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2011年9月16日

スガンさんのやぎ 観劇感想文・感想画紹介

カテゴリー: その他

2011年8月6日、8月7日に静岡芸術劇場で上演されたスガンさんのやぎ 

この観劇感想文と感想画を募集したところ、素敵な作品が集まりましたのでご紹介いたします。

『スガンさんのやぎ』は本日9月16日から3日間、鳥の演劇祭でも上演されます。

静岡で見逃したーという方は、ぜひ鳥取へ!

同じく鳥の演劇祭で上演されるSPACの『王女メデイア』とあわせてお楽しみください!

スガンさんのやぎ感想画:宮城嶋開人

スガンさんのやぎ感想画:宮城嶋開人

 

スガンさんのやぎ感想画:小野恵理

スガンさんのやぎ感想画:小野恵理

 

スガンさんのやぎ感想画:秋山明子

スガンさんのやぎ感想画:秋山明子

 

スガンさんのやぎ感想画(たけいしののか)

スガンさんのやぎ感想画:たけいしののか

 

スガンさんのやぎ感想画:まーる

スガンさんのやぎ感想画:まーる 『闇-Go-at-』

 
 
 
 
<スガンさんのやぎ感想文>

観劇回顧録 ―「スガンさんのやぎ」と『民約論』―

執筆者 : まーる

 「社会契約によって国家が構成される場合に、個人は、この社会契約において総てを譲渡することによって、その総てを失ってしまうと解するのは誤っている。個人は自己の持てる総てを国家に委ねることによってその総てについて国家の保護を受けることとなるのである。故に、国家の下においては、個人は不確実なかつ不安定な生活状態の代りに、一層良いかつ一層安全な生活状態に入るのであり、自然的独立を失うことの代りに自由を獲得することとなるのであり、他人を侵害する力の代りに自己の安全を取得するのであり、他人によって克服せられる可能性のある力の代りに社会的統合によって不可侵的なものとせられたところの権利を受け取ることとなるのである。同様に個人は、その生命についても、これを国家に提供することによって、かえって、永続的に国家によって保護せられることとなるのである。かく、個人の生命が国家によって保護せられることとなっているが故に、個人は国家のためには自己の生命を賭しても奉仕すべき義務を負うのである。」

(『民約論』2、社会契約の内容と効果 71頁12行から72頁10行 ルソー著、木村亀二訳 岩波書店 大思想文庫14 昭和60年)

 「スガンさんのやぎ」は、ルソーの『民約論』におけるこの文章に要約をかりることができる。ルソーの『民約論』は、フランス革命にてその内容と理論が受け入れられた。具体的には何が受け入れられたかと言及すると、これは人民主権思想史の話にまで深まる。しかし、ただ漠然と、「スガンさんのやぎ」に溢れる世界観やストーリー展開が、それらの法則や原理の面で、革命当時のフランスに受け入れられたと考えても良いのではなかろうか。つまり、ルソーの『民約論』における考え方が「スガンさんのやぎ」の物語における世界観にも流れており、今もフランスでこの童話が愛されていることに、なるほど、と思ったのである。

 改めて前掲の引用文と「スガンさんのやぎ」の舞台回顧録とを比較してみよう。

 まず、「社会契約によって国家が構成される場合」のこの「国家」を「スガンさんの農場」とし、そこにおける「社会契約」とはスガンさんと家畜らとの「飼養関係」を結ぶ、つまりスガンさんはヤギを養って乳をしぼり採り、ヤギはスガンさんに飼われ餌と家(小屋)をもらう、その決定と約束とする。また、「総て」には2つの意味があり、1つはヤギの生命と身体そのものを指す「総て」と、もう1つはヤギの持つ能力や条件によって供されるもの、たとえば乳などの「総て」である。「この社会契約において総てを譲渡することによって、その総てを失ってしまう」とは、ヤギが契約のもとにスガンさんに乳をしぼらせることでその身体や生命までも失ってしまう、というように置き換えられ、これは「誤っている」解釈だと言われる。ヤギのブランケットはスガンさんに乳を「譲渡」ししぼらせても食肉として殺されてはおらず、むしろ可愛がられ、生きるに充分な草と住み処をもらっていたからである。ブランケットは「自己の持てる総て」の能力を「国家」の農場とスガンさんに委ね渡すことで、彼女の「総て」である身体と命の保護を受けていた。天気が変わりやすく「不確実で不安定な生活状態」を強いられると山と違い、同じ場所で同じ時刻に毎日餌を得られ飢える心配のない「一層良いかつ一層安全な生活状態」を保てられた。山を駆け回る「自然的独立」は得られないものの、スガンさんの農場内と杭から伸びる紐の届く範囲ならば、草をいくら食べたり踏み荒らしたりしようが、幼いヤギの声でいくら鳴き騒ごうが、全く「自由」であった。仮に山で毎日そうしていれば、確保の保証のない草は尽き、ヤギの鳴き声を聞きつけた野生動物の牙や猟師の鉄砲が及んだであろう。それらから身を守るべく、角を突き出す等の「他人を侵害する力」を要さずとも、農場の柵の中に入っていれば「自己の安全を取得」でき、結局は狼の牙に勝てない「他人によって克服せられる可能性のある」弱々しい角ではなく、農場のスガンさんや他の家畜集団による「社会的結合によって」野生の狼を寄せ付けない「不可侵な」安全を得られたのである。ブランケットの「生命」は、それをスガンさんと農場に提供することで、その安全性故に、外に出るよりも永く保護されるのである。

 この「契約」と「国家」から得られる「安全」の魅力を、スガンさんはブランケットに良く説明して聞かせた。ブランケットはどちらを選んだか。ブランケットは保護を受け安全を手に入れるために負う提供の義務よりも、自然的独立を得るために被る危険性を選んだ。保護と安全は既に手に溢れるほどもらっており、見たことのない山の自然への憧れと好奇心が萌芽したのであろう。「もう?」という驚嘆は危険性を被るその時の到来の早さに対するものであり、「永続的な保護」に比べればはるかに短い「自然的独立」と自分の生命の「総て」であったことを自覚した表れである。狼と対峙する直前には、もうブランケットの好奇心は満たされていたと言ってもいいのではないか。「危険」が近づいていることに気づいたとき、ブランケットはまだスガンさんの元に戻ることができたのではないか。狼の牙を逃れ危険を被らずに「安全な国家」に戻り、ブランケットの「命」の「総て」も好奇心の「総て」も得られることにならなかったか。答えはブランケットの行動の通り、否である。ブランケットの求めた「総て」は永続的な安全の下では成立し得なかったのである。しかしブランケットの命である「総て」は「危険性」の前ではすぐに尽きる。このどちらも同じような厳しい二者択一に、ブランケットはどうしたか。その非情さに嘆かず、危険から逃げて時間をかせごうともせず、尽きるまでその成り行きを拒否しなかった。自然的独立を得るために被る危険性から目を背けず、狼の牙に屈すると知れている角を突き出し、狼の体に傷を与えようと闘い続け、不安の闇夜から逃げ出さず、命と自己の「総て」を賭して宿命に委ね狼に譲渡したのである。

 「スガンさんのやぎ」に、ルソーの『民約論』における社会構造の縮図を見、ブランケットを演じたエレナさんの人体を駆使した動作や表情による表現と、3場面に区切った回転舞台の流動的で循環的な動きに、現実に生きる生物または人間の生々しさを感じ、多彩色の花や鮮やかな緑地やモノトーンの闇夜という舞台上に広がる色から、本作の世界観を強い印象で持って感じた。