去年公開された、『47 RONIN』という映画にはたまげました。ハリウッドも遂に「忠臣蔵」を取り上げたんですね。大石内蔵助を筆頭とする四十七士の吉良邸討入りは、海を超えて、もはや世界の物語となりました。
でも、今や日本人の方が「忠臣蔵」を知らないのではないでしょうか。日本映画黄金時代には「定番」でしたが、最近テレビではご無沙汰ですからね。しかし「忠臣蔵」は、今回平田オリザが描いたように、上は社会全体から、私たちの勤める会社、家庭にいたるまで、ピラミッド的日本の上下社会には必ず埋め込まれているDNAなんです。ですから討入り後300年経った今でも生命を失わないんですね。
皆さん、「忠臣蔵」とごく普通にこの言葉を使っていますが、元禄15年(1703)の討ち入り事件はあくまで「赤穂義士事件」です。当時の劇界は人形浄瑠璃(いまの文楽)が名作者近松門左衛門を擁して日の出の勢いで、歌舞伎は脚本などまだまだ幼いものでした。しかし両者とも、事件直後から、何度か脚色して舞台にかけています。江戸時代は同時代の事件をそのまま脚色するのが禁じられていましたから、「小栗判官」「太平記」の時代背景を借りたのです。
その集大成が、寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」です。これが古今の大当たりを取り、直ちに歌舞伎化されたのです。
「仮名」はいろは四十七文字=四十七士で武士の「手本」、「忠臣蔵」でちゃんと大石内蔵助を織り込んである。良く出来た題名でしょう。この人形浄瑠璃・いまの文楽がなければ「忠臣蔵」という言葉は無かったのです。先ごろ大阪の市長さんが、吉良みたいに文楽をネチネチ虐めていましたけれど、市長さんはきっとこうした地元道頓堀の誇らしい歴史をご存知なかったのでしょう。
平田オリザ「忠臣蔵」のテーマは、浅野内匠頭刃傷以降の大石以下赤穂の人々の動揺ですね。「仮名手本忠臣蔵」は、全十一段構成ですが、「三段目」が刃傷、俗に「喧嘩場」と言い、「四段目」が塩冶判官(浅野内匠頭)切腹、城明け渡しになっています。
史実では凶変の5日後早朝、第一の使者が国許に刃傷を、深夜には第二の使者が切腹の報をもたらし、城内騒然となります。評定は切腹、籠城、開城と揺れ、刃傷から約1ヶ月後には城明け渡し。それ以前には、同志の間で血盟が交わされました。これが近代劇として劇化されると、真山青果の名作「元禄忠臣蔵」のように「江戸城の刃傷」「第二の使者」「最後の大評定」と、三部に分けられます。ところが、「仮名手本忠臣蔵」だと、それを鎌倉扇ヶ谷の塩冶判官の邸という一場面の一日の出来事として凝縮してしまう。そこが、日本の古典芸能・文芸の大胆さ、力強さです。史実は江戸と赤穂ですけれど、「忠臣蔵」では判官が九寸五分を腹に突き立てた瞬間、国許の伯耆から大星由良助(大石内蔵助)が襖踏み開け駆け込んできます。判官は大星に九寸五分を手渡し「汝にか、た、み」と敵討せよと匂わせて息絶えます。何とも劇的なシチュエーションではありませんか。
浄瑠璃本文の「評定」は、城を枕に討死の千崎弥五郎と、異議を唱え席を立つ斧九太夫のやりとりだけであっさりとしたものですが、これが歌舞伎になると、一気に膨らみます。判官の遺骸を光明寺に送ったあと沈思する大星に九太夫が御用金配分を知行高割りにしろ、と毒つく一方、若侍たちを懐柔する。血気にはやる彼らを大星が朗々たる弁舌で「まだ御了見が若い、若い」と止める。みな、歌舞伎の工夫です。
平田オリザも登場人物に言わせているように、事件当時すでに泰平に慣れ、「武士道」というアイデンティティ自体忘れられていました。浄瑠璃「忠臣蔵」は、いわば理念としての「武士道」を再現したものでした。それを歌舞伎で生身の人間が演じた時、御用金配分という物欲、諸士の苦悩、指導者大星の熟慮という、より生々しい感情が肉付けされていったのです。
さらに時代が下がり、鶴屋南北は「東海道四谷怪談」を書きました。「忠臣蔵」の外伝で、お岩を苛め抜く民谷伊右衛門は塩冶(赤穂)の脱盟浪人という設定。「いまどき敵討ちなんて古風だ」とうそぶきます。
平田オリザの脚本は、浄瑠璃・歌舞伎の様式から自由に解放され、子供の道場(塾)はじめ何気ない日常が破綻し、仕官再就職・籠城・討入に心揺れる人を描いています。
しかしそれは、そもそも「忠臣蔵」という極限状況を描き切った浄瑠璃・歌舞伎が本来持つ普遍的ないのちなのです。
私たちのこの日常ですら、赤穂の人々と同じくいかに儚いものであるか。私たちはそれを3・11の震災で思い知ったではありませんか。
【筆者プロフィール】
犬丸治 INUMARU Osamu
1959年生まれ。演劇評論家・歌舞伎学会常任委員。「読売新聞」「テアトロ」に歌舞伎評執筆。著書に「市川海老蔵」(岩波現代文庫2011)ほか。