2013年12月14日

【忠臣蔵】「忠臣蔵」のいのち(犬丸治)

 去年公開された、『47 RONIN』という映画にはたまげました。ハリウッドも遂に「忠臣蔵」を取り上げたんですね。大石内蔵助を筆頭とする四十七士の吉良邸討入りは、海を超えて、もはや世界の物語となりました。
 でも、今や日本人の方が「忠臣蔵」を知らないのではないでしょうか。日本映画黄金時代には「定番」でしたが、最近テレビではご無沙汰ですからね。しかし「忠臣蔵」は、今回平田オリザが描いたように、上は社会全体から、私たちの勤める会社、家庭にいたるまで、ピラミッド的日本の上下社会には必ず埋め込まれているDNAなんです。ですから討入り後300年経った今でも生命を失わないんですね。
 皆さん、「忠臣蔵」とごく普通にこの言葉を使っていますが、元禄15年(1703)の討ち入り事件はあくまで「赤穂義士事件」です。当時の劇界は人形浄瑠璃(いまの文楽)が名作者近松門左衛門を擁して日の出の勢いで、歌舞伎は脚本などまだまだ幼いものでした。しかし両者とも、事件直後から、何度か脚色して舞台にかけています。江戸時代は同時代の事件をそのまま脚色するのが禁じられていましたから、「小栗判官」「太平記」の時代背景を借りたのです。
 その集大成が、寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」です。これが古今の大当たりを取り、直ちに歌舞伎化されたのです。
 「仮名」はいろは四十七文字=四十七士で武士の「手本」、「忠臣蔵」でちゃんと大石内蔵助を織り込んである。良く出来た題名でしょう。この人形浄瑠璃・いまの文楽がなければ「忠臣蔵」という言葉は無かったのです。先ごろ大阪の市長さんが、吉良みたいに文楽をネチネチ虐めていましたけれど、市長さんはきっとこうした地元道頓堀の誇らしい歴史をご存知なかったのでしょう。
 平田オリザ「忠臣蔵」のテーマは、浅野内匠頭刃傷以降の大石以下赤穂の人々の動揺ですね。「仮名手本忠臣蔵」は、全十一段構成ですが、「三段目」が刃傷、俗に「喧嘩場」と言い、「四段目」が塩冶判官(浅野内匠頭)切腹、城明け渡しになっています。
 史実では凶変の5日後早朝、第一の使者が国許に刃傷を、深夜には第二の使者が切腹の報をもたらし、城内騒然となります。評定は切腹、籠城、開城と揺れ、刃傷から約1ヶ月後には城明け渡し。それ以前には、同志の間で血盟が交わされました。これが近代劇として劇化されると、真山青果の名作「元禄忠臣蔵」のように「江戸城の刃傷」「第二の使者」「最後の大評定」と、三部に分けられます。ところが、「仮名手本忠臣蔵」だと、それを鎌倉扇ヶ谷の塩冶判官の邸という一場面の一日の出来事として凝縮してしまう。そこが、日本の古典芸能・文芸の大胆さ、力強さです。史実は江戸と赤穂ですけれど、「忠臣蔵」では判官が九寸五分を腹に突き立てた瞬間、国許の伯耆から大星由良助(大石内蔵助)が襖踏み開け駆け込んできます。判官は大星に九寸五分を手渡し「汝にか、た、み」と敵討せよと匂わせて息絶えます。何とも劇的なシチュエーションではありませんか。
 浄瑠璃本文の「評定」は、城を枕に討死の千崎弥五郎と、異議を唱え席を立つ斧九太夫のやりとりだけであっさりとしたものですが、これが歌舞伎になると、一気に膨らみます。判官の遺骸を光明寺に送ったあと沈思する大星に九太夫が御用金配分を知行高割りにしろ、と毒つく一方、若侍たちを懐柔する。血気にはやる彼らを大星が朗々たる弁舌で「まだ御了見が若い、若い」と止める。みな、歌舞伎の工夫です。
 平田オリザも登場人物に言わせているように、事件当時すでに泰平に慣れ、「武士道」というアイデンティティ自体忘れられていました。浄瑠璃「忠臣蔵」は、いわば理念としての「武士道」を再現したものでした。それを歌舞伎で生身の人間が演じた時、御用金配分という物欲、諸士の苦悩、指導者大星の熟慮という、より生々しい感情が肉付けされていったのです。
 さらに時代が下がり、鶴屋南北は「東海道四谷怪談」を書きました。「忠臣蔵」の外伝で、お岩を苛め抜く民谷伊右衛門は塩冶(赤穂)の脱盟浪人という設定。「いまどき敵討ちなんて古風だ」とうそぶきます。
 平田オリザの脚本は、浄瑠璃・歌舞伎の様式から自由に解放され、子供の道場(塾)はじめ何気ない日常が破綻し、仕官再就職・籠城・討入に心揺れる人を描いています。
 しかしそれは、そもそも「忠臣蔵」という極限状況を描き切った浄瑠璃・歌舞伎が本来持つ普遍的ないのちなのです。
 私たちのこの日常ですら、赤穂の人々と同じくいかに儚いものであるか。私たちはそれを3・11の震災で思い知ったではありませんか。

【筆者プロフィール】
犬丸治 INUMARU Osamu
1959年生まれ。演劇評論家・歌舞伎学会常任委員。「読売新聞」「テアトロ」に歌舞伎評執筆。著書に「市川海老蔵」(岩波現代文庫2011)ほか。


2013年11月13日

【わが町】開戦3週間前の『わが町』(水谷八也)

 1938年2月、ソーントン・ワイルダーの『わが町』はブロードウェイのヘンリー・ミラー劇場で幕を開ける(といっても、最初から幕は開いていたが・・・)。後のワイルダーの芝居が常に賛否両論を招くように、『わが町』も完全な裸舞台という過激さゆえに評価は大きく分かれたが、春にはピューリッツァー賞に輝き、次第にアメリカを代表する戯曲という地位を獲得していく。以後数年間で、『わが町』は世界中で翻訳され、地球上で『わが町』が上演されていない夜はない、とまで言われるようになる。
 ブロードウェイでの幕を閉じるのが38年11月。森本薫の翻訳『わが町』が演劇雑誌『劇作』の11月号に掲載されるのが翌39年である。当時の状況を考えれば異様な早さである。これが舞台にかかるのが1941年7月。文学座が「勉強会」の名のもと、長岡輝子演出で、築地の国民新劇場において上演した。この短期間の公演は好評で、朝日新聞はこのような良質の舞台を「3日で終わらせるのは惜しい」と書いている。これに応える形で、文学座は9、11月に東京、大阪で上演することを決定した。
 7月の舞台を見て感動し、東京での本公演をもう一度見た若者がいた。東京商科大学(現・一橋大学)の学生だった大串隆作である。大串は演劇研究会のメンバーであり、この文学座の『わが町』をぜひ、国立のキャンパス内にある兼松講堂で上演して、その感動を学友と共有したいと願い、さっそく行動に出る。しかしこの年8月のアメリカによる対日石油輸出禁止以後、軍内部は開戦の方向へと傾き、当時の日米関係は悪化の一途をたどっていた。大串は周到に準備を進める。
 幸い、大学にはリベラルな空気がまだあり、アメリカ文学者の西川正身もいた時代である。大串青年の熱意は教授陣にも伝わり、全学あげて協力体制をとり、また文学座もこれを快く引き受け、11月17日、文化祭の一環として兼松講堂での上演が実現する。公演は大成功に終わり、学生も教員も深い感動に包まれたという。真珠湾攻撃のわずか3週間前のことである。
 一橋での公演の翌日の朝日新聞第一面の中央には、「首、外相 対米決意を明示」という囲み記事が出る。これからその「アメリカ」と戦う運命にあるとおそらくは予感していた学生たちはどのような思いで「アメリカ」を代表するこの芝居を見て、何に感動したのだろう。時代の空気を考えれば、彼らの感動の源泉がこの戯曲の「アメリカ」的な要素にあったはずはない。おそらく彼らは、「アメリカ」を突き抜けた『わが町』の本質に触れたのだと考えざるを得ない。
 長岡輝子の演出助手であった長尾喜又は、「私たちはあの年の日夜ひそかに動員が繰り返される夏の日の重苦しい、逼迫した情勢の中で、また予感される死、危険の恐れの中で、この舞台からしみじみと毎日の平凡な生活の貴さ、人生の意義、価値、悲哀、そして永遠なものを感じ、味わったに違いない」と回想している。「死」は、特に若者にとって、現実問題として目前にあった、すでにアジアに、そしてアメリカ・・・。
 ほとんど劇的なことが何も起こらないこの劇を「つまらない」とか、「感傷的だ」と揶揄する向きもあるだろう。しかし、41年11月17日の兼松講堂での若者たちの感動を笑うことはできない。私たちは素直に彼らの感動を想像すべきだろう。
 「平凡」が奇妙にドラマ化され、すでに「平凡」でなくなっている現在、『わが町』はどんなふうに見えるのだろうか。西川正身は兼松講堂での上演後、一橋新聞に「変転の時流をよそに 静かに生を反省」と題して記事を書き、同僚の神保謙吾は文学座を「多分の純粋性を持っている」劇団と評価した。今回はこの純粋性を受け継ぐ文学座の今井朋彦が、一橋の学生も耳にした森本薫の翻訳を使っての演出となる。日本の『わが町』の原点に戻って、変転の時流をよそに、静かに「平凡」を反省してみたい。

【筆者プロフィール】
水谷八也 MIZUTANI Hachiya
早稲田大学文化構想学部教授(文芸ジャーナリズム論系)。専門分野は20世紀英米演劇。共著に『アメリカ文学案内』(朝日出版社、2008年)、訳書にソーントン・ワイルダー『危機一髪』『結婚仲介人』(新潮社、1995年)など。


2013年10月16日

【サーカス物語】『幼ごころの君を求めて』(河邑厚徳)

 ミヒャエル・エンデの戯曲が静岡芸術劇場で公演されます。東欧の陰影が色濃い『サーカス物語』をインドネシアの鬼才がどう演出するのかワクワクします。エンデは児童文学者という先入観で見られがちですが、幅広い才能にあふれ、近代西洋思想を批判する思想家でもありました。青年時代には舞台に立ち、戯曲も書いていましたが無名でした。エンデが世に出たのは『ジムボタンの機関車大旅行』。大ベストセラーになってドイツ児童文学賞を受賞しました。その後は『モモ』や『はてしない物語』など永遠に残る傑作を書き続けてきました。児童文学と並んで、エンデの創作の大きな柱が『遺産相続ゲーム』や『ハーメルンの死の舞踏』などの戯曲でした。葬儀にはエンデの仕事を代表して、ドイツ・バイエルン地方の方言で書かれた『ゴッゴローリ伝説』が上演されています。
 エンデの死は1995年ですが、私は1989年、NHKスペシャル『アインシュタインロマン』(1991年放送)のプロデューサーとしてミュンヘンを訪れました。シリーズはアインシュタインの相対性理論を映像で表現しようというものでした。時間と空間の新しい関係を明らかにして20世紀の科学技術万能時代の幕を開いた天才の頭脳は何を考え、何を発見したのか。シリーズのうたい文句は「知の冒険」でした。しかし、手放しでアインシュタインを賛美するのではなく、現代文明の功罪も問いかけようとするものでした。『モモ』は理論物理学の時間とは違う、いのちの時間を描いた作品です。アインシュタインをエンデはどう見るのか?
 エンデは企画書を読んで、「私は自然科学の専門ではないし、アインシュタインを批判するつもりはない」と返事をくれました。しかし、「もし私に出来ることがあるとすれば、自然科学的思考が未熟であることを指摘することです」と書かれていました。エンデは、自然科学は、主観と客観を分断することで発展し、その前提に欠陥があると指摘しました。「客観的な真実」からは、研究し、実験し、思考をめぐらせた科学者自身の姿は消えています。その結果、科学者の研究は中立不偏で研究の目的や結果への責任が問われないことになります。
 アインシュタインは、神の謎を解きたいと考え、相対性理論を発見した自由で創造性にあふれた天才です。しかし、第二次世界大戦中には一人のユダヤ人として、ルーズベルト大統領へのマンハッタン計画を推進する手紙にサインをしています。ナチの核開発を憂慮しての行為でした。核兵器や原発を生んだ核エネルギーは、特殊相対性理論がこじ開けた秘密の扉だったのです。科学の中立性は現代の神話かもしれません。地球規模で科学技術の開発競争が進み、国家、大学、企業などが巨額の投資をして成果を求め、特許で保護された研究から膨大な利潤が生まれます。ES細胞、クローン技術、臓器移植、遺伝子操作作物…。未来に何が起こるのかが不透明なままに、何かが暴走しています。エンデは、科学技術はモラルではなく常に成長することを強いるマネーの論理により、牽引されていると警告しています(河邑著『エンデの遺言』より)。この奔流に対抗できるのは人間の新しい想念以外にはありません。
 エンデは繰り返し未来を創造する力の源泉はファンタジーだと語りました。そこにエンデの渾身のメッセージがあると思います。
 「ファンタジーとは現実から逃避する手段であり、どこかで空想的冒険をするためにあると考えられています。しかし私にとってファンタジーとは、新しい観念を形成する、または既存の観念を新しい関係形態に置く人間の能力なのです。現代人にとって具体的なファンタジーを発達させることほど必要なものはないのです。それによって私たちはまだ見えない、将来起こる物事を眼前に思い浮かべることが出来るのです。読書を通じて、または映画、演劇、絵画など創造的能力によってそれをしなければなりません。」(『アインシュタインロマン6』NHK出版より)
 エンデは、近代合理主義に対抗する叡智を東洋思想にも求めました。大乗仏教の唯識論は、人の意識のレベルを八段階にわけて意識の下に、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という二つの無意識世界を置きました。それは科学的方法では証明できない、ファンタジーの住処ではないでしょうか。『はてしない物語』で虚無の世界に対抗するファンタージエン国。エンデは、科学の知と様々な民族が生み出した神話の知の統合を夢見て世を去りました。

【筆者プロフィール】
河邑厚徳 KAWAMURA Atsunori
映画監督。女子美術大学教授。東京大学法学部卒業後NHK入局。在籍39年間で『がん宣告』『アインシュタインロマン』『エンデの遺言』などで新しい映像表現を開拓する。『天のしずく 辰巳芳子いのちのスープ』(2012年)はサンセバスチャン、ワルシャワなどの国際映画祭で招待作品に選ばれ全国で上映中。


2013年9月24日

【愛のおわり】『ソクラテスの冗長率』(平野暁人)

 「とんでもない大成功だよ。こんなの初めてだ。頭が追いつかない」
 そんなメールがパスカルから舞い込んだのは、アヴィニヨンの興奮冷めやらぬ2011年8月上旬のことだった。ちょうど7月から休暇と語学研修を兼ねてイタリアの港町に滞在していた私は、パスカル本人から誘われていたこともありなんとか予定を調整して現地まで観に行こうとするも叶わず、仕方なくお詫びかたがた様子伺いのメールを送るにとどめておいたのだが、そこへこの存外浮かれた返信である。
 大成功? あのパスカルの作品が?
 憚りながら、フランス演劇界におけるパスカル・ランベールの経歴とその立ち位置の特異性に少なからず通じている人間にとってこれほど不条理に響くフレーズもないだろう。私自身、パスカルとは『演劇という芸術』『私のこの手で』(ともに2009年11月こまばアゴラ劇場にて上演)以来の付き合いだが、前者では老優が仔犬(本物)相手に延々と問わず語りを続け、後者では完全暗転のなか極小の蛍光灯がひとつまたひとつと灯されてゆきやがて浮かび上がった人間の姿をみれば両性具有、という具合に、いまこうして思い出しながら描写してみてもつくづくカオスである。また翌2010年にここ静岡の野外劇場「有度」にて『世界は踊る〜ちいさな経済のものがたり~』を上演する機会を得た際には、一転して一般参加者を数十人も募りフランス人俳優たちと共に舞台を埋め尽くしてみせた。そんな、常に作・演出を旨とし、自身が芸術監督を務めるジュヌヴィリエ国立演劇センターにおいても新作しか上演させないという徹底したスタイルをとっているパスカルを、コンテンポラリーという枠組みすらもどかしく独自の詩的言語を磨き続けるあのパスカルを、アヴィニヨン中が祝福しているという。頭が追いつかないのはこちらの方だ。
 ほどなくして送られてきたDVDを観て、私は再び絶句した。本気でこれを上演しようというのだろうか。この日本で。不可能だ。まず、これほどのテクストを訳しきれる自信がない。よしんば訳しきれたとして、日本の観客に受け入れられるスタイルだとも思えない。しかしこちらの当惑をよそに日本版の制作準備は着々と進められてゆく。さらにはイタリア、ロシア、アメリカ、クロアチアといった諸外国版の度重なる成功が申し分のない追い風を吹かせる。気がつけば、『愛の終わり』の翻訳を担当していると告げただけでフランス演劇人から一目置かれるほどの作品に育っていた。私はといえば、そんななかでもやはりひとりで途方に暮れていた。2013年1月のあの日までは。
 その日、フランス国内で既に何度目かの再演となるパリ・ポンピドゥーセンターでの公演を体感したその瞬間に、迷いが断ち切れた。明らかに、国も文化も超えた情動が眼前で脈打っていた。なにを伝えるべきかはわかった。あとはどう伝えるべきかだ。すなわち(私の職分に限っていえば)いかに正確に翻訳するかのみならず、日本語を監修してくださる平田オリザ氏へパスカルの詩性をいかに緻密に引き継ぐかが鍵となる。
 ところで、私のような演劇の素人が失礼千万を承知で申し上げるならば、今回の平田氏とパスカルとのコラボレーションがどう結実しうるのかについては当初、あまりはっきりとしたイメージが抱けずにいた。なにしろ周知の通り、平田氏といえば計算され尽くした「言い落とし」「あいづち」「言い間違え」さらには「不在」といった手法を駆使して逆説的に人間の関係性を描き出す「対話(ダイアローグ)」の達人である。翻って本作を貫くのは西欧言語文化のお家芸ともいえる長大なモノローグ(独白)であり、しかもパスカル自身はこの言葉の奔流を初めから終わりまで一切の句読点も改行もなしに「ソクラテスの犬を追って(本人談)」、すなわち絶えず四方八方へと寄り道する思考の流れをひたすら辿って書き上げたという。いうなれば気が遠くなるほどに長く無秩序な一文で綴られた戯曲なのだ。ますます好対照を成すばかりにも思える両者の言語世界はいかにして交わりうるのか。
 はたして、「対話」と「犬」を結ぶ手がかりは「冗長率」にあった。「冗長率とは、言語学の世界の用語で、一つの文章のなかに、どれほど、伝えたい情報と(一見)無縁な内容が含まれているかを示す数値である(平田オリザ著『演劇入門』より)」。ここでは仮に台詞のなかのノイズと言い換えてもいいだろう。対話の達人が配した無数のノイズを媒介として研ぎ澄まされてゆくモノローグ。そうして至高に達したモノローグはやがて自ずから対話の相貌を呈し始める。パスカル―平田版ならではのこのパラドックスをぜひ感じ取っていただきたい。
 世界初演の幕が上がる。

【筆者プロフィール】
平野暁人 HIRANO Akihito
翻訳家。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手がける。訳書に、カトリーヌ・オディベール『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)、クリストフ・フィアット『フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ』(明石書店)などがある。『愛のおわり』日本版の翻訳を担当。


2013年8月13日

【タカセの夢】『タカセの夢』の夢(横山義志)

Filed under: 2013

 今年8月頭、韓国公演出発前の『タカセの夢』通し稽古を見た。この作品を見るのはもう何度目か分からないが、まず冒頭の、制服を着た女子中高生が歓声を上げながら走りまわる場面で、もう何度となく見ているはずなのに、えらくどきどきする。思えば自分が中学生、高校生の頃は、その年代の男の子なり女の子なりの集団がいかに大変なものかというのはよく分かっていたはずなのに、それから少し経つと、あっという間に忘れてしまうものだ。一言でいえば、動物性とでも言えばいいだろうか。
 『タカセの夢』はやたらとハイブリッドな作品である。日本の童謡やヨーロッパのバロック音楽がアフリカの音楽と同居している。だが、不思議と違和感を感じさせない。最近の舞台では、「多国籍」な作品というのはよく見るようになったが、顔かたちや文化の違いを超えて、このように「人間」というものを感じさせてくれる作品というのは、なかなか出会うことがない。ここでは、都市に棲み、スーツを来て電車に乗る大人たちから、花の咲き乱れる草原で動物に囲まれて歌を歌う子どもたちまで、生き物としての「人間」の姿が、なぜかひとつづきにつながって見える。たぶんそれは、「動物としての人間」を肯定しているからだろう。
 近代の文化は、他の生物に対する人間の優位を原理として打ち立てることで成立してきた。そのために「動物」と「人間」は対立させられ、人間の「動物的な部分」は否定され、抑圧されてきた。だが、そもそも「人間の優位」というのは、そんなに自明なことではない。この「人間の優位」は、動物と共通する肉体ではなく、他の動物が持たない言葉にこそ人間の価値がある、という発想にもとづいている。「言葉は、人間だけがもっているもので、知識や文明を蓄積し、新しいものをつくりだして環境を変化させることができるものです。[…]でも、特別なのは他の動物も同じです。たとえば、発した超音波が物に当たって反響するのを聞くことで外界を認知するのは、コウモリの特徴です。鼻のまわりの筋肉を花びらのように発達させ、地中や水中の虫を掃除機のように吸い取るのはホシバナモグラだけ。みんな特別なんです。」(注)
 コトバもまた、ヒトという動物の身体能力だと考えてみれば、世界はだいぶ違って見えてくる。「ずいずいずっころばし、ごまみそずい!」と歌うとき、ヒトは何を考えているんだろう? というのは、ちょっと間抜けな問いであって、ヒトはそのとき、踊るときと同じように、コトバを発して、それを分かち合うということ自体を楽しんでいるのである。ヒトは動物以上でも、以下でもない。だからおごるべきではないが、卑屈になる必要もない。他の生き物たちと同じくらいには、楽しく生きる権利を持っているはずだ。だが、自分が動物であることを忘れてしまえば、あらゆる幸福を見失うことになるだろう。
 2010年にこの企画を立ち上げるとき、ニヤカムさんは「大人に希望を与え、生きる上で一番大事なことを教えられるようなダンス作品」を作りたい、と言っていた。「子どもや若い世代が他の人とコミュニケーションを取りにくくなっている原因の一つは、携帯電話・インターネット・テレビゲームなど、身体を介さないコミュニケーションがあっという間に拡大してしまったせいだ。子どもたちは本当は他の子どもたちとじゃれあったりしたいのに、子どもたちの世界に電子機器が浸透していくにつれて、そんな機会はどんどん奪われていき、身体を通じたコミュニケーションに対して臆病になっていく」、とニヤカムさんは言う。身体の時間が、バーチャルな時間によって次々と置き換えられていく。日本はこの現象を最も早く経験した国だったのかも知れない。気がつくと、ここ数十年のあいだに、テレビゲーム・アニメ・漫画を通じて、世界の子ども文化はすっかり日本の発明品によって席巻されてしまった。
 稽古場を見に行って、驚いた。稽古が始まる前、舞台芸術公園の芝生の上で、出演する子どもたちが本気でオニゴッコをしたり、ハナイチモンメをしたりしている。こんなに大声ではしゃいで走りまわっている中高生というのも、ほとんど見た記憶がない。この、オニゴッコで全力疾走する楽しさが、そのまま舞台に活かされている。出演者のお父さん、お母さんにうかがうと、参加者たちは、帰ってくると「あー疲れた」と言いながら、週に一度の休みの日にも「今日も稽古があればいいのに」とつぶやいたという。
 『タカセの夢』は「アフロ・ジャパニーズ・コンテンポラリーダンス」と呼ばれている。無理矢理なジャンルだと思う方もいらっしゃるだろうが、このなかに出てくるハナイチモンメやカゴメカゴメを見てみれば、日本を深く深く掘っていけばアフリカにたどりつくことに気がついていただけるのではないか。アフリカの賢者たちの知恵が、静岡の子どもたちを通じて、もう一度世界の大人たちに希望を与えられるのかも知れない。この夢を本気で生きているダンサーたちを見れば、そんな夢を信じたくなる。
(注:岡ノ谷一夫『つながりの進化生物学』朝日出版社、2013年、19頁。)

【筆者プロフィール】
横山義志 YOKOYAMA Yoshiji
SPAC文芸部、海外招聘作品担当。2008年パリ第10大学演劇科博士号取得。


2013年7月17日

【ZAZA~祈りと欲望の間に】プロフェッショナリズムへの意志−−−金森穣は三つの課題をどうクリアしたか(貫 成人)

Filed under: 2013

 金森穣は、自身、卓越したダンサーであり、少なくとも15年間に44の新作を発表した振付家であり、主宰するNoismで島地保武、平原慎太郎など、優れたダンサーを数多、育てた有能な指導者であり、しかも、そればかりでなく、日本唯一の公立劇場(りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館)レジデンシャルダンスカンパニーの芸術監督でもある。
 まことにうらやましい境遇に見える。だが、考えてみれば、こうした職責をひとりで勤め上げるのは容易ではないはずだ。言葉遣いひとつとっても、振付のためのそれと、行政関係者を説得するためのそれはまったく別ものである。それを金森が勤めおおせるのは、かれの根底にひとつの一貫したもの、すなわち「プロフェッショナリズム」への強固な意志があるからだ。だが、それはどのようなものなのだろう。
 金森の名がダンスファンに浸透したきっかけとなったのは、2004年『SHIKAKU』(新宿パークタワーホール)だった。広いスペースが白い壁によって迷路のように仕切られ、溢れんばかりの観客が当てもなく歩き回り、そのひとびとを掻き分けるように登場したダンサーたちが、大小の部屋や通路のそこここで思い思いのパフォーマンスをおこなう。それにつれて無秩序に場所を変えていく観客は、いつの間にか背後にいたダンサーに突き飛ばされそうになったり、いきなり間近にあらわれたダンサーと目が合ったりする内に、奇妙な身体感覚をおぼえるのだった。
 その体験について脳科学者の茂木健一郎はこう述べている。「周りでいろんな人が踊っていて、もうとにかく今までに経験したことがない、もうすごい妙な経験でしたね。もう言葉にできないし、意味にもできないし、もう溢れ出るしかないっていうか。……全部溢れ出ていっちゃっていること、それが心地いいんですよね」(『芸術の神様が降りてくる瞬間』光文社)。
 『SHIKAKU』はNoism発足直後の作品だが、そこにはすでに金森のプロフェッショナリズムを考えるために重要な秘密が隠れている。
 劇場に登場するのは、プロフェッショナルな、すなわち、生活の不安なく、毎日、トレーニングに専念できるダンサーであるべきだ、と金森は考える。だが、行政を説得しなければその体制は実現せず、そのためには行政や納税者=観客が納得するような作品をつくらなければならない。
 ところがここで難問が立ちふさがる。行政や納税者を納得させるためには、第一に、作品の意図が明解な言葉で説明できなければならず、第二に、その意図は、作者の夢想などではなく、現代社会の「鏡」でなければならない。しかも、第三に、その作品は、劇場にいあわせなければ体験できないような、なにか、言葉では説明しきれないものを観客に与えなければならない。
 一見、相矛盾するこの難問は、どうすればクリアできるのだろう。
 実は、このうち第一と第三の課題解決法を示唆するのが、『SHIKAKU』なのである。
 従来、ダンサーの動きはすべての観客に等しく、見えなければならないと考えられており、実際、通常の、いわゆるプロセニアム形式の舞台(額縁舞台)はそのように設計されている。それに対して『SHIKAKU』の出発点にあったのは、舞台におけるこうした大前提を崩すという明確な意図だった。この作品においてダンサーはいつ、どこにいるべきかだけが指示され、その結果、何が起こるか、各観客がどこから何をどう見るか、その全体がどうなっているかは、一人一人のダンサーはもとより、振付家の金森自身も知りようがなかった。
 意図はシンプルだが、それが生み出すものは限りなく多様である。一人一人の観客がそれぞれの場所で味わうものは観客ごとに異なるからだ。そしてそれは、まさに、ダンサーと無数の観客が同じ場所を占める劇場空間でなければ体験できない効果である。
 だが、第二の課題はどうクリアできるのだろう。その一例を示してくれるのが、今回上演される『ZAZA~祈りと欲望の間に』である。現代の時間感覚とは背馳する時間、多人格が同居した身体、各自の祈りが転化した欲望という、それぞれはまさに現代を映し出す「鏡」だからだ。
 もちろん、作品が実際になにを生むかは、それぞれの過去や生活、気分をもつ観客一人一人が公演をどう味わうか次第である。では、各自が作品を十分味わうためになにが必要か。それは、「考えるな、見よ」という、よく知られた教えだけなのである。

【筆者プロフィール】
貫 成人 NUKI Shigeto
専修大学教授。専門は現象学、舞踊美学、歴史理論。近著に『歴史の哲学―物語を超えて 』(勁草書房)、『哲学で何をするのか: 文化と私の「現実」から』(筑摩選書)などがある。


2013年6月28日

【Hate Radio】ホロコースト・ジェノサイド・オウム ・・・声と情動、不可逆な死角 (伊東 乾)

 2008年6月、ルワンダ共和国大統領府の招きで同国に3週間ほど滞在した。1994年4月ルワンダで発生した大虐殺は市民が市民を鉈で攻撃し、3ヶ月の間に80万とも120万とも言われる命が奪われたものだ。ジェノサイドがラジオの音楽番組で誘導された経緯は映画「ホテル・ルワンダ」などで広く知られる。この事実を知った瞬間、いつか必ずルワンダに行かなければと強く意識した。
 戦争とメディア・マインドコントロールに対する強い疑問は、人間として、音楽家として、私のあらゆる問題意識の根底を貫く。私が小学校1年のとき早世した父は、かつて第二次世界大戦の戦時情宣の中で学徒出陣、関東軍の二等卒となり戦後はシベリアのラーゲリで4年の強制労働を強いられた。2つ年下の母は昭和20年大牟田空襲で焼夷弾の直撃を受け全身炭化の火傷を奇跡的に生き延びている。また幼時から私が教えられた第二次世界大戦後の欧州芸術音楽の倫理は、ナチス・ドイツのホロコーストへの徹底的な反問を基礎に置く。さらにオウム真理教のメディア・マインドコントロールを受けた私の大学時代の同級生、豊田亨君は地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった。これらと全く同根の問題が、過去の歴史でなくルワンダの「いま・ここ」で起きている・・・行かなければ一人の芸術家として嘘をつくことになる。果たして虐殺から14年目、事件の現場に立つことになった。
 しばしば「フツ族・ツチ族」と呼ばれる対立二者は、実はトゥティが武士・牧畜民、フトゥが農耕民といった意味合い、社会的な違いであって民族に違いはない。差別は宗主国ベルギーの分割統治で齎された。1933年、時を同じくしてドイツではナチスが政権を奪取している。それから60余年の社会差別、積もりに積もった取り返しのつかない出来事の数々。内政の矛盾から目をそらせるため多数派フトゥ政権は少数民トゥティへ民衆の憎悪を煽り立てた。そんなフトゥのハビャリマナ大統領の暗殺を切っ掛けとして、準備されたジェノサイドが決行された。
 殺戮の3ヶ月間、ラジオの音楽番組は単に雰囲気に留まらず、虐殺のための極めて具体的な情報をリアルタイムで提供した。「どこそこ通りの奥の店の二階にトゥティのゴキブリ誰それが潜んでいる。行ってみんなで血祭りに挙げろ」といった内容がビートの利いたDJのトークで喧伝され、多くの人がそれに乗った=乗せられてしまった。
 古来ルワンダは素晴らしい詩の口承伝統を持つ。同時に20世紀初頭まで文字の文化を持たなかった。中高年齢層の識字率は今もって上がらない。客観的な文字での事態確認はヒトの認知に冷静な悟性の発現を促す。だがジェノサイドの現場では、ラジオが齎す扇動的な声に煽られ、憎悪の感情に流された人々が現場に殺到し、異常な興奮の中で集団殺人が実行されている。耳にまぶたはついていない。声はダイレクトに情動を掻き立て、悟性は常に情動に遅れる。衝動は人を不可逆な行動に駆り立てるが、そこには常に危険な死角が存在する。気がつくと行為は完了しており、後悔は決して先に立たない。
 虐殺犯を裁くガチャチャの場では、遠来の客として皆から歓迎された。被告たちからすら拍手を受けた。おかげで原告とも被告とも親しく話すことができた。誰も悲しいほどに澄んだ目を生き生きと輝かせている。まる二日の傍聴、最後はすべての人と握手して裁きの場を後にした。
 ジェノサイド鎮圧直後、隣国ウガンダのマケレレ大学医学部教授として難を逃れたエミール・ルワマラボ博士は戦後、ルワンダ国立大学学長として「マスコミュニケーション学部」を創設した。ここで医学部の教授も招いてメディア・マインドコントロールの生理と心理を学生たちとディスカッションしようと・・・日本を出る時点での自分は、見通し甘く・・・考えた。
 実際に教室で語り合った、内戦が長く続いたこの国の大学生たちは、平均年齢が20代後半だった。彼らは14年前、物心ついた思春期の少年少女として現場に居た当事者、しかも加害者被害者双方の子弟が教室を埋め尽くしていた。すべての質疑応答は一人称複数で突きつけられた。「あの時私たちは、あるいは私の両親は、どうすれば正気を保つ事が出来たのですか?」「もう一度同じ情宣があったら、私はどうすればいいんですか?」一つ一つの問いへの答えを、生理や認知に基づいてその場で誠実に共に考えた。私の答えのキーポイントは「笑い」だった。
 ルワンダ国立大学は学生ラジオ局を持っていて、セミナー終了後そのインタビューを受けた。その週末の日曜、別のガチャチャに赴いた私に運転手のトニーが車に戻って来いと呼ぶ。行ってみると、虐殺を呼びかけたのと同じラジオ塔から発信された「メディア・マインドコントロール再発防止」を語る私自身の声がカーラジオから流れている。何かに打たれた。ルワンダの問題が完全に自分の血肉と化した瞬間だった。

【筆者プロフィール】
伊東 乾 ITO Ken
作曲家=指揮者、ベルリン・ラオムムジークコレギウム芸術監督。松村禎三、松平頼則、高橋悠治、L・バーンスタイン、P・ブーレーズらに師事。2013年秋季は「トリスタンとイゾルデ」連続上演に取り組む。東京大学作曲指揮研究室准教授。


2013年6月21日

【母よ、父なる国に生きる母よ】『母よ、父なる国に生きる母よ』――原作者と原作について(久山宏一)

 原題をあえて奇妙な日本語に直訳すると、「母なるものと父国なるものについての作品」となる。「娘」がそれを書いた。
 Bożena(ボジェナ) Umińska(ウミンスカ)-Keff(ケフ) (1948- )は、詩人、作家、エッセイスト、映画評論家、文学史家として、多彩な活動を続ける女性。ポーランド語で執筆するユダヤ系女性として、民族・性・家族関係のステレオタイプ研究という、自らのアイデンティティに直接かかわる主題を取り上げてきた。ワルシャワ大学でジェンダー研究の教鞭をとる。
 大方の読者が彼女の存在を知ったのは、『影を持つ人物――19世紀末~1939年のポーランド文学におけるユダヤ人女性の肖像』(2001)によってだった。ウミンスカ名義で刊行された浩瀚な研究書である。2008年、今度はケフ名義で、戯曲『母よ、父なる国に生きる母よ』(以下、『母よ』)を発表する。
 『母よ』は、「文化的禁忌(タブー)とされる領域に土足で踏み込んでみる実験」である。「娘」が「母」を「くたばれ、ハイエナ!」と罵る場面を書いたとき、ケフは厚顔無恥な自分に我知らず恐れ慄いたという。
 ギリシャ神話における結婚と社会秩序の守り手デメテルとその娘コレ(ペルセフォネ)の物語が基になっている。デメテルは、冥府の王ハデスに連れ去れた娘を探して神界を離れ、人間界を放浪する。最終的に、ゼウスは娘を半年だけ冥界から出し、神界で母娘ともに暮らすのを許す……。
 本作では、「母」はデメテルDemeterを縮めたメテルMeter、「娘」はコレのポーランド語形コラKora、その愛称形のコルシャKorusia/ウシャUsia、またはペルセフォネPersefonaと呼ばれる。メテルは「母Mater」と、ウシャは、(母の嘆きを)「聞く」ことを象徴する「耳uszy(ウシ)」と響き合っている。
 ケフは、こうした神話的原型のうえに、別の次元の事象を塗り重ね、「母と娘の神話の遍在」を描き出そうとする。
 (1)ナット・ターナーの奴隷反乱(1831)などの歴史 
 (2)「トールキン作『指輪物語』のフロド・バギンズ、映画『エイリアン』のエレン・リプリー、ボニーMのヒット曲『バビロンの河』、ジョン・レノンの『イマジン』、ゲームが映画化された『トゥームレイダー』のララ・クロフトなどの文化」とする
 (3)反ユダヤ的発言など、ポーランド人が日常生活で無意識に発する言葉
 『母よ』は、コロスを伴うギリシャ演劇または合唱を伴う歌劇のような形式で書かれ、その中に、採集されたさまざまな言説・物語が(一見)雑然と投げ込まれている。しかし、舞台作りの素材としての魅力は、すぐに有能な演出家の注目するところとなった。2010年にはマルチン・リベラ、翌2011年にはヤン・クラタが舞台化する。
 リベラは、母と娘がテーブルに向かって対面し、背後のスクリーンにコロスが登場する形式にした。母娘のユダヤ性に焦点があてられている。
 クラタは、母・娘・コロスを6人の俳優(5人の女優と1人の女装した男優)に振り分け、場面ごとに役割を入れ替えるようにした。音楽と踊りを多用したミュージカル的な演出で、ユダヤ的要素は最小限にまで捨象された。
 例えば、原作者ケフは、「母親と家族の昔の物語/戦争前の/戦争中の歴史/逃亡し死を逃れ人間以下になるまでの屈辱を受けたユダヤ人/母親の幻想ではなく公文書・映画・記録がある」という作品冒頭の語りを、「ここだけは但し書きとして、おふざけなしに書いた」が、演出家クラタは、ポーランド東方ルヴフ(現ウクライナのリヴィウ)に住み、ホロコーストを生き延びたユダヤ人が繰り返すきまり文句として解釈した。
 ポーランド人の反ユダヤ的発言を並べた「エピローグ」は、視覚的に極めて過激なエンディングに変えられた(観てのお楽しみ!)。ジョン・レノンの『イマジン』を援用して、夢の理想社会を描き出す感動的な場面も削除された。
 原作者ケフはこれらの改変に必ずしも満足していないようだが、挑発的なクラタ演出のおかげで、文化と民族の境界線を越えて理解される舞台が誕生した。
 私は、「母」と「娘」が、臍の緒を連想させる長い髪で結ばれて引き合う場面(原作にはない)を観ながら大笑いし、やがて寒気に襲われたものだ。幼かったころ、母が、箪笥の奥から臍の緒を入れた木箱を取り出し、私に見せたときの衝撃を思い出したからだ。
 なぜ、母はそんなことをしたのだろう? 今、私の臍の緒はどこにあるのだろう?

【筆者プロフィール】
久山宏一 KUYAMA Koichi
ロシア・ポーランド文化研究、ポーランド語通訳。東京外国語大学など非常勤講師、ポーランド広報文化センター・エクスパートを務める。訳書にスタニスワフ・レム『大失敗』(国書刊行会)など。


2013年6月16日

【生と死のあわいを生きて】小島章司の踊った日本とスペイン(山野博大)

 小島章司は、1939(昭14)年10月1日、徳島県に生まれた。はじめは音楽家を志し、上京して武蔵野音楽大学声楽科に入った。しかし彼の興味は早い時期からスペイン舞踊に移り、1966(昭41)年には、26歳でスペインに留学する。直後の1967(昭42)年、スペイン国立舞踊団に入団し、直後に行われたソ連ツアーの一員に加えられる。彼の転向は大正解だった。
 1968(昭43)年には、歌手のラファエル・ファリーナに認められ、一座のスター・ダンサーとしてマドリードの劇場での長期公演で踊る。以後、スペイン各地でさまざまな舞台を踏むが、若さにまかせて1カ月に50回も踊った無理がたたり、3年目に過労でからだをこわしてしまう。
 病気療養中の踊れない時期に、彼はスペイン人にスペイン舞踊を教えた。しかしこれは、まったくありえない出来事だった。スペイン生まれの歌舞伎役者に指導されて、はたして日本人は納得してついて行くだろうか。誇り高きスペインのダンサーたちが彼に教えを乞うようになったのは、小島が日本人のダンサーとして各地の舞台で評判を得ただけではなく、スペイン国営テレビでその映像が全国に流れ、広く名前を知られるようになっていたからだ。1971(昭46)年のフラメンコ・フェスティバルでは、日本人として初めて踊る機会を得たし、またパリのスペイン民族舞踊団に振付者として招かれるなど、活動の範囲を着実にひろげて行った。
 日本での活動は、スペイン行きから10年後の1976(昭51)年から開始する。帰国し《フラメンコの夜》で全国各地で踊った後、1980(昭55)年には、東京にスタジオを開設し、後進の指導と創作活動に力を注ぎ始める。

 彼が日本人でありながらスペイン舞踊にのめり込んだことが、それまでになかった舞踊的成果をもたらす結果を呼んだ。彼は四国の出身なので、全国から何百万人もが集まる大イベントの阿波踊りに親しんで成長したことは言うまでもない。彼は日本の芸能の良さ、楽しさ、スケールの大きさを熟知している。その上、彼の生れたところは、江戸後期に各地で流行した「よしこの節」の流れを色濃く残す土地とのことで、京風の雅やかな踊りの持つ優しい雰囲気にも親近感を覚えると、彼から聞いたことがある。そんな環境が、彼のスペイン舞踊に影響し、独特のカラーを加えたのだ。
 日本に古来から伝わる芸能は、年齢の高い者にも門戸が開かれている。例えば能の秘曲である、世阿弥作の可能性が高いと言われる『関寺小町』には、100歳の小野小町が登場する。つい最近の国立能楽堂創立30周年記念公演で上演され、83歳の能楽師が舞ったが、若さが売り物のクラシック・バレエとはかなり様子が違った。
 73歳になる小島章司は、今も現役のダンサーとして日本ばかりかスペインの舞台でもりっぱに通用する。2011年12月の《小島章司フラメンコ舞踊団2011》東京凱旋公演において、スペイン開催のフェスティバル・デ・ヘレスに招かれて上演した『ラ・セレスティーナ~三人のパブロ』を再演し、自ら魔女セレスティーナ役を演じて日本人ならではの舞踊表現のすばらしさを示した。この舞台で彼は第32回ニムラ舞踊賞を受賞している。2009(平21)年には、スペイン国王より文民功労勲章エンコミエンダ章を贈られている。彼はスペイン舞踊の世界へ、高齢者の演ずる日本的な芸の奥の深さを導入し、それでスペイン、日本の両国のファンを納得させた。世界的に高齢化が加速するこの地球上で、彼のやっていることは大きな意味を持つ。
 こんど静岡芸術劇場で上演される『生と死のあわいを生きて~フェデリコの魂に捧げる~』は、1936(昭11)年に起きたスペイン内戦の犠牲になった詩人であり、劇作家のフェデリコ・ガルシーア・ロルカに捧げられている。小島のロルカへの共感は深く、これまでに『ガルシア・ロルカへのオマージュ』(1998年)、『FEDERICO』(2006年)など、多くの作品を発表してきた。彼がスペイン舞踊への理解をいっそう深め、真摯なロルカへの傾倒ぶりを舞踊で表現した作品の成果が期待される。高齢になっても、民衆を守る立場を常に意識し、芸術の革新を忘れない小島章司の変わらぬ「新しさ」に注目しよう。

【筆者プロフィール】
山野 博大 YAMANO Hakudai
舞踊評論家。1936年4月10日、東京生まれ。1957年より批評、解説等を執筆。舞踊関係各賞の選考、各地コンクールの審査にあたる。武蔵野音楽大学、有明教育芸術短期大学で舞踊史を講義。舞踊批評塾主宰。2006年、文化庁長官表彰。


2013年6月15日

【室内】聞こえないイメージ、見えない声(宇野邦一)

 メーテルリンクの『室内』が、演劇としてかなり風変わりな作品であることは、しばらく前から聞かされていた。ある家の庭から、居間で夕べの団欒のときをすごす家族の姿が、窓越しに見えている。そのありふれた光景を見つめている人物のせりふを観客は聞くことになる。その家族に起きた不幸を知らせようとしてやってきた人物は、幸福そうな一家の姿を見て、不幸なニュースをどんなふうに知らせたものか、ためらっている。私の注意をひきつけたのは、ただ見つめられるばかりで会話が聞こえてこないという「室内」と、一方ではそれを見つめて注釈するだけの室外の人物という、その異様な構成であった。
 それは少しヒッチコックの映画『裏窓』のようなもので、骨折で療養中の主人公は退屈しのぎに望遠レンズで向かいのアパートの部屋を覗き見しているが、その部屋の音声はもちろんサイレント映画のように聞こえず、やがてそこで事件が起きるのだ。『室内』は1894年に発表されている。それはリュミエール兄弟がはじめて映画を公開する前の年だ。もちろんメーテルリンクの演劇が、映画の出現となにかかかわりをもつとは思わない。しかしただ目に見えるだけの光景があり、ただそれについて語るだけの声がある、という『室内』の状況は、何か風変わりな趣向より以上のことを意味しているのではないか。すでに写真はただ見つめられるイメージを、そして電話はただ聞かれるだけの声を、人類に与えつつあった。そこで演劇もまた、見える演劇と、聞かれる演劇とに分離するということが起きたかもしれない。そのように視覚と聴覚が分裂するのにしたがって、そこに未知の何かが知覚されるようになる。そういうことが演劇にも、やがて映画にも起きたのである。
 メーテルリンクは他の戯曲『群盲』や『忍び入る者』で、こんどは盲目の人物を登場させ、ただ闇の中に響く声の演劇をつくりだしている。聞こえないイメージとともに見え聞こえてくるもの、見えない声とともに聞こえ見えてくるものに、確かにメーテルリンクは注意をむけたのである。
 それにしても〈不吉な知らせ〉というものは、演劇の重要なモチーフであり続けてきた。
 自分のまがまがしい過去を知らされるオイディプス王、父親の死の真相を知るハムレット。
 しかし不幸な出来事それ自体よりも、出来事を知らせることをめぐって演劇を構想したという点でも、メーテルリンクは斬新だった。
 そしてこういう斬新さは、単に劇作の手法にかかわるものではない。20世紀演劇の忘れてはならない改革者のひとりアントナン・アルトーは、まだ20代の文章でメーテルリンクに讃辞を送っている。その名は「何よりもまずひとつの雰囲気をかもしだす」。「メーテルリンクの思想は、動く寺院のようなもので、その石がひとつひとつイメージを生み出し、ひとつひとつの石が教訓である」。「その思想には建築も形態もなく、厚みと、高さと、密度があるだけだ」。そして結論しているのだ。「メーテルリンクは膜を薄くした」。それは深い真実と、最高度の真実とを隔てる見えがたい膜であり、ある日人間の精神はそれをつきぬけることになるだろう。「残酷の演劇」を提唱したアルトーと「青い鳥」のメーテルリンクとのあいだに意外な接点が、確かにあったのだ。
 そういう接点は、クロード・レジの演劇によっても実現されてきたと思う。ときどきアルトーについて語ることもあるレジにとって、もちろんアルトーはただ演劇に見え透いた挑発や暴力や破壊を導いた改革者ではない。メーテルリンクについて「建築も形態もなく、厚みと、高さと、密度があるだけ」と書いたアルトーは、言語も演技も舞台空間もいちど解体して、精妙な生気の波動が行きかう場所として演劇を考えるようになった。
 クロード・レジが2010年静岡で演出した『彼方へ 海の讃歌(オード)』はフェルナンド・ペソアの長編詩を舞台作品にしたものだった。たったひとりの俳優のモノローグが、港の埠頭に立つようにして、世界の海を幻視する旅をその場で続けるのである。薄暗い光のなかで、フランス語の重厚な語りが、かなり無機的に構成された光と音とあいまって、ペソアの多重人格的な声と幻想を開放することに成功していた。アルトーによって植えつけられた演劇の夢が眼前に実現されたと思うことは数少ないが、私にとってレジの演出作品は、まちがいなくその一例である。

【筆者プロフィール】
宇野邦一 UNO Kuniichi
フランス文学者、批評家。立教大学映像身体学科教授。著書に『アルトー 思考と身体』(白水社)、『ジャン・ジュネ 身振りと内在平面』(以文社)、『映像身体論』(みすず書房)などがある。