劇場文化

2013年12月14日

【忠臣蔵】「忠臣蔵」のいのち(犬丸治)

カテゴリー: 2013,秋のシーズン

 去年公開された、『47 RONIN』という映画にはたまげました。ハリウッドも遂に「忠臣蔵」を取り上げたんですね。大石内蔵助を筆頭とする四十七士の吉良邸討入りは、海を超えて、もはや世界の物語となりました。
 でも、今や日本人の方が「忠臣蔵」を知らないのではないでしょうか。日本映画黄金時代には「定番」でしたが、最近テレビではご無沙汰ですからね。しかし「忠臣蔵」は、今回平田オリザが描いたように、上は社会全体から、私たちの勤める会社、家庭にいたるまで、ピラミッド的日本の上下社会には必ず埋め込まれているDNAなんです。ですから討入り後300年経った今でも生命を失わないんですね。
 皆さん、「忠臣蔵」とごく普通にこの言葉を使っていますが、元禄15年(1703)の討ち入り事件はあくまで「赤穂義士事件」です。当時の劇界は人形浄瑠璃(いまの文楽)が名作者近松門左衛門を擁して日の出の勢いで、歌舞伎は脚本などまだまだ幼いものでした。しかし両者とも、事件直後から、何度か脚色して舞台にかけています。江戸時代は同時代の事件をそのまま脚色するのが禁じられていましたから、「小栗判官」「太平記」の時代背景を借りたのです。
 その集大成が、寛延元年(1748)8月、大坂竹本座で初演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」です。これが古今の大当たりを取り、直ちに歌舞伎化されたのです。
 「仮名」はいろは四十七文字=四十七士で武士の「手本」、「忠臣蔵」でちゃんと大石内蔵助を織り込んである。良く出来た題名でしょう。この人形浄瑠璃・いまの文楽がなければ「忠臣蔵」という言葉は無かったのです。先ごろ大阪の市長さんが、吉良みたいに文楽をネチネチ虐めていましたけれど、市長さんはきっとこうした地元道頓堀の誇らしい歴史をご存知なかったのでしょう。
 平田オリザ「忠臣蔵」のテーマは、浅野内匠頭刃傷以降の大石以下赤穂の人々の動揺ですね。「仮名手本忠臣蔵」は、全十一段構成ですが、「三段目」が刃傷、俗に「喧嘩場」と言い、「四段目」が塩冶判官(浅野内匠頭)切腹、城明け渡しになっています。
 史実では凶変の5日後早朝、第一の使者が国許に刃傷を、深夜には第二の使者が切腹の報をもたらし、城内騒然となります。評定は切腹、籠城、開城と揺れ、刃傷から約1ヶ月後には城明け渡し。それ以前には、同志の間で血盟が交わされました。これが近代劇として劇化されると、真山青果の名作「元禄忠臣蔵」のように「江戸城の刃傷」「第二の使者」「最後の大評定」と、三部に分けられます。ところが、「仮名手本忠臣蔵」だと、それを鎌倉扇ヶ谷の塩冶判官の邸という一場面の一日の出来事として凝縮してしまう。そこが、日本の古典芸能・文芸の大胆さ、力強さです。史実は江戸と赤穂ですけれど、「忠臣蔵」では判官が九寸五分を腹に突き立てた瞬間、国許の伯耆から大星由良助(大石内蔵助)が襖踏み開け駆け込んできます。判官は大星に九寸五分を手渡し「汝にか、た、み」と敵討せよと匂わせて息絶えます。何とも劇的なシチュエーションではありませんか。
 浄瑠璃本文の「評定」は、城を枕に討死の千崎弥五郎と、異議を唱え席を立つ斧九太夫のやりとりだけであっさりとしたものですが、これが歌舞伎になると、一気に膨らみます。判官の遺骸を光明寺に送ったあと沈思する大星に九太夫が御用金配分を知行高割りにしろ、と毒つく一方、若侍たちを懐柔する。血気にはやる彼らを大星が朗々たる弁舌で「まだ御了見が若い、若い」と止める。みな、歌舞伎の工夫です。
 平田オリザも登場人物に言わせているように、事件当時すでに泰平に慣れ、「武士道」というアイデンティティ自体忘れられていました。浄瑠璃「忠臣蔵」は、いわば理念としての「武士道」を再現したものでした。それを歌舞伎で生身の人間が演じた時、御用金配分という物欲、諸士の苦悩、指導者大星の熟慮という、より生々しい感情が肉付けされていったのです。
 さらに時代が下がり、鶴屋南北は「東海道四谷怪談」を書きました。「忠臣蔵」の外伝で、お岩を苛め抜く民谷伊右衛門は塩冶(赤穂)の脱盟浪人という設定。「いまどき敵討ちなんて古風だ」とうそぶきます。
 平田オリザの脚本は、浄瑠璃・歌舞伎の様式から自由に解放され、子供の道場(塾)はじめ何気ない日常が破綻し、仕官再就職・籠城・討入に心揺れる人を描いています。
 しかしそれは、そもそも「忠臣蔵」という極限状況を描き切った浄瑠璃・歌舞伎が本来持つ普遍的ないのちなのです。
 私たちのこの日常ですら、赤穂の人々と同じくいかに儚いものであるか。私たちはそれを3・11の震災で思い知ったではありませんか。

【筆者プロフィール】
犬丸治 INUMARU Osamu
1959年生まれ。演劇評論家・歌舞伎学会常任委員。「読売新聞」「テアトロ」に歌舞伎評執筆。著書に「市川海老蔵」(岩波現代文庫2011)ほか。

2013年11月13日

【わが町】開戦3週間前の『わが町』(水谷八也)

カテゴリー: 2013,秋のシーズン

 1938年2月、ソーントン・ワイルダーの『わが町』はブロードウェイのヘンリー・ミラー劇場で幕を開ける(といっても、最初から幕は開いていたが・・・)。後のワイルダーの芝居が常に賛否両論を招くように、『わが町』も完全な裸舞台という過激さゆえに評価は大きく分かれたが、春にはピューリッツァー賞に輝き、次第にアメリカを代表する戯曲という地位を獲得していく。以後数年間で、『わが町』は世界中で翻訳され、地球上で『わが町』が上演されていない夜はない、とまで言われるようになる。
 ブロードウェイでの幕を閉じるのが38年11月。森本薫の翻訳『わが町』が演劇雑誌『劇作』の11月号に掲載されるのが翌39年である。当時の状況を考えれば異様な早さである。これが舞台にかかるのが1941年7月。文学座が「勉強会」の名のもと、長岡輝子演出で、築地の国民新劇場において上演した。この短期間の公演は好評で、朝日新聞はこのような良質の舞台を「3日で終わらせるのは惜しい」と書いている。これに応える形で、文学座は9、11月に東京、大阪で上演することを決定した。
 7月の舞台を見て感動し、東京での本公演をもう一度見た若者がいた。東京商科大学(現・一橋大学)の学生だった大串隆作である。大串は演劇研究会のメンバーであり、この文学座の『わが町』をぜひ、国立のキャンパス内にある兼松講堂で上演して、その感動を学友と共有したいと願い、さっそく行動に出る。しかしこの年8月のアメリカによる対日石油輸出禁止以後、軍内部は開戦の方向へと傾き、当時の日米関係は悪化の一途をたどっていた。大串は周到に準備を進める。
 幸い、大学にはリベラルな空気がまだあり、アメリカ文学者の西川正身もいた時代である。大串青年の熱意は教授陣にも伝わり、全学あげて協力体制をとり、また文学座もこれを快く引き受け、11月17日、文化祭の一環として兼松講堂での上演が実現する。公演は大成功に終わり、学生も教員も深い感動に包まれたという。真珠湾攻撃のわずか3週間前のことである。
 一橋での公演の翌日の朝日新聞第一面の中央には、「首、外相 対米決意を明示」という囲み記事が出る。これからその「アメリカ」と戦う運命にあるとおそらくは予感していた学生たちはどのような思いで「アメリカ」を代表するこの芝居を見て、何に感動したのだろう。時代の空気を考えれば、彼らの感動の源泉がこの戯曲の「アメリカ」的な要素にあったはずはない。おそらく彼らは、「アメリカ」を突き抜けた『わが町』の本質に触れたのだと考えざるを得ない。
 長岡輝子の演出助手であった長尾喜又は、「私たちはあの年の日夜ひそかに動員が繰り返される夏の日の重苦しい、逼迫した情勢の中で、また予感される死、危険の恐れの中で、この舞台からしみじみと毎日の平凡な生活の貴さ、人生の意義、価値、悲哀、そして永遠なものを感じ、味わったに違いない」と回想している。「死」は、特に若者にとって、現実問題として目前にあった、すでにアジアに、そしてアメリカ・・・。
 ほとんど劇的なことが何も起こらないこの劇を「つまらない」とか、「感傷的だ」と揶揄する向きもあるだろう。しかし、41年11月17日の兼松講堂での若者たちの感動を笑うことはできない。私たちは素直に彼らの感動を想像すべきだろう。
 「平凡」が奇妙にドラマ化され、すでに「平凡」でなくなっている現在、『わが町』はどんなふうに見えるのだろうか。西川正身は兼松講堂での上演後、一橋新聞に「変転の時流をよそに 静かに生を反省」と題して記事を書き、同僚の神保謙吾は文学座を「多分の純粋性を持っている」劇団と評価した。今回はこの純粋性を受け継ぐ文学座の今井朋彦が、一橋の学生も耳にした森本薫の翻訳を使っての演出となる。日本の『わが町』の原点に戻って、変転の時流をよそに、静かに「平凡」を反省してみたい。

【筆者プロフィール】
水谷八也 MIZUTANI Hachiya
早稲田大学文化構想学部教授(文芸ジャーナリズム論系)。専門分野は20世紀英米演劇。共著に『アメリカ文学案内』(朝日出版社、2008年)、訳書にソーントン・ワイルダー『危機一髪』『結婚仲介人』(新潮社、1995年)など。

2013年10月16日

【サーカス物語】『幼ごころの君を求めて』(河邑厚徳)

カテゴリー: 2013,秋のシーズン

 ミヒャエル・エンデの戯曲が静岡芸術劇場で公演されます。東欧の陰影が色濃い『サーカス物語』をインドネシアの鬼才がどう演出するのかワクワクします。エンデは児童文学者という先入観で見られがちですが、幅広い才能にあふれ、近代西洋思想を批判する思想家でもありました。青年時代には舞台に立ち、戯曲も書いていましたが無名でした。エンデが世に出たのは『ジムボタンの機関車大旅行』。大ベストセラーになってドイツ児童文学賞を受賞しました。その後は『モモ』や『はてしない物語』など永遠に残る傑作を書き続けてきました。児童文学と並んで、エンデの創作の大きな柱が『遺産相続ゲーム』や『ハーメルンの死の舞踏』などの戯曲でした。葬儀にはエンデの仕事を代表して、ドイツ・バイエルン地方の方言で書かれた『ゴッゴローリ伝説』が上演されています。
 エンデの死は1995年ですが、私は1989年、NHKスペシャル『アインシュタインロマン』(1991年放送)のプロデューサーとしてミュンヘンを訪れました。シリーズはアインシュタインの相対性理論を映像で表現しようというものでした。時間と空間の新しい関係を明らかにして20世紀の科学技術万能時代の幕を開いた天才の頭脳は何を考え、何を発見したのか。シリーズのうたい文句は「知の冒険」でした。しかし、手放しでアインシュタインを賛美するのではなく、現代文明の功罪も問いかけようとするものでした。『モモ』は理論物理学の時間とは違う、いのちの時間を描いた作品です。アインシュタインをエンデはどう見るのか?
 エンデは企画書を読んで、「私は自然科学の専門ではないし、アインシュタインを批判するつもりはない」と返事をくれました。しかし、「もし私に出来ることがあるとすれば、自然科学的思考が未熟であることを指摘することです」と書かれていました。エンデは、自然科学は、主観と客観を分断することで発展し、その前提に欠陥があると指摘しました。「客観的な真実」からは、研究し、実験し、思考をめぐらせた科学者自身の姿は消えています。その結果、科学者の研究は中立不偏で研究の目的や結果への責任が問われないことになります。
 アインシュタインは、神の謎を解きたいと考え、相対性理論を発見した自由で創造性にあふれた天才です。しかし、第二次世界大戦中には一人のユダヤ人として、ルーズベルト大統領へのマンハッタン計画を推進する手紙にサインをしています。ナチの核開発を憂慮しての行為でした。核兵器や原発を生んだ核エネルギーは、特殊相対性理論がこじ開けた秘密の扉だったのです。科学の中立性は現代の神話かもしれません。地球規模で科学技術の開発競争が進み、国家、大学、企業などが巨額の投資をして成果を求め、特許で保護された研究から膨大な利潤が生まれます。ES細胞、クローン技術、臓器移植、遺伝子操作作物…。未来に何が起こるのかが不透明なままに、何かが暴走しています。エンデは、科学技術はモラルではなく常に成長することを強いるマネーの論理により、牽引されていると警告しています(河邑著『エンデの遺言』より)。この奔流に対抗できるのは人間の新しい想念以外にはありません。
 エンデは繰り返し未来を創造する力の源泉はファンタジーだと語りました。そこにエンデの渾身のメッセージがあると思います。
 「ファンタジーとは現実から逃避する手段であり、どこかで空想的冒険をするためにあると考えられています。しかし私にとってファンタジーとは、新しい観念を形成する、または既存の観念を新しい関係形態に置く人間の能力なのです。現代人にとって具体的なファンタジーを発達させることほど必要なものはないのです。それによって私たちはまだ見えない、将来起こる物事を眼前に思い浮かべることが出来るのです。読書を通じて、または映画、演劇、絵画など創造的能力によってそれをしなければなりません。」(『アインシュタインロマン6』NHK出版より)
 エンデは、近代合理主義に対抗する叡智を東洋思想にも求めました。大乗仏教の唯識論は、人の意識のレベルを八段階にわけて意識の下に、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という二つの無意識世界を置きました。それは科学的方法では証明できない、ファンタジーの住処ではないでしょうか。『はてしない物語』で虚無の世界に対抗するファンタージエン国。エンデは、科学の知と様々な民族が生み出した神話の知の統合を夢見て世を去りました。

【筆者プロフィール】
河邑厚徳 KAWAMURA Atsunori
映画監督。女子美術大学教授。東京大学法学部卒業後NHK入局。在籍39年間で『がん宣告』『アインシュタインロマン』『エンデの遺言』などで新しい映像表現を開拓する。『天のしずく 辰巳芳子いのちのスープ』(2012年)はサンセバスチャン、ワルシャワなどの国際映画祭で招待作品に選ばれ全国で上映中。

2013年9月24日

【愛のおわり】『ソクラテスの冗長率』(平野暁人)

カテゴリー: 2013,秋のシーズン

 「とんでもない大成功だよ。こんなの初めてだ。頭が追いつかない」
 そんなメールがパスカルから舞い込んだのは、アヴィニヨンの興奮冷めやらぬ2011年8月上旬のことだった。ちょうど7月から休暇と語学研修を兼ねてイタリアの港町に滞在していた私は、パスカル本人から誘われていたこともありなんとか予定を調整して現地まで観に行こうとするも叶わず、仕方なくお詫びかたがた様子伺いのメールを送るにとどめておいたのだが、そこへこの存外浮かれた返信である。
 大成功? あのパスカルの作品が?
 憚りながら、フランス演劇界におけるパスカル・ランベールの経歴とその立ち位置の特異性に少なからず通じている人間にとってこれほど不条理に響くフレーズもないだろう。私自身、パスカルとは『演劇という芸術』『私のこの手で』(ともに2009年11月こまばアゴラ劇場にて上演)以来の付き合いだが、前者では老優が仔犬(本物)相手に延々と問わず語りを続け、後者では完全暗転のなか極小の蛍光灯がひとつまたひとつと灯されてゆきやがて浮かび上がった人間の姿をみれば両性具有、という具合に、いまこうして思い出しながら描写してみてもつくづくカオスである。また翌2010年にここ静岡の野外劇場「有度」にて『世界は踊る〜ちいさな経済のものがたり~』を上演する機会を得た際には、一転して一般参加者を数十人も募りフランス人俳優たちと共に舞台を埋め尽くしてみせた。そんな、常に作・演出を旨とし、自身が芸術監督を務めるジュヌヴィリエ国立演劇センターにおいても新作しか上演させないという徹底したスタイルをとっているパスカルを、コンテンポラリーという枠組みすらもどかしく独自の詩的言語を磨き続けるあのパスカルを、アヴィニヨン中が祝福しているという。頭が追いつかないのはこちらの方だ。
 ほどなくして送られてきたDVDを観て、私は再び絶句した。本気でこれを上演しようというのだろうか。この日本で。不可能だ。まず、これほどのテクストを訳しきれる自信がない。よしんば訳しきれたとして、日本の観客に受け入れられるスタイルだとも思えない。しかしこちらの当惑をよそに日本版の制作準備は着々と進められてゆく。さらにはイタリア、ロシア、アメリカ、クロアチアといった諸外国版の度重なる成功が申し分のない追い風を吹かせる。気がつけば、『愛の終わり』の翻訳を担当していると告げただけでフランス演劇人から一目置かれるほどの作品に育っていた。私はといえば、そんななかでもやはりひとりで途方に暮れていた。2013年1月のあの日までは。
 その日、フランス国内で既に何度目かの再演となるパリ・ポンピドゥーセンターでの公演を体感したその瞬間に、迷いが断ち切れた。明らかに、国も文化も超えた情動が眼前で脈打っていた。なにを伝えるべきかはわかった。あとはどう伝えるべきかだ。すなわち(私の職分に限っていえば)いかに正確に翻訳するかのみならず、日本語を監修してくださる平田オリザ氏へパスカルの詩性をいかに緻密に引き継ぐかが鍵となる。
 ところで、私のような演劇の素人が失礼千万を承知で申し上げるならば、今回の平田氏とパスカルとのコラボレーションがどう結実しうるのかについては当初、あまりはっきりとしたイメージが抱けずにいた。なにしろ周知の通り、平田氏といえば計算され尽くした「言い落とし」「あいづち」「言い間違え」さらには「不在」といった手法を駆使して逆説的に人間の関係性を描き出す「対話(ダイアローグ)」の達人である。翻って本作を貫くのは西欧言語文化のお家芸ともいえる長大なモノローグ(独白)であり、しかもパスカル自身はこの言葉の奔流を初めから終わりまで一切の句読点も改行もなしに「ソクラテスの犬を追って(本人談)」、すなわち絶えず四方八方へと寄り道する思考の流れをひたすら辿って書き上げたという。いうなれば気が遠くなるほどに長く無秩序な一文で綴られた戯曲なのだ。ますます好対照を成すばかりにも思える両者の言語世界はいかにして交わりうるのか。
 はたして、「対話」と「犬」を結ぶ手がかりは「冗長率」にあった。「冗長率とは、言語学の世界の用語で、一つの文章のなかに、どれほど、伝えたい情報と(一見)無縁な内容が含まれているかを示す数値である(平田オリザ著『演劇入門』より)」。ここでは仮に台詞のなかのノイズと言い換えてもいいだろう。対話の達人が配した無数のノイズを媒介として研ぎ澄まされてゆくモノローグ。そうして至高に達したモノローグはやがて自ずから対話の相貌を呈し始める。パスカル―平田版ならではのこのパラドックスをぜひ感じ取っていただきたい。
 世界初演の幕が上がる。

【筆者プロフィール】
平野暁人 HIRANO Akihito
翻訳家。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手がける。訳書に、カトリーヌ・オディベール『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)、クリストフ・フィアット『フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ』(明石書店)などがある。『愛のおわり』日本版の翻訳を担当。

2012年11月11日

【ロミオとジュリエット】ロミオとジュリエットは、笑いから悲しみへ向かう(河合祥一郎)

カテゴリー: 2012,秋のシーズン

 オマール・ポラスの稽古場に立ち会って、彼の才能を確信した。付け耳・付け鼻やユニークな衣装を用いるオリジナルな演出は『ロミオとジュリエット』前半の喜劇性を効果的に強調するものであり、こんな突飛なアイデアはよほど深く作品を理解してないと出てこないからだ。ロマンティックな美しい影絵に目を奪われることになるが、これも喜劇性とのコントラストがあればこそ、一層効果的になっている。
 前半の喜劇性というのは、この作品の重要なポイントだ。『ロミオとジュリエット』がシェイクスピアの四大悲劇(『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』、『マクベス』)のなかに入らないのは、この喜劇性ゆえだと言ってもいい。マキューシオや乳母が下ネタ満載のジョークを連発し、前半は悲劇どころか笑劇のようでさえある。
 実際、前半はロミオとジュリエットが出会って恋に落ちるのが話の大きな流れなのだから、悲劇的な要素はほとんどない。むしろわくわくする楽しい展開だ。事態が変わるのは、マキューシオが殺され、ロミオがティボルトを殺してしまう時点からだ。血が流れ、急転直下、ロミオは追放。笑いは凍りつき、悲劇へと変わる。喜びを期待しているときの悲しみほど衝撃的なものはない。だからこそ、『ロミオとジュリエット』はドラマティックなのだ。名作と呼ばれるものには、そのように後半で急に悲劇に転ずるものが多い。『オイディプス王』しかり、『リチャード三世』しかりである。
 ただし、四大悲劇はそのようには書かれていない。ハムレットは最初から嘆きながら登場するし、リア王はのっけから最愛の娘を追放してしまう。さらに言えば、四大悲劇の主人公たちは運命の矢弾を耐え忍び、おのれの力で憤然と運命と戦おうとするところがドラマの核心となっているが、ロミオとジュリエットの場合は「不幸な星の恋人たち」(star-crossed lovers)であり、「ああ、俺は運命にもてあそばれる愚か者だ」とロミオの台詞にあるように、運命と対決することがなかなかできない。ティボルトを殺して追放になってしまったロミオがロレンス神父のもとへ逃げ込んで泣き叫び、「女々しい」と神父に叱られるところなどは、まったく悲劇の主人公らしくない。そんなロミオもジュリエットの訃報を聞くと、「ならば、運命の星を敵に回して戦おう」と叫ぶ。この時点で真の意味での悲劇が始まるのだ。
 四大悲劇はシェイクスピアの「悲劇時代」(1600~1606年)に書かれているが、『ロミオとジュリエット』はそれよりもずっと早い「初期喜劇時代」の作品だという点も見逃せない。具体的には1594年から1596年のあいだ。初期喜劇とは、『恋の骨折り損』、『間違いの喜劇』、『じゃじゃ馬馴らし』、『夏の夜の夢』などだ。
 喜劇時代の作品であるため、道化の活躍も大きい。乳母の召し使いピーターは、当時の道化役者ウィリアム・ケンプが演じたことがわかっている。乳母自身もかなり道化的だ。
 観客を楽しませる乳母は、ジュリエットの心の友でもあるから、そんな「大事なばあや」が、「ロミオなんて忘れてパリス伯爵と結婚なさい」などと言うとき、ジュリエットのショックは大きい。
 ジュリエットはすでにロミオと結婚しているので、乳母が勧めているのは二重婚である。キリスト教では許されない恐ろしい罪であるから、ジュリエットは「心からそう言っているの?」と問い、「ええ、魂から、でなきゃ地獄落ちになります」という乳母の答えに「そうなりますよう」と返すジュリエットは真剣だ。泣いてばかりだったジュリエットは、このときになって泣くのをやめて決然と立ち上がる。そして、真の悲劇のヒロインへと歩み出すのである。あとは運命の導くままエンディングへ。
 なお、ポラス演出では(少なくとも稽古の時点では)ジュリエットの死とともに幕を下ろすエンディングとなっているが、これはバレエではおなじみの演出である。

【筆者プロフィール】
河合祥一郎 KAWAI Shoichiro
東京大学教授。専門はシェイクスピア、表象文化論。角川文庫よりシェイクスピア新訳を刊行中。著書に『ハムレットは太っていた!』(白水社、2001)ほか。共同台本執筆をした『家康と按針』(市村正親主演、グレッグ・ドーラン演出)が今年12月東京・神奈川再演、来年新春ロンドン上演予定。

2012年10月17日

【病は気から】演じる喜び=生きる喜び!? モリエール&シャルパンティエ『病は気から』について(秋山伸子)

カテゴリー: 2012,秋のシーズン

 『病は気から』はモリエール最後の作品である。アルガン役を演じたモリエールは、4回目の公演を終えた後、自宅で息を引き取った。自分は病気だと信じ込む男の役を演じたモリエール自身が病に苦しんでいたという皮肉な状況にあったことが信じがたいほどに、この作品には病を跳ね返すほどの生命力が、生きる喜びがあふれている。
 モリエール作品では、多くの人物が「演じる」喜びに身を委ねる。『町人貴族』においては、貴族に憧れる主人公が自ら貴族の役を演じることで、深い満足感を得る。アルガンもまた、自ら医者に扮し、その役を演じることで病の呪縛から解放される。音楽とダンスの力がみなぎる儀式のうちにアルガンは医者の学位を授けられ、舞台全体が言い知れぬ至福感に包まれて芝居は終わる。
 処方された薬の代金を勘定するアルガンの独白で幕を開けるこの芝居において、薬漬けのアルガンの「病気」のもう一つの治療法、伝統的な医療や薬に頼らない治療法としてまず提案されるのは、芝居を見ること、とりわけ、モリエールの芝居を見ることである。だが、それ以上に効果的な治療法として示されるのが、アルガンを医者にするための音楽とダンスのスペクタクル(一種の音楽療法とでも言えようか)である。即興のこのお芝居でアルガンはじつに自然に生き生きと演じているのだが、その素養の一端は、自らの死を演じてみせる場面にすでに垣間見える。
 妻がどれほど自分を愛してくれているかを再確認するためにアルガンは自らの死を演じてみせる。むろんこれは、アルガンの財産を狙う後妻のたくらみを暴くために小間使いがこの演技に誘い込むのだが、死んだフリをするという演技によって妻の本心を知ることができたことに味をしめたアルガンは、この直後、今度は娘の本心を確かめるため、またしても自らの死を演じてみせる。妻相手の演技に入る前には、「死んだフリなんかして危なくないかな?」とためらっていたことが嘘のように、再び演技の喜びに身を委ねるのである。
 アルガンばかりでなく、小さな子供でさえも、演技の喜びには逆らえない。父親の怒りをかわすため、幼い娘は死んだフリをする。これを見るやアルガンは動転して嘆き悲しみ、自らが素朴で信じやすい観客であることを示すのだが、「ねえパパ、そんなに泣かないで。あたし本当に死んじゃったわけじゃないのよ」という娘の言葉に胸をなでおろす。
 恋の障害に直面した若い恋人たちは即興のオペラに託して互いの想いを伝え合い、その自由奔放な生命力の前に、医者の息子トマ(今回の上演では「トーマス」、以下同様。)の融通のきかない硬直化した言葉は敗れ去る。丸暗記した言葉を機械的に繰り返すことしかできず、アンジェリック(アンジ)への贈り物として医学論文を差し出し、(お芝居にご招待とかではなく)ある女性の死体解剖にご招待しましょうと申し出る珍妙な求婚者トマに対し、クレアント(ケロッグ)は音楽の先生に変装し、アルガンやトマの前で即興オペラをアンジェリックとともに歌ってみせる。「恋するふたりがやむにやまれず、自ら沈黙を破り、その場の気持ちに任せて語り合う様子を歌にした」この即興オペラは、ヒロインの悲愴な決意(意にそまぬ相手と無理やり結婚させられるくらいなら死を選ぶという)を歌い上げ、これを見た観客アルガンの反応を引き出す。「で、これに父親は何と言うんだね?」ナイーヴな観客としてこの「けしからんオペラ」に対して激しい拒否反応を見せたアルガンが、一線を踏み越えて、見る側から演じる側へと身を移し、自らの死を演じてみせるとき、そこに新たな地平が開かれる。
 死は再生につながり、アルガンは自らの演技による象徴的かつ通過儀礼的な死を通して、自分を取り巻く人たちの本心を知り、新たな人生の可能性に目覚める。最後にアルガンを医者にする儀式でコーラスが歌い上げるのはまさに横溢する生への賛歌にほかならない。マルク・ミンコフスキ指揮、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルによるもの、ウィリアム・クリスティ指揮、レザール・フロリサンによるもの(ともに1990年)、どちらのCDもそれぞれ味のある演奏で、はじけんばかりの生きる喜びをたたえたシャルパンティエの音楽を聞かせてくれる。

【筆者プロフィール】
秋山伸子 AKIYAMA Nobuko
青山学院大学文学部フランス文学科教授。『モリエール全集』全10巻(臨川書店、2000-2003年)の翻訳により、第10回日仏翻訳文学賞受賞(2003年)。論文「宮廷祝祭における王の姿」(『身体のフランス文学』京都大学学術出版会、2006年、所収)等。

2012年9月25日

【夜叉ヶ池】夜叉ヶ池伝説(小松和彦)

カテゴリー: 2012,秋のシーズン

 泉鏡花の戯曲『夜叉ヶ池』は、九頭竜川の支流日野川の水源となっている「夜叉ヶ池」にまつわる伝説から発想を得た作品だとされている。
 作品の舞台は、越前国大野郡鹿見村琴弾谷ということになっている。しかし、大野郡には鹿見という村はなく、南条郡にある。現在は福井県南条郡南越前町今庄地区(旧今庄町)に含まれている。金沢生まれの泉鏡花が耳にした夜叉ヶ池伝説は、おそらくこの今庄地区で語られた話ではなかろうか。
 たとえば、この今庄地区には、次のような伝説が伝えられていた。
 
 夜叉ヶ池に蛇が住んでいて、娘と母親が住んでいる家へ、蛇が男に化けて通った。娘がしだいに痩せてくるので、母親が心配して尋ねてみると、娘は「男が台所の水を流す口から来るのだ」と言った。そこで、夜、男が娘のそばで眠っている間に、男の着物の襟に、大針で麻の糸を縫いつけ、翌朝、糸をたどって行くと、夜叉ヶ池に着いた。そこで蛇が大暴れして死んでいた。その後、娘を熱い菖蒲湯に入れると、蛇の子をたくさん堕した。

 この種の話は特段珍しいものではなく、伝説というかたちをとったり、昔話というかたちをとったりしながら全国各地に広く分布している「蛇聟入」型の話である。もっとも古いこの種の話は、記紀神話に見える「三輪山」(奈良県の三輪神社起源)説話である。

 美しいタマヨリビメのもとに、容姿端麗な男が夜ごとに訪れ、ヒメは妊娠する。両親は男の素性を知ろうと、娘に麻糸を通した針を男の衣の裾に刺すように教える。夜が明けて、その糸をたどっていくと、三輪山の神社に至った。そこで両親は、男の正体が三輪の神(蛇の姿をしていると考えられていた)であることを知った。ヒメが生んだオオタタネコは、三輪の神を祀る神主となり、その子孫が鴨氏や三輪氏である。

 比べてみればわかるように、上述の夜叉ヶ池伝説が三輪山説話の変異形であることは、明らかである。しかし、両者の間には、大きな違いがある。それは結末部分で、現在の蛇聟入型の説話では、娘が生んだ子は蛇の姿をしており、人間世界から排除されているのに対して、タマヨリビメの生んだ子は人間の姿をしており、母に育てられて、古代の神職系豪族の祖となっていることである。
 この違いは、一言でいえば、古代から近代に至る時代の流れに応じて、神格化された蛇への信仰心の衰えの結果ということになるわけだが、その過程にはさまざまな信仰・伝説の段階があったと推測される。そしてまた、夜叉ヶ池伝説についても、その伝承の分布やその伝承内容をくわしく見ていくと、そのことがわかるだろう。
 夜叉ヶ池は越前国(福井県)・美濃国(岐阜県)・近江国(滋賀県)の境界域をなす山系に位置している。そのこともあって、山麓の地域には類似した内容の伝説が分布している。これらのなかには、「夜叉ヶ池」の名前の由来として、源義朝の子の夜叉御前の魂魄が宿った池であるとか、夜叉になった女が住み着いた池だとか、池の主が夜叉麿という名であったといったことを語り込んでいるものもある。
 ところで、これらの伝説を眺め渡して気づくのは、もっとも伝説が濃厚に分布しているのが美濃国の安八(あんぱち)郡であって、しかもその地域の伝承では、蛇の嫁となった娘の家を「長者」とか「大地主」と語り、さらにもっと具体的に「安八大夫」とか「安八大官(代官)」という者の家にまつわる伝承として語られているのである。さらには、近江の夜叉ヶ池伝説でさえも、その多くが安八郡の長者にまつわる話であると語っているのである。このことは、夜叉ヶ池伝説の発祥地が美濃国安八郡であったことを物語っていると言えよう。
 では、このあたりの夜叉ヶ池伝説は、どのような話なのだろうか。たとえば、『揖斐川町史』には、次のような話が載っている。

 平安時代のころ、安八郡安次(やすつぐ)というところに住む長者安八大夫は、日照りに苦しんで、自分の娘を嫁にくれてやるから雨を降らせてほしいと、蛇(夜叉ヶ池の主)に頼んだ。雨が降った翌日、蛇は山伏に姿をやつしてやってきて、長者の娘を一人連れて、夜叉ヶ池に帰った。ところが、この蛇には本妻がおり、夫が新しい妻を連れてきたことに怒って白石山に籠もり、そして里帰りする途中の新しい妻の上に八丈もの大岩を落として押し潰そうとした。しかし、岩は現在の場所に止まって成功しなかった。このため本妻はこの岩の下に隠れ住むようになり、そこには今でも深い穴があいている。また、安八大夫の子孫が雨乞いのために、夜叉ヶ池に行くときは、けっしてこの八丈岩の下は通らないという。

 この話では、今庄地区の話とは異なり、雨を降らしてもらった見返りとして娘をすすんで差し出したためだろうか、長者の娘はすすんで蛇の妻となって嫁入りし、池のなかで生活するようになり、蛇を厳しく排除していないのである。しかも、その子孫は、その縁で、雨が降らないときには、先祖が嫁入りした夜叉ヶ池に雨乞いに行っていた、というのである。さらには、「後妻(うわなり)妬み」の話まで入り込んでいるのだ。
 私たちは、この伝説から、もしかして、この伝説の背後には、雨乞いのために娘を生贄(いけにえ)に差し出す、という慣習があったのではないか、雨乞いをする特別な家筋があったのではないか、ということを推測することができるのではなかろうか。
 もっとも、かつて夜叉ヶ池に雨乞いのために生贄を出した、というたしかな記録も伝承も伝えられていない。だが、まことに興味深いことに、民俗学者の高谷重夫氏の調査によれば、右の伝承で語られている「安八大夫」の子孫と称する家が実際にあり、近世には、安八大夫の子孫ということで、安八大夫の書状をもって夜叉ヶ池に赴いて祈祷をすると必ず雨が降ったという。すなわち、右の伝説はこの家にまつわる伝説なのであった。
 それでは、この家は誰の家なのだろうか。この家は岐阜県安八郡神戸(ごうど)町の安次にある石原家であって、「安八太輔由緒申伝之記(あんぱちたすけゆいしょもうしつたえのき)」と題する文書を所蔵し、その文書には神戸町の氏神日吉神社との特別な関係が語られているのである。つまり、中世以降、石原家はこの地域の豪族・長者として名を知られるようになったが、もともとは氏神の神主・司祭者であったらしいことが示唆されているのである。
 こうした家とその伝承の構造は、すでにみた三輪氏や鴨氏の祖をめぐる伝承とほぼ重なっていることがわかるはずである。つまり、「三輪山の神」を「夜叉ヶ池の主」に置き換え、「妻問い型」の婚姻を「嫁入型」の婚姻に、「三輪の司祭者の家筋」を「石原家」に換えることで、夜叉ヶ池伝説は作られているのである。
 こうした美濃側の伝説に照らして、鏡花の『夜叉ヶ池』を読み直すと、「鐘楼守(萩原晃)」が「石原家」であり、「生贄(萩原の妻)」は「安八大夫(もしくはその子孫)の娘」に相当するのかもしれない。
 しかし、鏡花がはたしてこうした美濃側の夜叉ヶ池伝説を知った上で、この作品を作ったのかということになると、疑問が残るだろう。というのは、『夜叉ヶ池』では、雨乞いのための生贄としてだけではなく、洪水を防ぐための生贄という構想になっているからである。むしろ、洪水と生贄という関係に着目すれば、池の主(蛇)との約束を破ったためとか、山の木を伐りすぎて神を怒らせたためとかで洪水が起こったといった内容の、「蛇抜け」の伝承に目を向ける必要があるだろう。
 いずれにしても、『夜叉ヶ池』という作品に私たちが感じる神秘は、池の主が竜神(大蛇)であり、その竜神が「神」の末裔であり、また選ばれた「人」(神の嫁・巫女)の末裔でもあり、しかも洪水や日照りを起こす力をもっている、ということにありそうである。
 私はさらに、こうした伝承や鏡花の作品に、人間と自然との厳しい関係の痕跡を見出すとともに、環境破壊を繰り返す現代人への警鐘も読み取りたいと思っているのだが、それは深読みし過ぎだろうか。

【筆者プロフィール】
小松和彦 KOMATSU Kazuhiko
国際日本文化研究センター所長。専門は文化人類学、民俗学。著書に『妖怪文化入門』(2012年、角川ソフィア文庫)ほか多数。