賞している。2009(平21)年には、スペイン国王より文民功労勲章エンコミエンダ章を贈られている。彼はスペイン舞踊の世界へ、高齢者の演ずる日本的な芸の奥の深さを導入し、それでスペイン、日本の両国のファンを納得させた。世界的に高齢化が加速するこの地球上で、彼のやっていることは大きな意味を持つ。
 こんど静岡芸術劇場で上演される『生と死のあわいを生きて~フェデリコの魂に捧げる~』は、1936(昭11)年に起きたスペイン内戦の犠牲になった詩人であり、劇作家のフェデリコ・ガルシーア・ロルカに捧げられている。小島のロルカへの共感は深く、これまでに『ガルシア・ロルカへのオマージュ』(1998年)、『FEDERICO』(2006年)など、多くの作品を発表してきた。彼がスペイン舞踊への理解をいっそう深め、真摯なロルカへの傾倒ぶりを舞踊で表現した作品の成果が期待される。高齢になっても、民衆を守る立場を常に意識し、芸術の革新を忘れない小島章司の変わらぬ「新しさ」に注目しよう。

【筆者プロフィール】
山野 博大 YAMANO Hakudai
舞踊評論家。1936年4月10日、東京生まれ。1957年より批評、解説等を執筆。舞踊関係各賞の選考、各地コンクールの審査にあたる。武蔵野音楽大学、有明教育芸術短期大学で舞踊史を講義。舞踊批評塾主宰。2006年、文化庁長官表彰。


2013年6月15日

【室内】聞こえないイメージ、見えない声(宇野邦一)

 メーテルリンクの『室内』が、演劇としてかなり風変わりな作品であることは、しばらく前から聞かされていた。ある家の庭から、居間で夕べの団欒のときをすごす家族の姿が、窓越しに見えている。そのありふれた光景を見つめている人物のせりふを観客は聞くことになる。その家族に起きた不幸を知らせようとしてやってきた人物は、幸福そうな一家の姿を見て、不幸なニュースをどんなふうに知らせたものか、ためらっている。私の注意をひきつけたのは、ただ見つめられるばかりで会話が聞こえてこないという「室内」と、一方ではそれを見つめて注釈するだけの室外の人物という、その異様な構成であった。
 それは少しヒッチコックの映画『裏窓』のようなもので、骨折で療養中の主人公は退屈しのぎに望遠レンズで向かいのアパートの部屋を覗き見しているが、その部屋の音声はもちろんサイレント映画のように聞こえず、やがてそこで事件が起きるのだ。『室内』は1894年に発表されている。それはリュミエール兄弟がはじめて映画を公開する前の年だ。もちろんメーテルリンクの演劇が、映画の出現となにかかかわりをもつとは思わない。しかしただ目に見えるだけの光景があり、ただそれについて語るだけの声がある、という『室内』の状況は、何か風変わりな趣向より以上のことを意味しているのではないか。すでに写真はただ見つめられるイメージを、そして電話はただ聞かれるだけの声を、人類に与えつつあった。そこで演劇もまた、見える演劇と、聞かれる演劇とに分離するということが起きたかもしれない。そのように視覚と聴覚が分裂するのにしたがって、そこに未知の何かが知覚されるようになる。そういうことが演劇にも、やがて映画にも起きたのである。
 メーテルリンクは他の戯曲『群盲』や『忍び入る者』で、こんどは盲目の人物を登場させ、ただ闇の中に響く声の演劇をつくりだしている。聞こえないイメージとともに見え聞こえてくるもの、見えない声とともに聞こえ見えてくるものに、確かにメーテルリンクは注意をむけたのである。
 それにしても〈不吉な知らせ〉というものは、演劇の重要なモチーフであり続けてきた。
 自分のまがまがしい過去を知らされるオイディプス王、父親の死の真相を知るハムレット。
 しかし不幸な出来事それ自体よりも、出来事を知らせることをめぐって演劇を構想したという点でも、メーテルリンクは斬新だった。
 そしてこういう斬新さは、単に劇作の手法にかかわるものではない。20世紀演劇の忘れてはならない改革者のひとりアントナン・アルトーは、まだ20代の文章でメーテルリンクに讃辞を送っている。その名は「何よりもまずひとつの雰囲気をかもしだす」。「メーテルリンクの思想は、動く寺院のようなもので、その石がひとつひとつイメージを生み出し、ひとつひとつの石が教訓である」。「その思想には建築も形態もなく、厚みと、高さと、密度があるだけだ」。そして結論しているのだ。「メーテルリンクは膜を薄くした」。それは深い真実と、最高度の真実とを隔てる見えがたい膜であり、ある日人間の精神はそれをつきぬけることになるだろう。「残酷の演劇」を提唱したアルトーと「青い鳥」のメーテルリンクとのあいだに意外な接点が、確かにあったのだ。
 そういう接点は、クロード・レジの演劇によっても実現されてきたと思う。ときどきアルトーについて語ることもあるレジにとって、もちろんアルトーはただ演劇に見え透いた挑発や暴力や破壊を導いた改革者ではない。メーテルリンクについて「建築も形態もなく、厚みと、高さと、密度があるだけ」と書いたアルトーは、言語も演技も舞台空間もいちど解体して、精妙な生気の波動が行きかう場所として演劇を考えるようになった。
 クロード・レジが2010年静岡で演出した『彼方へ 海の讃歌(オード)』はフェルナンド・ペソアの長編詩を舞台作品にしたものだった。たったひとりの俳優のモノローグが、港の埠頭に立つようにして、世界の海を幻視する旅をその場で続けるのである。薄暗い光のなかで、フランス語の重厚な語りが、かなり無機的に構成された光と音とあいまって、ペソアの多重人格的な声と幻想を開放することに成功していた。アルトーによって植えつけられた演劇の夢が眼前に実現されたと思うことは数少ないが、私にとってレジの演出作品は、まちがいなくその一例である。

【筆者プロフィール】
宇野邦一 UNO Kuniichi
フランス文学者、批評家。立教大学映像身体学科教授。著書に『アルトー 思考と身体』(白水社)、『ジャン・ジュネ 身振りと内在平面』(以文社)、『映像身体論』(みすず書房)などがある。


【Waiting for Something】Waiting for Something を待ちながら(長島確)

 第二次大戦終戦後のフランスで、サミュエル・ベケットという人が、小説執筆の息抜きに芝居を書いた。『ゴドーを待ちながら』という題名で、1953年にパリのバビロン座で上演された。不思議な芝居で、タイトルロールのゴドーさんは登場せず、二人の男が木の下で待っているだけ。それが二幕にわたってくりかえされる。留学中この上演にたまたま出会い、のちにこの戯曲を日本に紹介することになる安堂信也によると、「一幕が終ったところで半分ぐらいの客は帰ってしまった。残った客は狭苦しい入口で二派に分れて口角泡をとばして言い争っていた。(……)芝居でも笑ったが、観客の議論が面白かった」という。
 ハムレットの出てこない『ハムレット』など考えられない。ふつうなら主役のはずの、不在のゴドーさんの正体は、さまざまな解釈をさそった。神、ゴッドのもじりだというのがポピュラーな意見で、だから二人の男は救済を待っているんだとか、あるいは逆に世界の破滅だとか、いやいやじつはツール・ド・フランスの選手なんだとか、いろんなことがまことしやかに語られた。ベケット自身、「わかっていたら書いている」といっていた。正体がなんであれ、大戦後の荒廃したヨーロッパで、けっして来ないゴドーさんを待つことには、たぶん圧倒的なリアリティがあった。ロラン・バルトの書いた記事を読むと、芝居はパリの観光名所さながらの人気で、一年半で約400回上演され、10万人の観客が見たらしい。「社会学的にいって、『ゴドー』はもはや前衛作品ではない。」
 「何も起こらない、しかも二度も」(新聞のレビュー)。その後この戯曲は世界中の演劇の地図を書き換えてしまった。なにより作劇の文法が変わった。こんなに自由でいいんだ、とたくさんの作り手がはげまされた。われわれの生きている世界そのものだ、と思った(たぶん)。日本でも別役実を筆頭に、転用やパロディも含め、この時期以降、影響を受けていない人を探すほうがむずかしい。唐十郎の『腰巻お仙』のラストなども、明らかに『ゴドー』が下敷きになっている。
 もうひとつ、大事なことがある。この戯曲でベケットは、〈事件〉ではなく〈状態〉をつかまえていた。時代や社会を、事件をとおして物語る演劇があるとしたら、それにたいして、状態を見せることで描く演劇がありえる。事件/行動ではなく、状態の演劇。どんな体で、どんな姿なのか。ベケットはシンプルで強烈なイメージと象徴性をもって、そういう演劇の道をこじあけた。地面に埋まって暮らす女の登場する『しあわせな日々』(初演1961)なども、そういう作品だといえる。
 どんな行動をするか、どんな事件が起こるか、ではなく、(われわれはいま)どんな状態か。『ゴドーを待ちながら』はそれを確認するのにうってつけの戯曲となった。1993年には、作家のスーザン・ソンタグが、民族紛争で空爆の続くサラエボで、地元の人々と上演した。さすがに二度もゴドーさんが来ないのは耐えられない、と、一幕だけの上演だったという。また2005年には、現代美術作家のポール・チャンが、超大型ハリケーン・カトリーナに襲われたあとのニューオリンズで、やはり地元の劇団と上演した。建物も木も根こそぎさらわれた、がれきだらけの下町地区の路上で、観客もいっしょにゴドーを待った。2011年8月には、日本のかもめマシーンという劇団が、福島第一原発の20キロ地点で上演を敢行している。
 ところで話は変わって、バブル崩壊後の日本では、中野成樹という演出家が〈誤意訳〉ということを始めていた。誤訳で意訳、ちゃんとした翻訳じゃありません、というのは一見謙遜のようでいて、じつは強い批評性をもっていた。海外の戯曲を、いまの日本に暮らすわれわれの体や声に落とし込むには、ふつうの翻訳の作法じゃ足りず、あえての誤訳や意訳が必要になる。言葉や文化の壁にけっこう誠実に向き合おうとすると、どうしてもそうせざるをえない。中野成樹+フランケンズ(通称ナカフラ)の活動は、いつもそこにふれていた。
 その中野成樹が、誤意訳ではなく創作で、もはや待つのもゴドーさんですらないところまで踏み出して、つくってきたのがこの作品。いまわれわれはどんな状態なんだろう。それに日韓共同のプロダクションで、われわれって誰だろう。

【筆者プロフィール】
長島確 NAGASHIMA Kaku
ドラマトゥルク/翻訳家。中野成樹らと組んで企画の立案からテキストの翻訳・構成まで幅広く。最近ではアートプロジェクト「アトレウス家」シリーズや「長島確のつくりかた研究所:だれかのみたゆめ」なども。


2013年6月8日

【脱線!スパニッシュ・フライ】飛んで、飛んで、飛んで――爆笑喜劇に込められた笑い(市川明)

 『脱線!スパニッシュ・フライ』はトランポリンを使った大跳躍芝居だ。奥行きのある舞台を十二分に利用して俳優たちは飛びまくり、そのたびに歓声が起こる。舞台奥から観客席に飛び込まんばかりにヘッドスライディングする俳優に、観客席は大いに沸く。軽い芝居のようだがちょっぴり社会性もある。
 演じるのはベルリンの代表的な劇団フォルクスビューネ(民衆舞台)。アレキサンダー広場から歩いて5分のところにある。フランク・カストルフが率いるこの劇団・劇場は昔も今も若者に優しい、若者の空間だ。東ドイツ時代からハイナー・ミュラー作品の上演をはじめ、常に演劇の新しい波を作り出してきた。『ペンション・シェラー』などで俳優として笑いを取り続けてきたヘルベルト・フリッチュが台本・演出を担当するのも注目だ。
 原題は”Die (s)panische Fliege”『スペイン(パニック)のハエ』。Sにカッコをつけて「スペイン」と「パニック」をかけたのはフリッチュのアイディアだ。原作の『スペインのハエ』は1913年に劇作家のフランツ・アルノルトと、作家兼俳優のエルンスト・バッハが共同で創作した笑劇である。上演では、バッハが演出を担当、アルノルトはバッハとともに俳優として出演し、大当たりを取った。フリッチュは忘れられたこの作品を百年後に再生させた。ストーリーは原作のままで、多くの動きをト書きで細かく指示した台本を書いた。俳優出身のフリッチュらしい、言葉と同じくらい身振り・身体を重視した台本だ。
 「スペインのハエ」から、女性用の媚薬を連想する人も多いだろう。これを飲むと性欲が増進し、男性からも恋されると宣伝されている薬だ。だがこの上演では、登場はしないものの「スペインのハエ」と呼ばれる魅力的なダンサーがキーパーソンとなっている。ヴォルフラム・コッホ演じるマスタード工場の社長ルートヴィヒ・クリンケは25年前、この踊り子と一夜の情事をした。子どもができたと言われ、それ以来、彼はずっと養育費を払い続けている。看板女優のゾフィー・ロイスが演じる妻のエマは、「母性保護同盟」の会長を務めている。マスタード色の袋袖の衣装で、道徳に厳しい女性として登場。彼女が大声で粗野に叫ぶたびに秘密がばれないかと夫はびくびくする。書類のファイルが手につかずお手玉する様子がスラップスティック風に演じられ、爆笑となる。
 エマが娘パウラの結婚相手と決めたハインリヒがやってくる。パウラを勝ち取るためには、彼女の父親を「パパ」と呼ぶことだと忠告され、実行する。クリンケは自分の隠し子が名乗り出たものと思い、大いにあわてる。抜けた青年を演じるバスチャン・ライバーはボケに徹し、かみ合わない対話が観客の笑いを誘う。だがよく聞くとクリンケの友人たちも養育費を払い続けてきたのだ。現れたハインリヒの母親マティルデは小柄で、大きな高さのかつらをかぶっているが、25年前のことでみんな顔も忘れており、彼女を「スペインのハエ」と思い込んでしまう・・・。
 舞台は隠し子騒動、「間違いの喜劇」の様相を呈してくる。舞台全面に大きな絨毯が敷かれ、そのくぼみのところにトランポリンが仕掛けられている。舞台後方が高くなり山になっている。トランポリンを使い、上に飛び乗ったり、そこから降りたりする。ドイツ語で”et. unter den Teppich kehren”( 絨毯の下に掃きこむ)は、「闇に葬る」というイディオムなのだが、トランポリンですべてが(ぴょんぴょん)明るみに出てくる感じだ。モーツァルトの歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』(女はすべてこうしたもの)の向こうを張り、「男はすべてこうしたもの」であることが示される。今でも妻の多くが夫のことについて語るとき、「うちの主人」という時代だ。男性中心社会に対するちょっぴり「からし」の効いた批判が、大爆笑の中でにじみ出てくるのだ。
 フリッチュは今や旬の演出家だ。マルチメディアアーティスト、映画監督としても知られる。2011年にはベルリン演劇祭のトップテンの2本に彼の演出が選ばれている。イプセンの『人形の家』とハウプトマンの『ビーバーの毛皮』だ。さらに2012年に『スペイン(パニック)のハエ』、今年の『ムルメル、ムルメル』と続く。大御所の演出家が落選する中で、彼一人気を吐いている。ラディカルな劇団のとがった(先鋭的な)演出が生み出す究極の笑いを、静岡で大いに楽しみたい。

【筆者プロフィール】
市川明 ICHIKAWA Akira
ドイツ文学・ドイツ演劇研究者、大阪大学教授。専門は、ブレヒト、ハイナー・ミュラーを中心とするドイツ現代演劇。1996年に演劇創造集団ブレヒト・ケラーを創立。代表としてドイツ演劇の翻訳上演を関西で続けている。NHKドイツ語講座講師としても著名。


2013年5月30日

【黄金の馬車】『「黄金の馬車」とメリメの再演劇化』(田之倉稔)

 1952年に製作されたルノワールの名作の誉れ高い映画であるが、最近になってまた再評価されているようだ。第二次世界大戦が終わってルノワールは亡命先のアメリカからパリにもどってきたが、フランス映画を作る機会にはめぐまれなかった。第一作目の『河』に続いてテクニカラーで撮ったのがこの作品だった。イタリア・フランスの合作。
 原作はメリメの『サン・サクルマン(聖体)の四輪馬車』という戯曲。『クララ・ガスルの演劇』に『デンマークのスペイン人たち』ほか6編とともに収められている。戯曲集は1830年に上梓されているが、その5年前「グローブ」という雑誌に発表された。メリメは自分の名を出さず、スペインのジブラルタルで出会ったガスルという女優の書いた作品という体裁にした。現在ではメリメが書いた作品として扱われている。彼はこの戯曲を「コメディー」ではなく「サイネーテ」と呼んでいる。「サイネーテ」とはスペインで生まれた「短いファルス」の呼称で、歌や踊りのはいることもある。18世紀ごろ南米でもよく演じられた。メリメ23歳のときの「若書き」の「軽い喜劇」だった。
 オッフェンバックもこの作品に目をつけて、オペラ・ブッフ『ラ・ペリコール』三幕を作曲している。ここでは女優はジプシー(ロマ)の、しがない歌手となっている。
 メリメは後年「歴史的記念物視察官」の職についてからは、僻地に埋もれていた文化財や歴史の調査に精をだした。だから史実を尊重し、小説もあまり虚構化しなかった。『カルメン』を読めばわかるとおりで、これもスペイン文化に精通していたメリメでなければ書けない小説であった。『四輪馬車』の原作に登場するカミーラもミカエラ・ビジェガスという実在する女優で、彼女と恋におちいるリマの総督も、1761-75年までその地位にあったマヌエル・エ・アマトという人物だった。六十歳近い初老の男と二十数歳の美しい女優との恋物語だった。ルノワールは映画化にあたって、メリメからなるべく離れようと考えた。その結果単層的な「サイネーテ」は重層的な「コメディー」へと変貌した。闘牛士ラモンや将校フェリペ、カミーラ-ヨーロッパからやってきた「コメディア・デラルテ」一座の女優-などを登場させたり、芝居の場面を再現することによって映画を豊かな「スペクタクル」に仕立てた。しかしルノワールはそれだけに満足せず、もう一つの意図を実現しようとした。それはメリメの原作をもう一つの物語で囲い込み、「メタシアター化」をはかった。こうして映画は原作を超え、エキゾチズムの時代からポスト・コロニアリズムの現代までを見通す視点をうちだした。
 クスコの戦闘で捕虜となっていたフェリペはリマにもどってこういう。「(インディオスは)野蛮どころか、彼らほど心のやさしい人々はいない。(中略)文明という、誠意も心もないものに、僕はおさらばするよ」(川竹英克訳)。カミーラは、闘牛士と総督よりフェリペを愛しているが、インディオスの社会へと向かうフェリペを追わない。カミーラは「あんな馬車いらないのよ」といい、その無用性をフェリペとともに認める。「権力の象徴」だった「黄金の馬車」とは「アナクロニズムの象徴」にかわってしまった。
 この時代のリマは、スペインの統治下にあった。総督は国王の代理として本国から派遣されていた。私はかつてこの地を訪れたことがあるが、大統領府の近くにインカ帝国を滅ぼした悪名高きピサロの騎馬像があったのには驚いた。いまやコロンブスさえ批判されているというのに! スペインのコロニアリズムは南米のネイティヴたちと文化を抹殺しようとした。ペルーはその最大の被害者だった。各地でインディオスの反乱が起こっていた。これを鎮圧しようとした総督府は多額の支出をよぎなくされ、財政状態は火の車だった。現代のペルーはピサロの影も追い払い、自立した国家となっている。映画では総督、ラモン、フェリペも消え去った。カミーラは女優という自己の立場をつらぬいた。座長のアントニオはいう「役者や綱渡りや道化や軽業師が(おまえの)仲間だ。幸福を、お前は舞台で見つける」。国家と演劇は等価であることを伝える。結局『黄金の馬車』のメッセージとは「メタシアター」に他ならなかったのである。
 宮城聰は18世紀リマを室町時代の日本に、「コメディア・デラルテ」を「田楽」におきかえ、「メタシアトリカルな構造」を表出しようとした。

【筆者プロフィール】
田之倉稔 TANOKURA Minoru
演劇評論家。1938年生まれ。東京外国語大学イタリア科卒。元静岡県立大学国際関係学部教授。1981年『イタリアのアヴァン・ギャルド―未来派からピランデルロへ』(白水社)でマルコ・ポーロ賞受賞。著書多数。