4/28に行われましたシンポジウムの要約版です。
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オルタナティブ演劇大学
目に見えぬ美をめぐって―反自然主義の系譜―
◎登壇者
ダニエル・ジャンヌトー(演出家) 通訳:平野暁人
今野喜和人(静岡大学人文社会科学部教授[比較文学文化])
布施安寿香(SPAC俳優)
◎司会
横山義志(西洋演技理論史研究者/SPAC文芸部)
2015年4月28日、静岡市葵区のスノドカフェ七間町で演劇祭関連シンポジウムが開催された。オルタナティブ演劇大学と題されたシリーズの3回目である。演劇祭で上演されるダニエル・ジャンヌトー演出『盲点たち』を題材に、時代の趨勢とは別の道を見ようとした作者モーリス・メーテルリンクの可能性に迫った。以下、抜粋である。
■メーテルリンクと反自然主義
横山 『盲点たち』の作者メーテルリンクって読んだことありますか? 『青い鳥』の作者です。SPACでは2年前に『室内』(クロード・レジ演出)という作品を上演しました。こんなに頻繁にメーテルリンクを上演する劇場は世界中でも滅多にないと思います。日本でも大正時代までは読まれたり上演されたりしていたのですが、今はあまり読まれていない。その理由は、いわゆる芝居っぽくはないからです。不思議な芝居をたくさん書いている。「反自然主義の系譜」が今日の副題ですが、自然主義が盛り上がっている時代に、メーテルリンクは違うことをやろうとしました。19世紀から20世紀にかけてリアリズムが隆盛し、現在、テレビで見るような演技が出てくるわけです。メーテルリンクはそれとは反対の流れをつくろうとした。「人間的な俳優はいらない」「人間より人形のほうがいい」と言った人です。人間的な俳優を、言ってみれば排除しようとして、人形的な俳優を求めたのが「反自然主義の系譜」と考えてみてください。演劇はリアルなほうがいいと思われているかもしれませんが、そうじゃないことをやろうとした人もいたわけです。今日は、それがオルタナティブな道かもしれない、という話をできればと思います。
布施 『盲点たち』は、ダニエル・ジャンヌトーさんとSPACの3回目のクリエイションです。1回目は2009年の『ブラスティッド』(サラ・ケイン作)、2回目は2011年の『ガラスの動物園』(テネシー・ウィリアムズ作)でした。私にとってダニエルさんとの出会いは衝撃的でした。ダニエルさんは、フランス人で、飛行機で12時間かけて行かなければいけないくらい遠い国の人なのに、自分がやりたいことと、ダニエルさんが求めることが、こんなにも一致するのかと不思議なくらいだったんです。ダニエルさんの演出で何が凄いって、もともと舞台美術家ですので、空間の作り方がとてもよくて、『ブラスティッド』では、舞台芸術公園のBOXシアターをホテルの一室に変えました。残酷な話で、私も決して幸福な役ではありません。全裸になったり強姦される場面があったりします。けれど、空間が用意されているので、その中で演じることに抵抗がなかった。空間に助けられました。俳優は人前に出るのが嫌いではないとは言え、何でもかんでも見せたいわけでもない。やっぱり恥ずかしいという気持ちはあるんですね。そういう俳優の繊細な気持ちを空間がそっと守ってくれるんです。『ガラスの動物園』ではローラという引っ込み思案な役でした。ローラが何かを主張するのではなく、その場にただいられるように柔らかい空間をつくってくださいました。ダニエルさんとの出会いが劇的で、自由に楽に呼吸をしながら演劇ができると思うようになったのですが、人間は欲張りなので、その後、でもそれは本当に自由なのかな、あまりに合いすぎているから可能性を自分で消しているんじゃないかという疑問も出てきました。ダニエルさんと3回目の制作になる今回、これが私たちのいいところだよね、というものではなく、もっと遠回りをして、違う出会い方をしたいと思い、参加したんです。それは、自分が思っていた以上に、大変だったなと感じるくらい、叶っています。
横山 『盲点たち』がどう上演されているか、少しお話いただけますか?
布施 登場人物は全員、目が見えないという設定で、教会の施設で暮らしています。あるお祭りの日に、神父さんに連れられて外に出ていくのですが、神父さんがいなくなってしまうんですね。目が見えないので帰り方もわからず、その場で、神父さんが来るのをずっと待っているという話です。今回は、日本平の森の中で上演されます。ダニエルさんは日本人より日本人っぽいと思っていましたが、野外では虫や蛙の声がすることをすごく気にしておられました。日本人が虫の音を聴く感覚と、ヨーロッパ人の感覚では違うのかもしれません。本当かどうかわからないけれど、ヨーロッパの人には虫の音がノイズに聞こえているのかもしれない。そういう違いを発見できています。『ブラスティッド』の最初の場面で、ダニエルさんは「何も演技せずにただ歩いてきてくれ」と言いました。演じずにパッシブ(受動的)な体でいること。『盲点たち』は屋外です。パッシブでいるのは自然の中で気持ちいいのですが、声はある程度出さないと聞こえないので、今までと同じやり方ではやれないということに気づき、新しい挑戦になっています。
■観客それぞれのビジョンへ
ジャンヌトー 『盲点たち(群盲)』に出会ったのは10代の頃だったと思います。その時期はまだ舞台美術家ではなかったのですが、もの凄い衝撃を受けました。これといった事件が起こるわけでもない作品なのに虜になりました。フランス演劇史の中でも特別な激しさを持った作品だと思います。この作品のメーテルリンクの意図はどこにあるか。それは不動性です。フィジカルな、物理的な意味での動きはほとんどない。どこに動きがあるかと言えば、内省的な部分です。内なる経験。ラディカルな内的経験がテーマになっています。これがどこに帰着するかと言うと、死の自覚です。死に思いを至らせること。死は全く目に見えません。机に座ってじっと死について考えていても、その人の内面はわかりませんよね。見えないこととして起こっています。ヨーロッパの演劇の世界において、嫉妬や闘いといった対立が主流であった時代に、メーテルリンクはべつのアクションの形、全く違う形なのですが、同じくらい激しい形を提示しました。内的な動き、内省的なアクションというものを舞台で表現するとはどういうことなのか。一見すると何でもない事柄、フレーズに、内的経験のアクションを感じさせる手掛かりが詰まっています。それを演技によって表現し、そういう手掛かりの集積として作品をつくっていきます。
横山 ジャンヌトーさんはフランスを代表する舞台美術家ですが、ジャンヌトーさんの舞台美術は、見てもほとんどよく分からないんです。茫漠とした空間みたいなものがあり、そこに照明が当たり、俳優さんが入り、ああ、こういうことだったのかと初めてわかる、そういう不思議な舞台美術を手掛けてこられました。目に見える人間の姿とは違うものを見たい、日々見ているものとは違うものを見たい、そのための場所をつくるというようなことを、ジャンヌトーさんはやろうとしているのではないかと思っています。『盲点たち』もよく見えない作品です。舞台美術家なのに、なぜ見えない作品をつくろうと思ったのか、聞いてみたいと思います。
ジャンヌトー 私は舞台美術家としてキャリアを出発させましたが、問題意識はこうでした。舞台美術は、絵、図像、目に見えるものにとどまるものではない。舞台美術ではまず空間がありますが、空間にとどまりません。その先にあるのは関係性です。これが核心部分。空間を介して、お客さんと俳優の関係性を理解する、掴むということ。真の舞台美術は、公演の行われている瞬間だけに成立するものであって、その前にも後にも存在しません。時間の経験そのものが舞台美術です。私の舞台美術は核心部分を表現するためのものです。俳優の、作品の、お客さんの、存在というものの核心を関係づけるためのものです。目に見えるリアリティ、表面的な層を表現するためにあるわけではないんですね。デザインされた目に見えるイメージと、観客が受け取るビジョンは同じものではないと思います。『盲点たち』では、舞台美術は必ずしも目に見えるリアルなものを表現するのではないということを体感してもらえると思います。この作品のビジョンはお客さんの数だけあると考えてもらっていいです。気に入ってくれるかはわかりませんが、どんなお客さんも特別なビジョンと対話してくれるのではないかと思います。そのビジョンがどこから来るのかと言えば、それぞれの人の精神性、魂、想像する力、関係性、作品のテキスト、俳優の存在、ほかのお客さんの存在、そういうもの全てから成り立っているでしょう。私にとっては、いわば他者のビジョンを演出するという挑戦です。この探求は、長い時間をかけてやってきたことです。この試みはまた、抵抗でもあります。画一的なビジョン、商業的なビジョン、普遍的だと思い込んでいるビジョン、安っぽいビジョン、そういうものに抗うための試みです。
■『盲点たち』と神秘思想
今野 メーテルリンクがまだ生きている頃、明治末期、大正、昭和初期くらいまでの日本での名声は無茶苦茶凄かったんです。なぜ日本で有名だったのか。一つの理由に、神秘思想への傾きがあったのかもしれません。当時の日本は、例の千里眼事件(明治末に起こった学者による超能力者の公開実験や論争)を契機にオカルティズムが流行していました。それは白樺派(雑誌『白樺』に集まった文学者や美術家。自然主義に対抗し人道主義や理想主義を掲げた)にも関係していました。今、白樺派と聞いて、オカルティズムと結びつける人はいないかもしれませんが、『白樺』に思想家・柳宗悦が書いています。柳宗悦と言うと「民芸運動」で知られますが、実は当時オカルティズムを礼賛していました。彼が言うのは、「新しき科学」。西洋近代科学を全面否定するのではなく、まさしくオルタナティブ。魂の問題、目に見えないこと、死後の世界、これらを扱う科学が生まれるんだという期待を持っていました。白樺派から影響を受けた評論家・平塚らいてうも、『青鞜』という雑誌のマニフェスト(「元始女性は太陽であった」)でオカルティズム礼賛の文章を書いています。催眠術がいかに人間の魂を明らかにしていくか…と熱に浮かされて、自動筆記と言うんでしょうか、霊感を受けて手が勝手に動く、そんな感じで書かれた文章です。そういう時代背景があって、メーテルリンクが受け入れられたのだと思います。
横山 メーテルリンク自身はどういう思想に影響を受けていたのですか?
今野 なぜメーテルリンクは神秘主義に惹かれたか。彼はベルギーの人で、ヘントという町で育ちました。当時、イエズス会(キリスト教カトリックの修道会。日本にキリスト教を伝えたことでも知られる)が教育を担っていたわけですが、メーテルリンクはイエズス会系の中学校が嫌でしょうがなかった。青春の喜びを圧迫するような、がちがちの宗教的な教育が嫌だったんですね。それでも宗教的なものへのあこがれはあり、作家活動を始めてから、ロイスブルークという14世紀の神秘主義者の本を読むようになります。自分で発見したわけではありません。フランスの作家ユイスマンスの『さかしま』という一風変わった小説がありまして、ディレッタントな主人公が誰も読んだことのない本や芸術に埋もれて生きている話です。その中にロイスブルークが出てくるんです。たぶんそれがきっかけだったと思います。読んでみると、びっくりしてしまった。わけがわからないけど、もの凄い力がある、と考えたらしい。そこからロイスブルークを研究して翻訳を出します。ロイスブルークは、今回の『盲点たち』とも関係があるのかもしれないと思います。
横山 どういうところに関係があるのでしょうか?
今野 神秘主義や神秘思想って何でもかんでも詰め込める言葉なので、学術用語としてはほとんど意味がないのですが、しいて言えば、自分と神、超越的なもの、霊的なものとの間に、よけいなものを入れない、直接対話をするという考え方だと思います。間に教会や司祭はいらないわけです。むろん既成教会の枠内で霊的な体験を語る人もいますが、一方で制約がないために、自分の解釈で宗教的なことを語りますから、オカルト的なものに結びつく可能性もあります。ロイスブルークはカトリック教会の枠内の人で、オカルト的なことはないですけど、「神と直接交流するには、世俗的なものはいっさい必要ない。むしろ目をつぶって神を直接知ることが必要だ」と考えていました。目をつぶる、よけいなおしゃべりをしない、沈黙…瞑想にふけるわけですが、どこでするかと言えば、森の中です。世間的なものからいっさい離れて、静かな環境の中で、神と対話する。いかにも『盲点たち』と関係がありそうですよね。そうした観点の解釈が色々とあって、正統的なキリスト教への批判を読み込む人は多いです。今回の上演では、平野暁人さんの翻訳も、ジャンヌトーさんの演出も、宗教的な部分に注目して見られるといいかなと思います。現代の我々日本人の多くにとって、キリスト教の教義はあまりピンと来ないわけですけれども、そういうものを外しても考えさせられるところがあると思うんです。絶対的なものと接触するには、やはり目をつぶること、情報を遮断することが大事ですよね。現代的な受け止め方ができるようにつくられていると思いました。宗教のことを全く知らなくてもおもしろく見られるようになっていると思います。
構成:西川泰功