2018年10月4日

【授業】西悟志について私が知っている二、三の事柄(菅孝行)

 私が、西悟志について具体的に語れるのは、私が審査員をしていた時期の利賀演出家コンクールでの記憶がほとんどである。西悟志という<才能>と出会ったと言えるのは、2002年、第3回の課題戯曲イヨネスコ作『二人で狂う…好きなだけ』の舞台だった。西はこの年、優秀演出家賞を久世直之と分け合っている。コンクールへの参加は3度目だった。まだ東大生だった西たちのグループは、1度目はアラバールの『戦場のピクニック』、2度目は三島由紀夫の『卒塔婆小町』で参加した。この2度の機会では、才能は未だ2分咲きか、3分咲きの、しかし<恐るべき子どもアンファン・テリブル>のオーラがあった。
 演劇評論家の故森秀男は第1回コンクールの総評(演劇人会議機関誌『演劇人』6号)で、西の『戦場のピクニック』を「はじめから『作り物の戦争』という枠組みを設けたが、ザボを女優に演じさせ、終景のダンスをザボとゼボの結婚式に仕立てたのが面白かった」と評価している。また、『卒塔婆小町』について第2回の総評座談会(鈴木忠志・森秀男・山村武善・越光照文・宮城聰、菅、『演劇人』8号)で、当時ク・ナウカを主宰していた現SPAC芸術総監督宮城聰が「三島由紀夫がこだわった……『愛の不可能性』『愛の永遠性』について、ともかくそこだけに狙いを定めて斬り込んだ……のが西君だけだったのではないかと思っています。……西君の『狂気』がかすかながらそこから出た……と感じられたので、僕はそこを評価したい」と述べている。
 3回目、審査員たちの、期待と不安の眼差しのもとに、西の『二人で狂う』は登場する。舞台は、17年間、終わった筈の戦争の始末ができなくて、ずっと銃火が飛び交っている世界の片隅で、男女2人が、やはり17年間、限りなく埒もないことで、姦しく、けたたましく、不毛で荒涼としていて、そのくせどこか笑える罵り合いを続ける。西悟志の演出は、そのペーソスが入り混じった滑稽な罵り合いの速度を倍加させ、台詞と動きをリバースしてまた反復したり、日常会話としての台詞や身振りの意味を粉々に脱臼させようとした。この加速と逆回と反復は、二人の<痴話喧嘩>を、閉塞した時空のなかで、どうしても届かない<外部>にむかってのたうち回る姿として現出させるための方法だった。
 審査の議論(鈴木忠志・森秀男・山村武善・越光照文・宮城聰・原田一樹・菅、『演劇人』11号)の中で、当時のSPAC芸術総監督鈴木忠志は、西がこの舞台で「非常に知的な操作をやった」と評価し、それは長い稽古を必要とする作業で、それによって「稽古の過程で発見された……解釈が、肉体を通して実体化されるという段階へ到達」できたのだと述べている。 
 また当時SPACの芸術局長だった山村武善は、『二人で狂う』という戯曲では、17年間暮らしてきた夫婦の「どのようにもなれる可能性を持っていたのに、このようにしかならなかった」という「相対的現実の絶対性」の前で、言語のぶつかり合いを舞台の上に出現させなくてはならず、それは「『外部』とはどこか遠くにあるのではなく、意味もなく舞い込んできた手榴弾と同じように、ほかならぬここにゴロリとある」ことを提示することだと述べた上で、唯一「この感覚を……垣間見ることができた」のが、西悟志の舞台だったと評価した。
 この時期、「日本・ロシア若手演出家交流プログラム」が行われていて、2002年には久世直之演出の『お国と五平』が、2003年には西悟志演出の『二人で狂う』が、この企画の一環としてモスクワのメイエルホリド・シアターセンターで上演された。私は、『二人で狂う』が上演されたときに随行した。1年を経て舞台は密度を上げ、洗練されたものになった。当時の日記に私は出演した俳優についても「神谷、吉村、進境著しい」などとメモしている。 
 西悟志を中心とした演劇集団は、当然、この延長で、更なる飛躍を遂げてゆくものと、この間のプロセスに同伴した者たちは誰しもが考えた。しかし、2005年、彼らの集団小鳥クロックワークが解散したという風聞に接した。以後、演出家西悟志の消息を聞かなくなる。近年になって、再起の噂は聞いたが、残念ながら舞台を見ていない。
 このたびSPACでその西悟志が演出するという。演出家コンクール受賞作と同じ作家イヨネスコの『授業』だという。西ももはや四十路半ばである。どんな成熟した姿を見せてくれるのか。それとも、10数年前にそうであったように永遠の<恐るべき子どもアンファン・テリブル>として再登場するのか。どちらであってもいいように私には思える。

【筆者プロフィール】
菅 孝行 KAN Takayuki
1939年生まれ、元SPAC文芸部(2003~10)。演劇人会議評議員。著書に『死せる「芸術」=「新劇」に寄す』『解体する演劇』『戦後演劇』『想像力の社会史』『戦う演劇人』。編著に『佐野碩 人と仕事』。


2018年7月16日

【ROMEO&JULIETS】劇的舞踊・新作~『ROMEO&JULIETS』に向けて(立木燁子)

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 日本初の公立劇場専属舞踊団として意欲的な活動を続ける新潟市りゅーとぴあNoism1。芸術監督の金森穣は、現代バレエの巨匠モーリス・ベジャールの下で学び、その後イリ・キリアン率いるNDTやフランスのリヨン国立バレエ団などヨーロッパの名門で活躍をしてきた舞踊界の俊英である。バレエとコンテンポラリー・ダンスを見据えた広い視野で総合芸術としてのダンスの可能性を探ってきた。洗練された作風で高い評価を受けてきたが、ここ数年、抽象性へ偏りがちのコンテンポラリー・ダンスの風潮に一石を投ずるかの如く、演劇とダンスの境界を越えた新たな挑戦を続けている。
 2010年から継続的に発表している劇的舞踊シリーズ。物語の筋を描くのではなく、「劇的」とは何かという舞台芸術の原点に光をあて、物語の底に潜む“劇的なるもの”の本質に迫ろうとする。舞踊一筋に、恵まれた環境でダンスの王道を歩いてきた金森が演劇表現へと関心を深めるのには一つの刺激的な出会いがあった。日本に本格的に帰国し、りゅーとぴあの芸術監督(舞踊部門)に就任した時期、鈴木忠志の舞台と演劇理論に出会い触発を受けたのだ。日本の現代演劇を牽引してきた鈴木の演劇理論と俳優訓練法―西洋の舞踊理論とは異なり、重心を低くとり、足裏で床面を捉えてすり足で移動するスズキメソッドにも興味を抱いた。鈴木の代表作のひとつに、テキスト中心の従来の演劇に異を唱えた『劇的なるものをめぐってⅡ――白石加代子ショウ』(1970)がある。演劇の現場性=俳優の肉体すなわち身体性を強調し、多様な言葉と対峙させた鈴木の演劇に共鳴するものを覚えた。「今・ここ」で生成される舞踊という磁場に、奥行を生み出す言葉と身体を多義的、重層的に交錯させることでスケールの大きな世界を開示することができるのではないかと考えたのだ。
 2010年『ホフマン物語』、2014年『カルメン』と劇的舞踊シリーズの創作が続けられるが、なかでも鮮烈な印象を残したのが、第三弾『ラ・バヤデール-幻の国』(2016)である。マリウス・プティパの古典バレエ『ラ・バヤデール』の世界を下敷きに現代史を彷彿させる物語を描き出した意欲作であった。オリジナルの翻案原稿を平田オリザが担当し、古代インドのカースト制を背景とした悲恋物語を現代史の問題として大胆に読み替えて秀逸だった。老人の記憶を辿るように描かれるのは、政治、民族、宗教などの対立を経て崩壊していく“幻の国”の物語である。演出を金森穣、振り付けをNoism1が担当し、Noismのダンサー達に加え、SPACの気鋭俳優達が参加した。
 美しい動きで魅了する井関佐和子がミラン、彼女を愛する戦士バートルを中川賢が踊り、SPACの俳優達がスリリングに絡まる。草原の国マランシュを巡る筋の流れはやや複雑だが、言葉として発せられない「状況」を断片的な言葉と強度のある身体が鋭く共振して描きだし、記憶と歴史を喚起する重層的な物語を浮上させた。音楽はミンクスの楽曲と笠松泰洋のオリジナル曲で構成、空間を建築家・田根剛、衣裳を宮前義之(ISSEY MIYAKE)ら隙のない布陣で刺激的な舞台に仕上げていた。
 実は、金森には劇的舞踊以前に小規模の見世物小屋シリーズと呼ばれる一連の作品があり、なかでチェーホフの短編『黒衣の僧』『六号病室』を下敷きにした『Nameless Poison~黒衣の僧』という秀作も思い出される。高度電脳社会が生み出す「意識」の肥大化と身体感の希薄化。生身の他者との関係性を失いつつある現代人の抱える深い孤独を浮き上がらせた。黒衣の僧とは不安や恐れ、虚無など人間の心が生み出す幻影である。日本の伝統演劇や鈴木の演技術とも響きあう抑揚の強い身振りや舞踊語彙も用いられていた。本作はモスクワのチェーホフ国際演劇祭との共同制作で創作され、ロシアでも上演された。
 創立15周年を迎えるNoism1の新作『ROMEO&JULIETS』は舞踊と演劇の境界を越えて新たな作品像を生み出す。よく知られたシェイクスピアの悲劇がどのような形で翻案されるのか。今回は、演出・振付を担当する金森自身がオリジナルの台本を執筆、舞台を病院に設定して現代社会の問題を追究する。そこでは、恋愛ドラマにとどまらず、精神疾患的な現代人気質、監視社会、医療信仰から死生観まで、重層的なパースペクティブで現代の問題が分析されている。“真のライバル”と金森が敬愛する鈴木忠志はかつて、病院を舞台に『リア王』の世界を鮮烈に描き出した。Noismの舞踊家11名にSPACの気鋭俳優達8名が出演する。鍛えられた出演者の身体が金森演出に応え、現代社会を照射するどのような世界を現出させるか、期待される。

【筆者プロフィール】
立木燁子 TACHIKI Akiko
舞踊評論家・ジャーナリスト。寄稿媒体:『シアターアーツ』などの舞台芸術専門誌のほか一般紙誌。読売新聞で舞踊評を担当。ドイツの国際的舞踊専門誌『tanz』の日本のコレスポンデント。


2018年6月1日

【ふじのくに⇔せかい演劇祭2018】寄稿一覧

Filed under: 2018

「ふじのくに⇔せかい演劇祭2018」で上演された作品の寄稿は、
演劇祭のウェブサイトにてご覧いただけます。

※リンク先のページの「寄稿」ボタンをクリックしてください。

【マハーバーラタ ~ナラ王の冒険~】
『マハーバーラタ』空間から場所へ (四方田犬彦)

【寿歌】
瓦礫の荒野と蛍の光 ――北村想『寿歌』における聖性 (安住恭子)

【民衆の敵】
オスターマイアーの仕掛けたもの (新野守広)

【夢と錯乱】
ゲオルク・トラークルの散文詩「夢と錯乱」について (中村朝子)

【リチャード三世 ~道化たちの醒めない悪夢~】
道化師断章 (大島幹雄)

【シミュレイクラム/私の幻影】
異文化の出合うところにたち顕れる世界 (山野博大)

【ジャック・チャールズvs王冠】
ジャック・チャールズが体現するもの (佐和田敬司)

【大女優になるのに必要なのは偉大な台本と成功する意志だけ】
見られていなくても踊ることをやめない (神里雄大)


2018年2月21日

【オセロー ~夢幻の愛~】演劇の地平――世阿弥からの挑戦(竹内晶子)

 「能って何?」――この問に、端的に答えればこうなります。「中世日本に生まれ、現代まで続く歌舞劇である」、と。
 もう少し言葉を尽くすなら、こうも付け加えられるでしょう。「西洋演劇の常識を、平気な顔でくつがえしてしまう演劇形態」、と。
 たとえば、キャラクターの台詞のみからなるもの…という西洋演劇の定義に反して、能は、「とて失せにけり(と言って消えてしまった)」などのナレーションまで舞台で発してしまいます。さらに能では、一人のキャラクターの台詞が、そのキャラクターを演じる役者だけでなく、地謡や、ときには別のキャラクターを演じる役者の口からも発せられます。そもそも地謡という合唱隊自体が、複数のキャラクターの台詞を発するものですし、加えてナレーションまでも担当してしまう。その結果、「誰のセリフなのか特定できない」言葉、「一つの身体に還元できない言葉」が、能においては往々にして現れます。 Read the rest of this entry »


2018年1月21日

【しんしゃく源氏物語】夢こそが現実(島内景二)

 『源氏物語』の面白さは、ライトノベルとも近い。四百人を超える登場人物たちは、そろいもそろって、性格が際立っている。つまり、極端なまでに「キャラ立ち」している。中でも、最高にキャラが立っているのが、末摘花である。「赤い鼻」と「貧困」のレッテルは、彼女のキャラを不朽のものとした。
 絶世の美貌を誇る光源氏(源氏の君)と、異貌の末摘花(姫)のカップルは、いかにもミスマッチである。しかし、処世術に乏しく、頑固一徹に信念を貫く姫の生き方は、不思議なまでに、多くの女性の心を引きつける。
 明治時代の樋口一葉も、その一人である。父親の没後は、半井桃水(なからい・とうすい)というハンサムな小説家への思いを胸に、一葉は貧しさと戦いながら、文学への夢を追った。一葉は、自分自身の生き方を、末摘花と重ね合わせていた。 Read the rest of this entry »


2017年11月7日

【変身】パフォーマーとしての語り手(粉川哲夫)

 カフカの小説には〝主人公〟が3人いる。ひとりは普通の意味での主人公、ふたり目は語り手、そして3人目は読者である。この3者がたがいの距離を微妙に変えながら展開するのがカフカの小説世界である。
 語り手が〝主人公〟である以上、この語り手は、読者にむかって客観的な報告をするとはかぎらない。通常、語り手は、〝ありのまま〟を語り、読者をからかったり、韜晦(とうかい)したりはしないことになっている。『変身』の語り手が、「朝、胸苦しい夢から目をさますと、グレゴール・ザムザは、ベッドの中で、途方もない1匹の毒虫に姿を変えてしまっていた」と語れば、読者は、それを〝事実〟として受け取る。そういう暗黙の了解が前提されている。 Read the rest of this entry »


2017年10月7日

【病は気から】演じる喜び=生きる喜び!? モリエール&シャルパンティエ『病は気から』について(秋山伸子)

 『病は気から』はモリエール最後の作品である。アルガン役を演じたモリエールは、4回目の公演を終えた後、自宅で息を引き取った。自分は病気だと信じ込む男の役を演じたモリエール自身が病に苦しんでいたという皮肉な状況にあったことが信じがたいほどに、この作品には病を跳ね返すほどの生命力が、生きる喜びがあふれている。
 モリエール作品では、多くの人物が「演じる」喜びに身を委ねる。『町人貴族』においては、貴族に憧れる主人公が自ら貴族の役を演じることで、深い満足感を得る。アルガンもまた、自ら医者に扮し、その役を演じることで病の呪縛から解放される。音楽とダンスの力がみなぎる儀式のうちにアルガンは医者の学位を授けられ、舞台全体が言い知れぬ至福感に包まれて芝居は終わる。 Read the rest of this entry »


2017年4月25日

【ふじのくに⇔せかい演劇祭2017】寄稿一覧

Filed under: 2017

「ふじのくに⇔せかい演劇祭2017」で上演された作品の寄稿は、
演劇祭のウェブサイトにてご覧いただけます。

※リンク先のページの「寄稿」ボタンをクリックしてください。

【アンティゴネ ~時を超える送り火~】
アンティゴネの時 (大宮勘一郎)

【MOON】
馴染む、居つく、住まう ――タニノクロウの演劇と『MOON』 (日比野啓)

【ウェルテル!】
悩みなき人? ――舞台作品『ウェルテル!』についての覚え書き (平田栄一朗)

【ダマスカス While I Was Waiting】
小さな物語と大きな物語の溝 (岡崎弘樹)

【腹話術師たち、口角泡を飛ばす】
表層の下に闇がにじんでくる 「人形劇」を遥かに超えたジゼル・ヴィエンヌの世界 (石井達朗)

【六月物語】
ピッポ・デルボーノにおける引用の意味 (芦沢みどり)


2017年2月21日

【真夏の夜の夢】『野田版 真夏の夜の夢』——「知られざる森」の「知られざる物語」(田中綾乃)

 シェイクスピアの作品は数多あれど、その中でも『真夏の夜の夢』と聞くと、心躍るものがある。第一に、タイトルにもあるように、この作品が<現実>ではなく、<夢>の物語であるということ。第二に、作品の舞台であるアテネ近郊の森で活躍する悪戯好きの妖精パックの存在。第三に、この物語が二組の男女の恋の行方を描いていること。そして、幻想的な夜の森の舞台に散りばめられた美しい詩的な台詞と共に、妖精と人間たちが織りなす真夏の夜の夢。何ともロマンティックでファンタジーに溢れている。
 この作品が執筆されたのは1590年代の半ば。17世紀を目前にしたヨーロッパでは、自然科学の発展に伴い、理性に重きを置いた近代が幕を開けようとしていた。よく言われるように、『ハムレット』(1600)には、デカルトの近代的自我を先取りした悩める主人公が登場する。“万の心を持つシェイクスピア”は、人間の心に潜む欲望や野心、嫉妬からの悲劇を描写するが、そのような中で『真夏の夜の夢』は、妖精と人間との戯れという前近代的な雰囲気を色濃く残す宮廷喜劇として描かれたのである。 Read the rest of this entry »


2017年1月22日

【冬物語】 「奇跡」の軌跡・シェイクスピアの『冬物語』

 シェイクスピアのロマンス劇とは、晩年(といっても40代)に執筆された4作品『ペリクリーズ』、『シンベリン』、『冬物語』、『テンペスト』を指すが、これらの作品は当時から「ロマンス劇」と呼ばれていたわけではない。シェイクスピアの没後1623年に出版された初のシェイクスピア全集ファースト・フォリオには、歴史劇、喜劇、悲劇の3つの区分があるのみで、『冬物語』と『テンペスト』は喜劇に、『シンベリン』は悲劇に分類されている(『ペリクリーズ』はファースト・フォリオ未収載)。1608年頃に流行した「悲喜劇」(tragicomedy:例えばボーモントとフレッチャー共作の『フィラスター』など)のスタイルでシェイクスピアが執筆したこれら4作品を、現在ではロマンス劇と称している。
 「悲喜劇」はその名の通り、喜劇的な要素と悲劇的な要素が混在した作品である。そもそも、後世の古典主義者たちから「統一を欠いている」と批判されたシェイクスピアである。喜劇に悲劇的な場面を、悲劇に喜劇的な場面を混在させるなどお手のもので、ロマンス劇にも人生を織りなす悲劇と喜劇を思う存分盛り込んでいる。ロマンス劇では家族の別離と再会、罪の赦し、奇跡などが主なモチーフとなるが、物語の展開に飛躍があり、どこかおとぎ話的で古風な印象が漂う。  Read the rest of this entry »