ブログ

2010年11月1日

<世界は踊る稽古日記⑫・11/1>La vie vient de passer

『世界は踊る ~ちいさな経済のものがたり~』(10/23、24)は盛況のうちに終了しました。

ご来場、誠にありがとうございました。特に2日目は雨の中での上演・観劇にも関わらず多くのお客様に足を運んで頂き、舞台と客席が一体化する集中力の中、奇跡的な公演となりました。重ねて御礼申し上げます。

11回に渡って県民参加者による稽古場日記を連載してきましたが、いよいよ最終回。

今日は、唯一のプロの俳優としての出演となった、SPAC俳優の永井健二です。

プロの俳優として、一人の県民参加者として、彼が何を考えてこの舞台に立っていたのか。

どうぞ御覧ください。(SPAC制作部・佐伯風土)

====================

大粒の雨が降りしきる中、『世界は踊る~ちいさな経済のものがたり~』静岡公演は、その幕を閉じた。

演じる我々はともかく、寒さと雨の中で観劇いただいた観客の皆様に、まずは感謝の意を表したい。

もちろん、その前日、静岡公演の初日を見届けてくださった観客の皆様にも。

僕は今回、プロの俳優として、SPACからただ一人、この作品に出演し、30名の県民出演者と共に、パスカル氏・大岡氏による稽古の日々を過ごした。

“コーラス”ということで初めての経験も多く、気持ちとしては「一人の県民」。30名の参加者同様、ココロ躍らせながら『世界は踊る』の稽古に参加していた。

2ヶ月の稽古の中で、どんなことをしたのか、我々がどんなことを感じたのか、ということについては、既に参加者たちが「SPACブログ」で綴っているので、そちらを読んでいただきたい。

いま思い返すと、「孤独ではなかった」という実感が残っている。

「俳優というのは孤独な作業だ」と、表現されることがある。役のこと、台詞のこと、身体のこと、一人の頭で考えることは多い。

たとえ、共演者同士で、話し合ったり、打ち合わせたり、稽古時間を共有したりしても、最終的には個人に還元されていく。

共演者の動きや台詞を、見たり、聞いたり、感じたり、受け止めたり、してはいるが、あくまでそれらは、前もって段取りを決めて打ち合わせされたことであり、いくら「新鮮な感覚で」と思っていても、結局は、その「新鮮さ」を保つことすら「演技のひとつ」になってしまう。

これを、「感覚の再現」と言う事もできるだろうが、この再現の作業をおこなうのは、一人で、だ。

逆を言えば、

台詞を忘れたり、きっかけを間違えたりして、稽古とは違う空気が舞台上に流れた瞬間、それはまさに「舞台上に初めて流れる時間」であり、これまでの稽古をもとに「再現した時間」ではないので、その瞬間は舞台上の様々なことへの注意が強まり、孤独感は影を潜めることになる。

したがって、即興劇で無い限り、俳優が孤独感と無縁になることはないのだろう、そう思っていた。

しかし、今回、『世界は踊る』で僕は、「孤独感」と無縁の体験をした。

公演が終了したので種明かしをするが、この舞台では、いわゆる“段取り”や“きっかけ”の多くが、きっちりとは決められていなかった。意図的に。

たとえば、日常的な動きをパントマイム風に演じる場面では、動きの内容も立ち位置も決まっていない。自分で「このあたりで、こういう風に動く」と決めてしまうことも可能だが、皆がそうではないので、結局、その時その時で、周囲を見ながら臨機応変に対応することになる。

「なるべく空間をいっぱいに使って、人が散在するように」とは、パスカル氏から言われた注意点だ。

また、計算機の場面では、フランス人女優が提示する計算式は毎回異なり、それに合わせて動く動作は、その都度、選び取らなくてはならない。

参加者が自作の詩を朗読する場面での詩は、その場で各自が考えて生み出したものだし、オブジェを掲げていく場面は、誰が誰のあとにおこなうかなどの順番は、全く決まっていない。

その他の動きに関しても、何度も稽古を重ねてはいるが、同じ動きをブラッシュアップさせていったわけではなく、感覚とか見せ方の意識を磨いていったに過ぎない。

だから、僕は、常に、「共演者がいまどこにいて、何をしているか」を感じるために、(僕らの言語で言うと)「開いた」状態で出演しなくてはならなかった。

これまでも、演じている時に「開いた」状態を努めてはいたが、今回のその「開き具合」は半端なかった。

あんなにも、自分への意識が影を潜め、他者を感じながら舞台に立つのは、とても久しぶりのような気がした。

おかげで、「孤独感」を感じることなく、常に共演者の「気配」やら「空気」やら「温度」を感じ取ることができた。

「決まっていない」ことへの不安はあるのだが、全てをアドリブでやっているわけではないし、何より、出演者同士で「空間や時間を共有している」感覚が、僕を安心させてくれた。

タイトルにある「 La vie vient de passer 」というのは、フランス人出演者が劇中で口にしたフレーズで、「生がいま 行き過ぎた」という意味。

まさしく、一瞬一瞬を、舞台上で、受け取っては感じ、感じては受け渡す、そんな作品だった。

ちょうど、「贈与論」の場面で、出演者たちが贈り物を受け渡していたように―。

SPAC 永井健二

0323