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2020年5月4日

キリル・セレブレンニコフ:ロシアで生きること

上田洋子
(『The Student』日本語字幕翻訳)

 
 ロシアの演出家キリル・セレブレンニコフは、2017年8月から2019年4月まで、国家予算横領の罪を問われて自宅軟禁状態にあった。現在も国外に出ることが禁じられているはずだ。演劇人をはじめ多くの人々が、逮捕が不当であることを主張し、彼の釈放を求めた。
 この事件は「第七スタジオ事件」と呼ばれている。セレブレンニコフの劇団「第七スタジオ」において、国家予算を得たのに実施されず、予算の使途が不透明なプロジェクトがあるとされたのだ。この事件で、実際に実施されていたプロジェクトや、上演されていた作品が、「行われなかった」「上演されなかった」と断罪されるという不条理を目の当たりにすることになった。証言などを見るに、経理関係の書類に不備はあったのかもしれないが、横領があったかどうかは定かではない。この事件は2020年5月時点で今後も裁判が継続されることが決まっており、まだ完全な解決には至っていない。

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▲キリル・セレブレンニコフ

 
 では、セレブレンニコフはどういう演出家なのか。簡単に紹介したい。
 1968年生まれのセレブレンニコフは、ロシアの演出家としてはたいへん珍しいことに、演劇大学を出ていない。ロストフ大学物理学部出身で、大学生の頃からロシア南部の都市ロストフ・ナ・ドヌーのアマチュア劇団に所属し、1994年からは同市の劇場で演出を行っていた。2000年にモスクワに居を移し、同年、若手の新しい劇作とその上演を推進していたカザンツェフ・ローシン劇作演出センターで『粘土』を上演。1977年生まれで当時23歳の劇作家ワシーリイ・シガリョフと、29歳のセレブレンニコフのコンビによるこの作品は、大きな反響を呼んだ。そして2年後の2002年には、セレブレンニコフはモスクワ芸術座で演出を行うようになる。
 ソ連が崩壊して10年が経過したこの頃、現実を暴力や欲望を通して描く過激な戯曲が多く書かれ、評価を得ていた。この潮流は「ノーヴァヤ・ドラマ」(新しい戯曲)と呼ばれるが、『粘土』もそうした作品のひとつだった。セレブレンニコフはこれらノーヴァヤ・ドラマの演出で頭角を表した。わたしはモスクワ芸術座での彼の第1作、プレスニャコフ兄弟の『テロリズム』を見ている。もちろんノーヴァヤ・ドラマだ。芝居終了までの時間がタイムコードで示されながらも、速いテンポで暴力や性の場面が切り替わり、人生の耐え難さを押し付けられるような、辛く、しかし強く印象に残る体験だった。日本だとポツドール『夢の城』の鑑賞体験と似ているかもしれない。
 セレブレンニコフの型破りな演出はロシアの演劇界を驚かせ、彼は実力・人気ともに1、2を争う時代の寵児になっていく。モスクワ芸術座のほか、ボリショイ劇場でのオペラやバレエの演出も手がけ、さらに映画監督としても活躍する。2012年にはモスクワ市立ゴーゴリ劇場の芸術監督に任命された。当時いささか時代遅れだったこの劇場は、セレブレンニコフのもとで「ゴーゴリ・センター」として生まれ変わり、演劇だけでなく、映画やコンサート、パフォーマンスも行われるマルチな文化の拠点となった。さらに、最近ではハンブルク・オペラの『ナブッコ』(2019年)など、国外での活動も多い。
 
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▲「ふじのくに⇄せかい演劇祭2020」にて上演予定だったキリル・セレブレンニコフ演出作品『OUTSIDE―レン・ハンの詩に基づく』
 
 2000年代半ば頃から、セレブレンニコフはオストロフスキー、ゴーリキー、ブルガーコフらロシアの古典を現代的に解釈し、風刺劇として上演するようになった。2011年にボリショイ劇場で演出したオペラ『金鶏』では、ロシアの国章である双頭の鷲が双頭の鶏としてパロディ化されるなど、歴史的シンボルや暗示が多用され、ロシアの政治や権力構造が風刺された。作家のウラジーミル・ソローキンにも見られるようなあからさまな政治風刺は当時の流行でもあり、作品は話題を呼んだが、他方、保守層からの反感も招いた。2017年のセレブレンニコフの逮捕は、こうした反感とも結び付けられて受け止められている。
 2012年のプーチン大統領再選以降、ロシアでは社会がいっきに保守化する。同年2月、女性アーティストグループ「プッシー・ライオット」がロシア正教の総本山・救世主ハリストス教会で反プーチン・反教会ソングを歌い、その後逮捕され、公開裁判を経て矯正労働収容所に送られる事件があり、社会は擁護派と反対派に分断された。今回上映される『The Student』に登場する「宗教的感情の侮辱」という表現を、一般の人々が広く用いるようになったのは、この事件の頃ではないだろうか。
 
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▲映画『The Student』より

 『The Student』で、自分の言葉ではなく聖書の言葉を語り、聖書の価値観を振りかざす主人公ヴェーニャは、まるで独裁者のようだ。彼の論理はときに破綻し、聖書の言葉は都合よく歪められるが、周りの大人たちはなぜか彼に言いくるめられてしまう。他方、ヴェーニャと対立する理性的でリベラルな生物教師は、正論を言えば言うほど信頼を失い、どんどん立場を悪くする。この対立にはもちろん社会の対立が反映されているだろう。しかし、この作品では、こうした対立が、若さの持つ残酷さと弱さ、人間の愚かさと結びつく。緊張感に溢れる物語の中に、笑いや美、それに愛のテーマもどこからか顔を覗かせる。理解し合えない人々からなる社会の中で、人間の生とは何なのか、そんな問いに向き合わざる得なくなる作品である。

【筆者プロフィール】
上田洋子(うえだ・ようこ)
ロシア文学者、博士(文学)。株式会社ゲンロン代表。共編著に『歌舞伎と革命ロシア』(森話社)、監修に『プッシー・ライオットの革命』(DU BOOKS)、共訳書に『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(松籟社)など。

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くものうえ⇅せかい演劇祭2020
https://spac.or.jp/festival_on_the_cloud2020

◆『The Student』
 5月5日(火・祝)13:00/22:00、5月6日(水・休)13:00配信予定

◆トーク企画「くものうえでも出会っちゃえ」
 キリル・セレブレンニコフ×宮城聰
 5月6日(水・休)15:30配信開始予定

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