ブログ

2015年11月8日

『王国、空を飛ぶ!』観劇レポート(泰井良)

「王国、空を飛ぶ! ~アリストパネスの『鳥』~」

この作品の演出家・大岡淳氏は、兵庫県西宮市の出身で、私と同郷人である。関西を一くくりにはできないが、いわゆる「上方の笑い」に通じるテイストがある。吉本新喜劇、松竹新喜劇、上方落語に上方漫才と、関西はまさに「笑いの聖地」である。私も子供の頃から、こうした笑いにふれてきたし、笑いは日常生活そのものだったと言ってもよい。こうした笑いが、「王国、空を飛ぶ」には、ふんだんに散りばめられている。 
とにかく、面白い。理屈なしで笑えるのが、この作品である。しかしこの作品は、単なるドタバタ喜劇ではない。そこには、ギリシア時代から現代日本に至る様々な社会の矛盾が直接的あるいは婉曲的に風刺されている。また、日常生活に嫌気がさし満員電車を急停止させ、二人の男が鳥の世界を訪ねて行く発想は、人間と鳥の世界が同じ地平にあることを意味しており、これはギリシアの多神教や日本古代よりの「アニミズム」の思想にも通じる。
観者は、笑いの中に、一つの哲学を見る。つまり、笑いながら、深く考えさせてくれる作品なのである。
さて、アリストパネスについては、「劇場文化」の中でも詳しく述べられているので、ここではあえてふれない。ここでは、「自由」について述べてみようと思う。「自由」と「放埓」を履き違えているのが、まさに現代社会の問題であると私は考えている。「自由」とは、本来、個人の全くの趣味嗜好を押し通し、勝手気ままに振舞うという意味ではない。そこには、「責任」という表裏一体の倫理がある。「自由」とは、個人が「責任」をしっかりと果たす限りにおいて、許される権利なのであり、勝手気ままに振舞うことを意味する「放埓」とは違う。例えば、スーツ着用の社交場で、Tシャツを着てくるのは個人の勝手ではあるが、そのことによって、制裁を受けるのは、個人の「責任」ということになる。
ひるがえって、この作品のテーマである「民主主義」も、とりわけ現代社会において、「自由」と「放埓」の履き違えが著しいのではないだろうか。国民は、選挙によって自らの代表者である代議員を選ぶ。その代議員による議決は、民主主義における大きな拘束力を持つわけである。しかし、その議決が民意を反映していない場合があり、ここに間接民主制の矛盾が潜んでいる。私は何も民主主義や間接民主制、ひいては体制を批判したいわけではない。少なくとも、我々が選択した方法によって決定された結論に責任を持とうということを言いたいだけである。選挙にも行かず、政治に無関心でありながら、決定された結論にだけ不平を述べるというのは、「自由」の放棄であり、「放埓」としかいいようがない。そうした無責任な体質を改めない限り、真の「自由」や「民主主義」は手に入らないのではないかというのが私の持論である。
この作品には、政治や社会を批判したり揶揄したりする場面がある。しかし、本当に作者が伝えたいのは、「民主主義」の主である国民一人一人が、その責任を自覚することなのではないだろうか。最後のシーンでは、「努力をしよう、努力をしよう!」というスローガンが俳優全員によって合唱される。「自由」と「民主主義」を手に入れるのに必要なのは、神や鳥といった超越した存在ではなく、一人一人の日々の「努力」なのだと強く感じ、私は劇場を後にした。

執筆クルー 泰井良プロフィール写真泰井良(たいい・りょう)
1972.9.5、神戸市生まれ
関西大学美学美術史専攻を経て、静岡県立美術館学芸員。
現在、静岡県立美術館上席学芸員、俳優。
(一財)地域創造公立美術館活性化事業企画検討委員、全国美術館会議地域美術研究部会幹事など。展覧会企画のほか、市内劇団でも活動中。




=============​
​10~11月 SPAC新作
『王国、空を飛ぶ!~アリストパネスの「鳥」~』
脚本・演出:大岡淳  原作:アリストパネス
静岡芸術劇場
◆公演の詳細、アーティストトークなど関連企画の詳細はこちら
=============