2018年2月21日

【オセロー ~夢幻の愛~】演劇の地平――世阿弥からの挑戦(竹内晶子)

 「能って何?」――この問に、端的に答えればこうなります。「中世日本に生まれ、現代まで続く歌舞劇である」、と。
 もう少し言葉を尽くすなら、こうも付け加えられるでしょう。「西洋演劇の常識を、平気な顔でくつがえしてしまう演劇形態」、と。
 たとえば、キャラクターの台詞のみからなるもの…という西洋演劇の定義に反して、能は、「とて失せにけり(と言って消えてしまった)」などのナレーションまで舞台で発してしまいます。さらに能では、一人のキャラクターの台詞が、そのキャラクターを演じる役者だけでなく、地謡や、ときには別のキャラクターを演じる役者の口からも発せられます。そもそも地謡という合唱隊自体が、複数のキャラクターの台詞を発するものですし、加えてナレーションまでも担当してしまう。その結果、「誰のセリフなのか特定できない」言葉、「一つの身体に還元できない言葉」が、能においては往々にして現れます。 Read the rest of this entry »


2018年1月21日

【しんしゃく源氏物語】夢こそが現実(島内景二)

 『源氏物語』の面白さは、ライトノベルとも近い。四百人を超える登場人物たちは、そろいもそろって、性格が際立っている。つまり、極端なまでに「キャラ立ち」している。中でも、最高にキャラが立っているのが、末摘花である。「赤い鼻」と「貧困」のレッテルは、彼女のキャラを不朽のものとした。
 絶世の美貌を誇る光源氏(源氏の君)と、異貌の末摘花(姫)のカップルは、いかにもミスマッチである。しかし、処世術に乏しく、頑固一徹に信念を貫く姫の生き方は、不思議なまでに、多くの女性の心を引きつける。
 明治時代の樋口一葉も、その一人である。父親の没後は、半井桃水(なからい・とうすい)というハンサムな小説家への思いを胸に、一葉は貧しさと戦いながら、文学への夢を追った。一葉は、自分自身の生き方を、末摘花と重ね合わせていた。 Read the rest of this entry »


2017年11月7日

【変身】パフォーマーとしての語り手(粉川哲夫)

 カフカの小説には〝主人公〟が3人いる。ひとりは普通の意味での主人公、ふたり目は語り手、そして3人目は読者である。この3者がたがいの距離を微妙に変えながら展開するのがカフカの小説世界である。
 語り手が〝主人公〟である以上、この語り手は、読者にむかって客観的な報告をするとはかぎらない。通常、語り手は、〝ありのまま〟を語り、読者をからかったり、韜晦(とうかい)したりはしないことになっている。『変身』の語り手が、「朝、胸苦しい夢から目をさますと、グレゴール・ザムザは、ベッドの中で、途方もない1匹の毒虫に姿を変えてしまっていた」と語れば、読者は、それを〝事実〟として受け取る。そういう暗黙の了解が前提されている。 Read the rest of this entry »


2017年10月7日

【病は気から】演じる喜び=生きる喜び!? モリエール&シャルパンティエ『病は気から』について(秋山伸子)

 『病は気から』はモリエール最後の作品である。アルガン役を演じたモリエールは、4回目の公演を終えた後、自宅で息を引き取った。自分は病気だと信じ込む男の役を演じたモリエール自身が病に苦しんでいたという皮肉な状況にあったことが信じがたいほどに、この作品には病を跳ね返すほどの生命力が、生きる喜びがあふれている。
 モリエール作品では、多くの人物が「演じる」喜びに身を委ねる。『町人貴族』においては、貴族に憧れる主人公が自ら貴族の役を演じることで、深い満足感を得る。アルガンもまた、自ら医者に扮し、その役を演じることで病の呪縛から解放される。音楽とダンスの力がみなぎる儀式のうちにアルガンは医者の学位を授けられ、舞台全体が言い知れぬ至福感に包まれて芝居は終わる。 Read the rest of this entry »