カフカの小説には〝主人公〟が3人いる。ひとりは普通の意味での主人公、ふたり目は語り手、そして3人目は読者である。この3者がたがいの距離を微妙に変えながら展開するのがカフカの小説世界である。
語り手が〝主人公〟である以上、この語り手は、読者にむかって客観的な報告をするとはかぎらない。通常、語り手は、〝ありのまま〟を語り、読者をからかったり、韜晦(とうかい)したりはしないことになっている。『変身』の語り手が、「朝、胸苦しい夢から目をさますと、グレゴール・ザムザは、ベッドの中で、途方もない1匹の毒虫に姿を変えてしまっていた」と語れば、読者は、それを〝事実〟として受け取る。そういう暗黙の了解が前提されている。 続きを読む »
2014年1月14日
【真夏の夜の夢】『野田版 真夏の夜の夢』——「知られざる森」の「知られざる物語」(田中綾乃)
シェイクスピアの作品は数多あれど、その中でも『真夏の夜の夢』(※註)と聞くと、心躍るものがある。第一に、タイトルにもあるように、この作品が<現実>ではなく、<夢>の物語であるということ。第二に、作品の舞台であるアテネ近郊の森で活躍する悪戯好きの妖精パックの存在。第三に、この物語が二組の男女の恋の行方を描いていること。そして、幻想的な夜の森の舞台に散りばめられた美しい詩的な台詞と共に、妖精と人間たちが織りなす真夏の夜の夢。何ともロマンティックでファンタジーに溢れている。
この作品が執筆されたのは1590年代の半ば。17世紀を目前にしたヨーロッパでは、自然科学の発展に伴い、理性に重きを置いた近代が幕を開けようとしていた。よく言われるように、『ハムレット』(1600)には、デカルトの近代的自我を先取りした悩める主人公が登場する。“万の心を持つシェイクスピア”は、人間の心に潜む欲望や野心、嫉妬からの悲劇を描写するが、そのような中で『真夏の夜の夢』は、妖精と人間との戯れという前近代的な雰囲気を色濃く残す宮廷喜劇として描かれたのである。
それから約400年後。近代化した東アジアの島国でひとりの演劇人がこの作品を潤色していた。そして、21世紀を目前にした1992年の夏、日生劇場にて初演されたのが『野田秀樹の真夏の夜の夢』(以下、『野田版』)である。野田秀樹によって料理されたこの作品では、異国の貴族たちの物語が日本の割烹職人たちの物語に、アテネの森は富士山の麓の「知られざる森」にすり替わっている。そして、駆け落ちするライサンダーとハーミアは、板前ライとときたまごに。ハーミアを追う婚約者のデミートリアスは板前デミ、これを追う元恋人のヘレナはそぼろと役名もすり替わる。
原作では、森に迷い込んだ若者たちに妖精パックが間違って惚れ薬を塗ることで、二人の男がヘレナを巡って大騒動となる。『野田版』では、この筋を継承しながらも、騒動を起こす引き金として悪魔のメフィストフェレスを登場させる点が巧みだ。原作では重要な役回りである妖精パックも、『野田版』ではメフィストによってすり替えられてしまう。メフィストは、人々が「コトバにならず呑み込んだコトバ」—例えば、欲望や野心、憎悪や嫉妬の感情など—を契約によって実現させていく。そして、メフィストの企みは、人間たちの憎悪を増幅させることで、妖精が棲む「知られざる森」を焼き尽くすことである。
「知られざる森」とは、「人が置き忘れた知られざること」、言い換えれば大人になったら忘れてしまうことが「富士の山ほどある」森である。この意味で、「知られざる森」とは、まさに<ワンダーランド>であり、<ネバーランド>でもある。そして、この森を焼き尽くすということは、人間の<夢>をバクのように食い尽くすことである。
『野田版』は、メフィストを登場させることで、原作の『真夏の夜の夢』までをもあらぬ方へすり替えようとする。原作を知る者としては、この物語の行く末にハラハラするが、この換骨奪胎こそ劇作家・野田秀樹の真骨頂とも言える。終盤、『野田版』では、『不思議の国のアリス』のごとく、誰がこのメフィストを森に呼んだのか「最後の証人」を招く。ここで明らかになるのは、この<真夏の夜の夢>を見ていたのは、他の誰でもないそぼろであったということである。そぼろは、この夢が自分の呑みこんだコトバ(願望)から作り出されたものであることに気づく。原作のヘレナは、どんなにデミートリアスに邪険にされても、忍耐強く、従順な女性である。しかし、『野田版』では、原作では決して明らかにされなかったそぼろ(ヘレナ)の心底に迫ることで、この物語をそぼろ(ヘレナ)の欲望から紡ぎ出された夢として呈示するのである。
だが、この欲望の物語は悲劇ではない。いつしか希望の物語へとすり替わっている。メフィストと結んだ目に見えない契約は、目に見えない力で破棄するしかない。その目に見えない力とは「お話」=物語である。妖精の女王タイテーニアは「人間が呑みこんだコトバはゴミばかりではない」と言って、そぼろに美しい物語を語らせることで、メフィストの心を癒し、涙の雨で森の火を鎮める。同時に、そぼろの目に見えていた妖精たちは、見えない存在となる。美しさと切なさで溢れるこの場面は、実に詩的であり、コトバ(物語)に託す劇作家の想いを汲み取ることができる象徴的な場とも言える。
このように大胆な書き替えと卓越した言葉遊びのセンスによって、『野田版』は原作を越え出た重層的なイメージを伴う美しい物語へと生まれ変わった。そして、21世紀を跨いだ2011年、富士の麓の静岡芸術劇場において、この「知られざる物語」が蘇った。折しも、3.11後の上演となったわけだが、宮城聰の演出は、薄暗い森の中に一筋の光を当てるような祝祭劇を展開した。SPACの俳優たちの身体によって奏でられた美しいコトバ(詩)と音楽は、観客の心を躍動させたのだった。
思うに、近代化の推進とその極限にいる現代の私たちにこそ、コトバの力や物語の力を再認識させる壮大なファンタジーが求められている。そんなことを気づかせてくれる作品である。
(※註)
原題の“A Midsummer Night’s Dream” のMidsummerは、夏至を意味する。ヨーロッパでは、キリスト教の聖ヨハネの祝日に夏至祭が行われるが、Midsummer Nightとはその前夜を指す。前夜祭では、人々は一晩中、焚火をたいて踊り、お祭り騒ぎをすると言う。また、この日に摘む薬草は、不思議な力を発すると考えられている。それ故、Midsummer Nightとは、一年の中で最も短い夏の夜の間に繰り広げられるドタバタ騒ぎ、そして不思議な出来事が起こる儚い夜を意味するのである。
【筆者プロフィール】
田中綾乃 TANAKA Ayano
三重大学人文学部准教授。専門は、西洋哲学、美学。カントの哲学研究を行う一方、演劇批評にも携わる。現代劇の批評を中心にしながら、現在では文楽や歌舞伎の見どころ解説を筋書や講座などで担当。