金森穣は、自身、卓越したダンサーであり、少なくとも15年間に44の新作を発表した振付家であり、主宰するNoismで島地保武、平原慎太郎など、優れたダンサーを数多、育てた有能な指導者であり、しかも、そればかりでなく、日本唯一の公立劇場(りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館)レジデンシャルダンスカンパニーの芸術監督でもある。
まことにうらやましい境遇に見える。だが、考えてみれば、こうした職責をひとりで勤め上げるのは容易ではないはずだ。言葉遣いひとつとっても、振付のためのそれと、行政関係者を説得するためのそれはまったく別ものである。それを金森が勤めおおせるのは、かれの根底にひとつの一貫したもの、すなわち「プロフェッショナリズム」への強固な意志があるからだ。だが、それはどのようなものなのだろう。
金森の名がダンスファンに浸透したきっかけとなったのは、2004年『SHIKAKU』(新宿パークタワーホール)だった。広いスペースが白い壁によって迷路のように仕切られ、溢れんばかりの観客が当てもなく歩き回り、そのひとびとを掻き分けるように登場したダンサーたちが、大小の部屋や通路のそこここで思い思いのパフォーマンスをおこなう。それにつれて無秩序に場所を変えていく観客は、いつの間にか背後にいたダンサーに突き飛ばされそうになったり、いきなり間近にあらわれたダンサーと目が合ったりする内に、奇妙な身体感覚をおぼえるのだった。
その体験について脳科学者の茂木健一郎はこう述べている。「周りでいろんな人が踊っていて、もうとにかく今までに経験したことがない、もうすごい妙な経験でしたね。もう言葉にできないし、意味にもできないし、もう溢れ出るしかないっていうか。……全部溢れ出ていっちゃっていること、それが心地いいんですよね」(『芸術の神様が降りてくる瞬間』光文社)。
『SHIKAKU』はNoism発足直後の作品だが、そこにはすでに金森のプロフェッショナリズムを考えるために重要な秘密が隠れている。
劇場に登場するのは、プロフェッショナルな、すなわち、生活の不安なく、毎日、トレーニングに専念できるダンサーであるべきだ、と金森は考える。だが、行政を説得しなければその体制は実現せず、そのためには行政や納税者=観客が納得するような作品をつくらなければならない。
ところがここで難問が立ちふさがる。行政や納税者を納得させるためには、第一に、作品の意図が明解な言葉で説明できなければならず、第二に、その意図は、作者の夢想などではなく、現代社会の「鏡」でなければならない。しかも、第三に、その作品は、劇場にいあわせなければ体験できないような、なにか、言葉では説明しきれないものを観客に与えなければならない。
一見、相矛盾するこの難問は、どうすればクリアできるのだろう。
実は、このうち第一と第三の課題解決法を示唆するのが、『SHIKAKU』なのである。
従来、ダンサーの動きはすべての観客に等しく、見えなければならないと考えられており、実際、通常の、いわゆるプロセニアム形式の舞台(額縁舞台)はそのように設計されている。それに対して『SHIKAKU』の出発点にあったのは、舞台におけるこうした大前提を崩すという明確な意図だった。この作品においてダンサーはいつ、どこにいるべきかだけが指示され、その結果、何が起こるか、各観客がどこから何をどう見るか、その全体がどうなっているかは、一人一人のダンサーはもとより、振付家の金森自身も知りようがなかった。
意図はシンプルだが、それが生み出すものは限りなく多様である。一人一人の観客がそれぞれの場所で味わうものは観客ごとに異なるからだ。そしてそれは、まさに、ダンサーと無数の観客が同じ場所を占める劇場空間でなければ体験できない効果である。
だが、第二の課題はどうクリアできるのだろう。その一例を示してくれるのが、今回上演される『ZAZA~祈りと欲望の間に』である。現代の時間感覚とは背馳する時間、多人格が同居した身体、各自の祈りが転化した欲望という、それぞれはまさに現代を映し出す「鏡」だからだ。
もちろん、作品が実際になにを生むかは、それぞれの過去や生活、気分をもつ観客一人一人が公演をどう味わうか次第である。では、各自が作品を十分味わうためになにが必要か。それは、「考えるな、見よ」という、よく知られた教えだけなのである。
【筆者プロフィール】
貫 成人 NUKI Shigeto
専修大学教授。専門は現象学、舞踊美学、歴史理論。近著に『歴史の哲学―物語を超えて 』(勁草書房)、『哲学で何をするのか: 文化と私の「現実」から』(筑摩選書)などがある。