ブログ

2016年3月16日

宮城聰インタビュー 新作『イナバとナバホの白兎』は初の試みが満載

台詞は俳優が考える!?
新作『イナバとナバホの白兎』は初の試みが満載

IMG_0160

―今年の「ふじのくに⇄せかい演劇祭」で上演される新作『イナバとナバホの白兎』はどんな作品ですか?
フランス国立ケ・ブランリー美術館から「開館10周年を記念する新作をつくってほしい」との依頼を受けて制作する委嘱作品です。それを、世界に先駆けて「ふじのくに⇄せかい演劇祭」でプレ上演します。

―作品のテーマに、日本神話「因幡の白兎」とアメリカの先住民・ナバホ族の神話を選んだ理由を教えてください。
フランスの国立美術館から記念作品を委嘱されるのは非常に名誉なことです。そのうえ、ぼくたちのリハーサルのために劇場を2週間も空けてくれるという。先方もかなり力が入っているようです。それだけにプレッシャーも感じていました。注目度が高いぶん、ダメだったときのダメージが大きいじゃないですか(笑)。
ケ・ブランリー美術館にはどんな作品がふさわしいか。その点もずいぶん悩みました。パリにある国立美術館は、ルーブル美術館も、オルセー美術館も、ポンピドゥー・センターも、基本的にはヨーロッパ、あるいはアメリカの芸術の歴史が前提になっています。一方で、ケ・ブランリー美術館は非ヨーロッパ圈芸術の殿堂として建てられている。そのケ・ブランリー美術館から委嘱されたわけですから、その文脈にふさわしい作品にしたい。そうやっていろいろと考えていてまず思ったのは、「作家個人が世界をどう見たか」ということを表明しているような作品ではないほうがいいだろう、ということでした。

―どういうことでしょうか?
近代では、自分という人間は唯一の存在で、自分と同じ人間はほかにはいないんだ、という考え方が前提にありますよね。だから、作家が世界について書けば、それは「私は世界をこう見ている」という、ある人から見た世界の見え方を書いているわけです。これは映画も絵画も同じです。
でも実は、こうした考え方はヨーロッパの近代が生み出したもので、近代より前、たとえば日本では江戸時代あたりまではありませんでした。「自分と同じ人間は世界にいないんだ」「自分という存在は二人といないんだ」という考え方はなく、「自分が泣ける話はみんなも泣ける」「自分にとっておめでたいことは、みんなにとってもおめでたいことだ」という感覚だったわけです。当然、作家をはじめとする表現者も、唯一無二の存在としてではなく、「我々は世界をこう見ている」ということを形にする、一つの蛇口みたいなものとして存在していた。そしてある人は絵を描き、ある人は歌を詠んだりしていたのです。
ケ・ブランリー美術館の委嘱作品には、そういう近代以前の、誰が書いたのかわからないような感覚を持った作品がふさわしいだろう、と考えました。日本のものなら落語、『古事記』、『平家物語』なんかもそうですよね。あるいは、『旧約聖書』の「創世記」とか。そんな風にいろいろと題材を探しているうちに、いいなと思ったのがアメリカの先住民、ナバホ族の神話をまとめた本でした。

―日本でお馴染みのあの「因幡の白兎」のお話ではなく、まず先に、ナバホ族の神話を思いつかれたんですね。
そうなんです。あとは、新作を上演するのが、ケ・ブランリー美術館内にあるクロード・レヴィ=ストロース劇場であることも、ナバホ族の神話を題材に選んだ理由の一つです。クロード・レヴィ=ストロースはフランスを代表する人類学者で、神話の研究者でもあります。彼は神話研究を通じて、欧米側から未開だとか野蛮だとか思われているような文化が、実は、極めて高度な精密さを持っていたということを明らかにしました。
 レヴィ=ストロースは神話研究のフィールドに南北アメリカ大陸を選び、アメリカの先住民たちの神話について調べています。そんな彼の名を冠した劇場で、ナバホ族の神話をテーマにした作品を上演する。そこに何かしらの縁を感じて、題材に決めたのです。
 ただ、ナバホ族の神話について書かれた本をそのまま脚本にして上演することには違和感がありました。というのも、アメリカ先住民の神話をまとめた本というのは、たいていは、ヨーロッパからアメリカにやって来て、先住民の文化をもの珍しいと思った人たちが記録したものなんです。先住民自身が書いているわけではない。だから、外国人から見た日本趣味のような、誇張されている部分もかなりあると考えられます。それをそのまま使うのもどうだろう、と疑問に思ったわけです。
 そうやっていろいろと模索していたある日、レヴィ=ストロースの最晩年のエッセイが収録された『月の裏側』という翻訳本に出会います。そこに、アメリカ先住民の神話と「因幡の白兎」には何がしかの関係があるように思う、と書かれていたんです。「因幡の白兎」と同じような話が、インドから東南アジアにかけて広く分布しているということは民俗学の世界では非常に有名です。しかしレヴィ=ストロースはその「因幡の白兎」と北米のロッキー山脈の西あたりに住んでいる先住民の神話とに共通点があることを指摘したんですね。

―どのような点が共通しているのでしょうか。
『古事記』における「因幡の白兎」の話は、主人公の白兎がワニをだまして海を渡ろうとしたとき、だましていることをワニにばらしてしまい、毛をむしられてしまうというものですよね。その後、白兎は偶然通りかかった神様たちに、毛をむしられた痛みを軽減する方法を教えてもらいます。でも実はその方法はウソで、白兎の痛みは余計にひどくなってしまう。そこに今度は大国主という神様が通りかかります。白兎にウソをついたいじわるな神様たちはこの大国主の兄弟で、大国主は彼らからいじめられていた。このときも、妻をめとるために旅をする兄弟たちの荷物持ちとして同行させられていたんです。実は、『古事記』ではこの大国主が主要登場人物の一人で、白兎のエピソードはあくまでおまけ。大国主という神様に付随する物語の一つにすぎません。
対する北米先住民の神話の大筋は、まず、主人公が太陽神の娘をめとりにいこうとします。すると途中に湖があって、それを渡るためにはそこに棲息しているワニだったりフラミンゴだったりの助けを借りなければならない。主人公はワニあるいはフラミンゴに問いを出されて、その問いにうまく答えられなければ湖に放り出されたり、食べられたりしてしまう、というものです。細かい部分は部族によって違いますが、「因幡の白兎」も北米先住民の神話も、「気位の高い渡し手」「妻をめとりにいく」といういくつかの共通点がある。
こうした共通点が、『古事記』では大国主と因幡の白兎それぞれのエピソードとして書かれていて、北米先住民の神話では一人の主人公の話としてつながっている。ここからレヴィ=ストロースはある仮説を立てます。『古事記』の話も、北米先住民の神話も、アジアのどこかにある神話がもとになっていて、そのもととなる神話では、海(湖)を渡るために渡し手の助けを借りるエピソードも、妻をめとるために旅をするというエピソードも、北米先住民の神話のように一つのストーリーだったのではないか、という仮説です。
ではなぜ、もとは一つのストーリーだったものが、日本では二つのエピソードに分かれてしまったのか。この疑問に対して、レヴィ=ストロースはこう考察しています。アジアのもととなる神話が日本に伝わり、それが『古事記』にまとめられるまでに時間がかかりすぎてしまった。そのため、ネックレスのチェーンがちぎれてビーズの玉がばらばらになってしまうように、それぞれのエピソードは別のお話になってしまったのだろう、と。一方、アジアで語られていたもととなる神話が、北米にたどり着くのにはかなりの時間がかかる。だから、神話が伝わった時期と、神話として文献にまとめられた時期にそれほど開きがなく、そのおかげで、一つのストーリーとしてまとまったままの状態で記録されたのではないか。
レヴィ=ストロースはそんな仮説を提示しながら、「私のこの仮説を、私よりも優秀な日本の神話学者が解明してくれることを期待している」と書いているんですね。でも、日本の神話学者がレヴィ=ストロースの仮説を解明したという話は聞きません。だったら、レヴィ=ストロースが残したこの宿題にぼくたちが取り組んでみたら面白いのではと思い、作品のテーマに決めました。

IMG_0118

―どのような構成になりそうですか?
 まだ制作途中ですが、『古事記』に書かれている「因幡の白兎」を最初に上演し、次に、北米の先住民の神話を見ていただく予定です。まず、この二つを対比で見てもらって、最後に、そのおおもとになったかもしれない、アジアのどこかにあったかもしれない神話を、ぼくらなりに構想してお客さんに提案したいと考えています。

―実際にはどのように制作されているのでしょうか。
テキストがないので、まずはテキストをつくるところからやらなくてはいけないんですが、今回、台詞は役者に考えてもらうつもりです。こうした集団創作はSPACでは初めての試みとなります。構成だとか、こういう場面が必要だとか、そういうことはぼくが指示していくけれど、その場面で何をしゃべるのかは役者に任せる。
集団創作というのは、それをやるのに適した時期があると感じています。果物が熟れるように、ある集団の歴史のなかで、集団創作にふさわしい時期というものがおそらくある。これはぼくの勘なんですけど、今のSPACは、まさにその集団創作にふさわしい時期に入ったような気がするんです。まあ、そうだったらいいな、という期待でもありますが。

―集団創作だからこそのメリットのようなものがあれば教えてください。
たとえば三島由紀夫の作品を上演するときは、三島が何を考えたのかをまず考えます。「三島は○○○な人で、△△△なバックグラウンドがある。だから、この台詞は実はこういう感覚が前提になっているんだ」、ということを考えながら三島という人物に近づいていき、その過程で台詞の意味を理解していきます。
でも、集団創作には、そういう種類の地図がありません。羅針盤がない。だから、みんなでワイワイガヤガヤと意見を戦わせてつくっていくしかないんですね。俳優という仕事は、「自分が考えることが一番面白い」と思っている人たちが就く仕事ではありません。自分が考えるものが一番面白いと思っていれば、俳優以外の創作手段を選ぶでしょう。要するに俳優というのは、「人から刺激を受けることで自分から面白いものが出る」ということを知っている人たちなんです。自分が年上だから、自分のほうがキャリアがあるからと、年下や後輩たちに自分の考えを押しつけても、面白くはならないだろうということがわかっています。だから、集団創作によって相手から刺激を受けるうちに、自分から何か面白いものが出るんじゃないかという期待がある。これは集団創作ならではのメリットです。
また、集団創作に向いている題材と、そうでない題材とがありますが、今回の題材は集団創作に向いていると考えています。最初に、「誰か個人が考えたこと、個人の世界の見方ではない作品をやりたい」ということを申し上げましたけど、この集団創作のプロセスによって、そういうことを実現できるのではないかなと思っているんです。

―俳優ひとり一人が蛇口になって作品をつくっていくイメージですね。
その通りです。とはいえ、そうやってつくっていくのはかなり難しい。神話でも民俗芸能でも、それがつくられた時代は、村人たちはみんな同じ感覚だったり歴史観だったりを持っていたわけですよね。「こういう踊りにしよう」「こういう鳥が出てきたらいいだろう」というアイデアを誰かが思いついたら、まわりのみんなも「そうだそうだ」と思える。これは、同じ感覚や歴史観を共有しているからこそです。
でも、ぼくを含めた俳優たちはそうした感覚だったり歴史感だったりを持っていません。『古事記』なら『古事記』、あるいは、北米先住民なら北米先住民の、成立した時代に共有されていたものを想像するところから始めないといけない。だから、その点においては、今回の新作は、神話や民俗芸能が生まれた過程とは明らかに違うんです。
明らかに違うんだけれど、その客観性というのかな、「本当かどうかわかならい」という疑問符を常につきつけていくところ、それこそが、芸能と芸術の違いだと思っています。芸能というのは、いってみれば、自分たちがいつのまにか持っている価値観を再確認して安心するためのものです。このいつのまにか持っている、というのはつまり、刷り込まれた、といってもいいんだけれど、それをみんなが持っているということを、確認して、安心するのが芸能の機能なんです。みんなが同じところで笑って、同じところで泣いて、同じところで憤る。そうして、「みんな同じだ」と安心する。そうやって、一つの価値観を持っている共同体の結束をより強めるのが、芸能の役割なんです。
芸術というのはある意味、正反対。刷り込まれてしまった価値観を疑うことが芸術の機能です。「みんなはこれをキレイだといっているけど、本当にそうなのか?」「どこがキレイなの?」という疑問が生じるのが芸術の面白いところ。いってみれば、刷り込まれたものではない価値観を、自分自身で手に入れることを促すものなんです。そうやって、「人と自分が違っているんだ」と気づき、「自分にとって美しいものが隣の人にとっても美しいとは限らない」のだと理解する。芸術はそのためにあるのではないでしょうか。
であれば、ぼくらの作品は、古代の村人のように、いつのまにか刷り込まれている価値観を再確認して安心するものであってはいけないのではないか。「世の中ではこれはこういう風に受け止められている」という暗黙の了解のようなものに対して、あえて疑問符をつけるような提示の仕方にしなくてはいけないのではないか。そんな風に考えています。

―「因幡の白兎」のお話でたとえると、どういうことになるのでしょうか?
「因幡の白兎」と大国主の話を読んだとき、ぼくらはまず、「この話は何を伝えているのだろう」と考えますよね。そして、「弱い者いじめをしてはいけない」というような教訓を読み取ります。それが普通です。でも、レヴィ=ストロースは、神話から教訓を読み取るというスタンスをとらなかった。神話は道徳を教えたり、処世訓を教えたりするものではなく、ただ単に、世界を認識して分析する手段なのだとレヴィ=ストロースはいっています。
だからぼくらも、そういう教訓のようなものは切り離してしまって、「人間にはこういうところがある」「この世界にはこういうことも起こりうる」という、目の前に投げ出された残酷な世界の断面を提示したいと思っているんです。
こうした試みと、集団創作がうまくリンクすれば、とても面白い作品になるはずです。俳優は教訓を欲しがっているわけでもないし、周囲の人たちと価値観を共有できていることを知って安心したがっているわけでもない。俳優は「自分を知りたい」、そして「世界を知りたい」んです。そういう飢えのようなものを感じている人たちが、神話を手がかりにお互いを知ったり、世界を知ったりしていく。それがそのまま芝居になれば、集団創作の真髄のようなものが表れるのではないかと考えています。

―俳優がしゃべるたびに台詞が変わるとしたら、制作にはものすごい労力がかかりそうですが……。
そうですね。神話というのは、語り継がれていくうちに少しずつお話が変わっていったと思うんです。これはぼくの想像ですけど、民俗芸能も同じではないでしょうか。毎回ちょっとずつ違うけれども、いつのまにか形式が決まっていく。だから、それと似たようなことは起こるかもしれません。
ただ、表現の形式というか、ルールのようなものはいくつか決めています。現時点では、均質なコロス(群衆)の役と、異質な一人の役という対比で場面をつくっていくというルールを設けています。ワニと白兎であれば、ワニは均質なコロス、白兎は異質な一人の役。大国主とその兄弟なら、兄弟が均質なコロスで、大国主は異質な一人の役という具合です。
均質なコロスをやる俳優たちは自分の口で台詞をしゃべります。一方、異質な一人を演じる俳優は、自分では台詞を話しません。代わりに、能の地謡のような、別の俳優たちが台詞をしゃべります。仮面をかぶって自分では台詞を話さない俳優と、能の地謡のように台詞をしゃべる俳優との対比も、現時点で決まっているルールです。

―異質な一人の役の台詞を別の俳優がしゃべるというルールにはどんな意味があるのでしょうか。
“異質な一人”というのが、単純にいうと、ぼくたちの祖先にあたる人なんですね。この世界がどうやってできてきたのかを考えるとき、均質なコロスがそのまま今日の世界になったという風には人は考えないんですよ。面白いもので。どうしてなんでしょうね?
たとえば古代ローマでは、ロムルスとレムスという狼に育てられた双子が祖先だということになっています。つまり、周囲とは何か違う刻印を持った者がいて、その者たちがやがて大集団を形成して今日の我々になっていると考えられているわけです。古代ローマに限らず、自分たちのルーツをたどっていくと、周囲とは違った一人とか二人とかに行き着くとする概念がたくさんあります。北米でも祖先はだいたい二人、それも兄弟です。そして、その異質な一人か二人が分身の術のように増えて、その結果として今の自分たちの村や国ができた、と考えられています。
こうした考えが世界で広く見られるのは、人間は誰しもが世界に対する違和感を持っているからかもしれません。「自分は一人ぼっちだ」「周囲とは違う異質な存在として生まれてきたんだ」という感覚を、近代になるもっと前から一人ひとりが抱えていて、だから異質の一人か二人を祖先と見なすのではないでしょうか。
だから、均質なコロスであるワニの群れが今日の自分たちの社会になっているとは誰も思いません。異質の一人である因幡の白兎がやがて増えていって我々の部族になったんだ、となるわけです。そうすると、因幡の白兎は異質な一人でありながら、今日の人間につながっているのだから、複数でもある。それなのに、白兎を演じる俳優が自分自身で台詞をしゃべってしまうと、「あいつだけが異質なんだ」と感じられてただの個になってしまいます。そうではなく、「白兎はまわりとは違うけど、本当は俺たち・私たちなんだ」と思ってもらわなくてはならないので、能の地謡のように別の俳優が台詞をしゃべるようにしたんです。

IMG_0137

―今回は神話という、誰が書いたのかわからない作品が題材になっていますが、誰が書いたのかわからない作品には以前から興味があったのでしょうか?
もともと興味はありました。2006年にケ・ブランリー美術館のクロード・レヴィ=ストロース劇場のこけら落としで上演した『マハーバーラタ 〜ナラ王の冒険〜』はまさにそれに近いですね。『マハーバーラタ』は古代インドより伝わる国民的叙事詩で、誰が書いたかわかりませんから。
ぼくは落語が好きなんです。落語も誰が書いたかわからないものが多いんですよ。もちろん新作だとか、明治以降につくられたものに関しては誰が書いたのかはわかっています。しかし、それより前から存在していた落語というのは、原話は確かにあるけれども、それは小話のようなものにすぎず、それが語り継がれていくうちにちょっとずつストーリーが膨らんでいって、面白いくすぐりなんかも加えられていって、江戸末期ぐらいに今のような形になっている。『平家物語』なんかもそういうプロセスですね。
 そういうものは、一言でいうと、世界が大きいんです。それこそ富士山とか夕焼けのようなもので、「今日の富士山どう思う?」と聞いたら百人百様の答えが返ってくるように、厳然とそこにあるけれど受け取り方は人それぞれ違う。僕はそういうものがつくりたいんです。
同時代のアーティスト、三島由紀夫なら三島由紀夫という人の苦難の道を知ることが自分にとってものすごく励みになる、ということはもちろんあります。三島を知れば知るほど、自分の孤独が癒されるということはもちろんある。でもそれとは正反対の、それ自体は何ら見方を決めつけていない、限定していない、富士山とか夕焼けとか滝とか、そういうどでかいものをつくってみたい。そして、それができるとしたら、やはり、誰が書いたのかわからない作品だと思うんです。

―百人百様の見方があるということは、見る側の感性も試されますね。
そうですね。ただ、百人百様ということは、どんな楽しみ方もできるということですから。近代の芸術は、共感できないと十分に理解できないでしょう。そして、その共感というのは、何らかの共通点が見つかるということだから、万人に理解される作品というのはなかなかない。三島由紀夫の戯作であっても万人に開かれているわけではなくて、さっぱり接点がない人もいます。これは近代の芸術であれば当然のこと。むしろ近代現代で万人が面白がるようなものは、長い生命を持ち得ない。数年後にはみんな忘れちゃう。
ところが、『マハーバーラタ』や落語、『平家物語』のような誰がつくったわけでもないものは、万人に開かれていながら、長い生命を持っています。大人も子どもも、大人なりに、子どもなりに、楽しめる。今、幸せな人も、今、自分は不幸だと思っている人も、それぞれに楽しめる。そういう風にできていますよね。しかもそれは、数年経ったらみんな忘れちゃう類のものではなく、一人ひとりのなかに何か大きなものを残していく。そうやって何百年、何千年もの生命を持つことができる。これはものをつくる人間としては本当に理想で、そういう作品をつくれたら素晴らしいなと常々思っています。

―誰がつくったのかがわからない作品には、どんな見方もできる多様性があると。
そうです。さきほど、芸能の機能は価値観が一つだということを確認して安心することにあると申し上げたけれど、そういう機能が前面に出てくると不安も生じるんです。「あの場面でみんな笑っていたのにぼくは笑えなかった」「同じ場面で笑えないなんて、どうやら自分は人とはちょっと違っているみたいだ。みんなと合わせなきゃ」という具合にね。
これは、今日の芸術がやるべきことではないと思っています。そうではなく、「みんなが笑っているところでぼくはむしろ切なくなった。でもそれでいいんだ」と見る人に感じてもらうことが、今の芸術の機能だと思っているんです。いろいろな価値観があって、それが肯定される寛容さだったり、みんなが容認しあえるような空気だったりが、作品を見た後に生まれると一番いいなと思いますね。

―「ふじのくに⇄せかい演劇祭」は、前身にあたる「Shizuoka春の芸術祭」から数えて今年で16回目となります。観客の反応はいかがですか?
演劇というものに対して、「敷居が高い」と感じている方がまだまだたくさんいらっしゃいます。東京で活動していたときはそんな風に感じたことはありませんでしたが、今思うと、東京のほうが珍しいんです。ヨーロッパでも、演劇というのはある程度は敷居が高いと思われていますから。演劇は「余裕がある人が行くもの」と思われていて、そういう感覚のほうが世界的にはメジャーなんですね。そのことを、静岡に来てSPACに携わるようになってつくづくと感じています。
もちろん、演劇をやる側としては、「そんなことはないですよ」と言いたい。演劇は俳優が生のエネルギーをお客さんにぶつけるもの。基礎知識が必要だったり、子どもの頃から芸術に親しんでいたという素養が必要だったりとか、そういうことはまったくありません。でも、ぼくたちがいくらそう言ったところで、「演劇は敷居が高い」という先入観があるのは事実ですから、その先入観をどう払拭して、どう超えていくかがこれからの課題です。

―最後に、今年のせかい演劇祭の見どころを教えてください。
今年は「ふじのくに⇄せかい演劇祭」と「ふじのくに野外芸術フェスタ」を同時に開催します。「ふじのくに⇄せかい演劇祭」はいわばセレクトショップ。演劇界における世界最先端の作品をご覧いただけます。一方、野外で上演する作品では「演劇って敷居が高い」というイメージを払拭したい。『イナバとナバホの白兎』は駿府城公園で上演しますので、劇場へ自然に足を運ぶようになるための、いわば敷居をふわっとまたぐスロープのような舞台にできるといいな、と考えています。ぜひ観に来てください!

2016年2月3日 静岡芸術劇場にて

=============
ふじのくに野外芸術フェスタ2016
フランス国立ケ・ブランリー美術館開館10周年記念委嘱作品
『イナバとナバホの白兎』
5/2(月)~5(木・祝)
駿府城公園 紅葉山庭園前広場 特設会場
◆公演の詳細はこちら
=============