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2014年7月25日

【アヴィニョン・レポート】 『室内』当日パンフレット掲載インタビュ― 

アヴィニョン演劇祭『室内』公演の会場で配布されているパンフレット掲載の、
クロード・レジ氏インタビュ―も通訳の浅井さんに翻訳していただきましたので、
ご紹介いたします。

アヴィニョン演劇祭『室内』パンフレット
 
 
『室内』
クロード・レジ氏 インタビュー

すでに演出された作品を再び扱うのは初めてですね。なぜ、日本人俳優との仕事を受けましたか?

C.R. 新たなテキストを使っての経験を試みる方が好きなので、そうですね、初めてです。今回の制作過程は今までとは違い、静岡県舞台芸術センターの芸術総監督である宮城聰氏から日本人俳優とクリエーションをしてほしいという依頼があり、それをお請けして始まりました。
宮城聰氏の演出の仕方は私のとは全く違いますが、何度も私の作品をフランスでご覧になっているのを知っていましたので、その違いに興味を持っていらっしゃるのでは、と思いました。でも、とにかく私は冒険好きですから、まずメーテルリンクの作品を使って時間をかけてオーディションをし、俳優を自分で選びたいと願い出ました。

何故、この作品を選びましたか?

C.R. 初演は1985年で時間も随分と経っていますので、再びクリエーションを行なうことが可能でした。この戯曲に特に感銘を受ける理由のひとつはもちろん子供の死がテーマだからですが、もうひとつは私の方法論をもっと掘り下げる可能性を与えてくれるからです。声とイメージを分離して行なう探求をもっと突き詰めることができますし、言葉の狭間に隠されている見えないものを浮上させたいという私の熱望をも満たしてくれます。日本でも文楽という人形演劇界では17世紀からこのような探求がされていたように思います。ですから、『室内』に「マリオネットのためのドラマ(悲劇*)」とサブタイトルをつけたモーリス・メーテルリンクを日本人俳優に対峙させるのも面白いのではないかと思いました。あまり「人間的」に演技をしないようにし、つまり、(登場人物たちを*)体現しすぎず、センチメンタルになりすぎず、現実主義は完全に排除し、能動的とは言いきれない状態で行なう。
透明であるが故に通り過ぎていくものを発見できるよう、ある意味で受動態であることを寄りどころとする演技を求めました。また、日本にはもうひとつの伝統芸能、能があります。死せる者と生ける者の境目をくっきりと付けておらず、舞台に登場する俳優は死者の国からやってくるとも言います。『室内』を提案するのにいい口実がいくつもあったのです。

少女の死がメーテルリンクの戯曲の中心にありますね。

C.R. はい。でも、核にあるのは、舞台上にいる人間の一部はその娘が死んでしまったことを知っているけれど、家族は同じように舞台上にいてもまだ知らないということです。そこには意識と無意識が同時に存在しています。ジークムント・フロイトの思想や研究の基礎のひとつにこの同時性があるように思います。私が興味を持っていたのは、言葉を発し、会話し、語っている俳優グループと、完全なる沈黙の中で動き、生きている俳優のグループを対立させることでした。その対立においてメーテルリンクが関心を持っていたのは悲劇の「予感」だと言っています。知らないうちに気づいている。閉ざされた家族の世界にさえ存在しうる予感。

家族は家の中にいて、生活している(生きている*)様子が窓から見える、とト書きに書かれています。ト書き通りの舞台装置ですか?

C.R. いいえ。今回の芝居では、照明だけで空間を区切っています。テキスト自体が現実主義的ではないので、見た目の現実主義を排除することによって、メーテルリンクが起こした改革をもう少しだけ押し進められるような気がしました。演出家にとって大切なのは直感に身を委ね、感じるままにテキストを扱うことだと思っています。

貴方にとってメーテルリンクの文体とは?沈黙とともにあるエクリチュールでしょうか?

C.R. 音楽性のあるエクリチュールですね。彼のいくつかの作品のために描かれた楽譜がよく冗語的になっているのはそのせいです。リズム、ときにはアレクサンドラン(12 音節綴*)、ときにはシェイクスピアのようなデカシラブ(10音節綴*)を混合させたエクリチュールなのです。マラルメも言っているように、言葉は発せられているがどちらかというと示唆されています。とても神秘的な文章もあり、例えば、ある登場人物が傍にいる娘達について次のように言っています。
「まるであの子達は知らないうちにお祈りしているみたい。魂の声を聞いているみたい・・・」
このような文章には、演技も解釈も無限の可能性があり、我々を夢の世界へ連れていってくれます。沈黙はメーテルリンクの作品では最も重要な要素です。沈黙をつくらない愛人たちは真に理解しあっていない、とも言っています。我々は沈黙によって人間存在の核心に触れることができるのです。
激昂と騒音が常にあふれているこの世で、ゆっくりと沈黙の中で作業をすることは秩序を覆すような行為になってしまったように思えます。

でも、とても現実主義的なアクションがありませんか?

C.R. はい、でもメーテルリンクは現実主義からわざと方向をそらせています。例えば、娘の屍を担いでやってくる一行が見える箇所でも、屍は登場しません。観客が想像力を作動させるよう煽動しているのです。実際の描写はなく、テキストで示唆しイメージを想像させ、観客の想像界を支えにして芝居が構築されていくのです。

メーテルリンクは彼の演劇スタイルを表現するのに「日常の悲劇」という言葉を創りましたね。

C.R. つまり、舞台で悲劇を表現するには、何も起こっていないようにみえる静かな宵にいるところを設定するだけで十分だ、と。メーテルリンクは『室内』でまだ娘が死んでしまったことを知らない家族についてこう書いています。「誰かが立ち上がったり、歩いたり、身振りをしたりする時には、距離の遠さや光の加減、窓にかかるおぼろげなヴェールのために、重々しく、ゆっくりとした、貴重なしぐさのように見えて、あたかも霊的な存在のしぐさであるかのようである。」俳優の演技は作者が明確に書いているのです。それ以上何も加えることはありません。その指示に従うまでです。

マルトとマリーと名付けられた登場人物がいます。新約聖書にある、キリストによって甦ったラザロの姉たちと同じ名前ですね。そしてもう一人は「よそ者」と名付けられています。偶然でしょうか?

C.R. 違うでしょう。メーテルリンクはラザロについてのテキストを書いていますが、蘇生した人間がどのようにして日常生活に戻っていくのかという点に関心を寄せていました。よそ者に関しては、彼はどこにいても何に対してもよそ者であると言えます。我々と同じ世界の者だが、もしかすると別の世界から来ているのかもしれない。認識もあれば、我々にない知識も持っていますし、彼は秘密の世界と繋がっています。そのよそ者である彼が屍を見つけ、川岸に引き上げます。彼は死と生き生きとした関係性を持っているようです。

(ジャン・ピエール・ペリエ)

2014 年 7 月アヴィニョン・フェスティバル 当日配布パンフレット

*翻訳者注
(翻訳 浅井宏美)

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◎『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら

2014年7月24日

【アヴィニョン・レポート】 La Terrasse紙に『室内』記事

フランスのLa Terrasse新聞に掲載の、
クロード・レジ氏インタビューをご紹介します。

La Terrasse掲載『室内』レジ氏インタビュ―

翻訳は、昨年の静岡での稽古からずっとご一緒いただき、
レジさんと俳優のアーティスティックな共同作業を支えてくださっている
通訳の浅井宏美さんです。

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室内
 
ジェラール・フィリップ劇場(サンドニ県)の初演から30年弱。クロード・レジがモーリス・メーテルリンクの戯曲に立ち戻った。静岡県舞台芸術センターの俳優たちを率いて、生と死の境界を新たに探検。
 
静岡の劇場から日本でのクリエーションのオファーがあった時、何故『室内』を選択しましたか?
C.R. 私は無意識というものを信じており、直感でこの戯曲を提案しました。その後に、『室内』には二つの空間が存在すると気づきました。言葉の空間と無声のイメージ空間です。この二空間の対立は文楽芸能に通じるものがあります。本来であればすでに演出した作品を再び扱うことはないのですが、この戯曲を選んだのはきっとそのせいでしょう。でも、日本語ですので、とても違ったものになりました。耳で聞いているだけでも違うでしょう。それから、メーテルリンクの作品全てに共通していますが、『室内』には沈黙が多く含まれています。そこで、私が言語だと信じているもの(つまり沈黙のことですが)は国際言語であり、日本人俳優たちと分かち合えると思ったのです。テキストの延長線上にある様々なものでそういった沈黙を共に満たしていくことができる、と。

他の作品同様、『室内』も死に関する考察ですが、なぜ常にこのテーマを扱うのですか?
C.R. 死について考えずに、また生の均衡を保っている死を考慮せずして、生についての正当な見解は持てないと思うのです。納得のいく生き方もできないでしょう。生きるという概念(というと、大概が幸せの概念に結びつけますが)だけを念頭に置いて全力で、生きるためだけに生きている人は間違いを犯しています。とても大事なのは二重考察をして物事をバランスよく配分し直すことでしょう。つまり、生に関する考察と死に関する考察の両方が必要であり、片一方だけでは成立しないと思うのです。

確かにその二重考察は戯曲において二段階の意識によって表現されていますね・・・
C.R. そこに『室内』の面白みがあるようです。少女の溺死を知っている登場人物達のグループとまだ知らずにいる家族達がいます。死の知らせが告知される瞬間まで時間が引き延ばされていて、ずっと待たされているような状態です。その死を知っている登場人物もいれば、まだ知らされていない人物もいるので、意識と無意識の明白な関係性も見えてきます。私はその境界の脆さに興味を引かれます。境界線が二つの世界を隔てているのですが、その二つの世界は常に交流しており境界線上を行き来しています。

既知の向こう側へ行こうと試みて行き来しているわけですね・・・
C.R. そうです。それどころか、理解しうる限界の向こう側へまで行こうとしています。言ってみれば、表現もできないような秘密の領域を開拓しようと試みているのです。もっと的確に言うと、我々は無意識の領域に関しては全く知識がないわけですが、理解しえないようなことを、おそらく無意識の領域に触れる何かを他者へ移行させようとしているのです。我々の内部には、普段は全く見えないけれど、時々姿を現す暗く漠然とした領域があることは確かに想像できます。その領域は、例えば、特にアーティストと呼ばれる人達の作業を通してみることができます。アーティストというよりはクリエーターと呼ぶ方が好ましいですね、想像力を駆使して作品を創る人達ですから。その想像力を働かせられる場にとどまることが大切なのです。そのためには直感のようなものを利用して知識をできるだけ結びつけなければなりません。でも、実はその知識というものは我々の思い込みであり、確実に存在しているけれど不可知の領域にあるものなのです。

1985年と今日の演出の違いは?
C.R. 俳優からくる違いが一番大きいでしょう。30年前に共に芝居を創った俳優たちのパーソナリティーにとても愛情を持っていました。以来、当然のことながら、私の中で戯曲が熟し、進展しました。今回の日本版が、ジェラール・フィリップ劇場で公演したときよりも重くないといいのですが。夢の中でこの出来事が起こっているかのように俳優たちが体験できるよう計らってきました。夢の透明感。それを再び見いだすことに執着しました。

その透明感は1985年版にはなかったのですか?
C.R. あまり。当時は劇場(舞台)の造りを利用しました。家族は舞台上(プロセニアム・アーチの奥側)に、セリフのある登場人物たちは幕前にいました。今回は、家族と外界との境界は繊細な光のみで創られています。死のような主題を扱う場合は常に悲しみに陥らないように気をつけなければなりません。特に追悼の儀式になってしまってはいけません。30年前の公演は少しその傾向があったかもしれません。今回はその点に関しては冷静に捉え直すことができたように思います。

(マニュエル・ピオラ・ソレマ)
テラス222号  2014年7月版
                     
(翻訳 浅井宏美)

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◎『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら

『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート(5)

『マハーバーラタ』に続き、『室内』もアヴィニョンにて、
順調に公演を続けております。

今回のレポートはマリー役を演じる布施安寿香からです。

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7/22

みなさまこんにちは。SPAC俳優部の布施安寿香です。
ただいま『室内』上演のためアヴィニョンにきております。

アヴィニョンに来るのはこれで二回目です。
一度目は三年前、その前年に出演したフレデリック・フィスバックさんの「令嬢ジュリー」が、
フランス人の俳優ヴァージョンで上演されることになり、個人的に観劇に来ました。
そのときにアヴィニョンのお祭りの空気に感動して、インやオフの芝居を見ながら
「いつかはここで芝居をやるぞ」と心密かに野望を抱いたのですが、
まさか三年後に実現するなんて夢にも思いませんでした…!

出演する側になった今年は残念ながら
観劇やアヴィニョンの空気を味わう気持ちの余裕がないのですが、
やっぱり俳優なので、自分が出演する芝居のことを
ずっと考えていられるのがとても幸せで、
一度目のときよりも充実した気持ちです。
特に今年はアンテルミッタンのストや悪天候などで、騒然としていて、
だからこそ、私たちの『室内』という作品を静かに穏やかにやることが
とても大事なのではと思って日々の作品につとめております。

さて、レジさんとも長年一緒にお仕事をされていた演出家のダニエル・ジャンヌトーさんが、
「照明オペレーターはもう一人の俳優だ」とおっしゃっていたことがありました。
『室内』においてもとても重要な要素の一つが照明です。
そんなわけで今回はもう一人の俳優、照明オペレーターのピエールさんを紹介したいと思います。

Pierre_et Asuka

左側がピエールさん。(わかりますね…笑)

ピエールさんはウィーンから始まった再演のツアーからご一緒いただいてます。
静岡初演のときはレミさんという方で、
照明のデザインはレミさんがされてピエールさんが引継ぎました。

実は、再演になってから私たちの作品はおよそ15分ほど短くなっています。
セリフも動作も一切カットはしてないのですが…。
『室内』の照明はとてもとてもゆっくり変化していきます。
秒単位ではなく分単位でゆっくりと変わっていきます。
ですので、静岡での照明プランでは、照明の変化とお芝居の流れがだいぶ違っていて、
途中合流のピエールさんはとても苦労されたと思います。
でもそんなそぶりを私たちに見せることなく、
稽古の中で私たちに寄り添いながら見事に溶け込んで下さいました。

とても微かな変化ですが、いつもそのあかりに助けられています。
この作品はとても静かなので、照明のつきはじめや変化の間に球が鳴る音や、
稽古中はピエールさんがプランを打ち込んでいる音も聞こえたりして、
視覚だけでなく音でも一緒にいます。

私が最近1番好きなシーンは、
最後、私たちが去っていくときに、
ゆっくりと私たちがシルエットになっていくように
手前の明かりが消えて奥が明るくなっていくのですが、
その間はジジーと音がしていて、変わり切ったあとに、
おとずれる沈黙がとても好きです。

今日もその沈黙を観客の皆さんと共有できることを願いながら
いってきたいと思います。

最後になりますが、フレデリック、ダニエル、レジさん、
(それからこのフェスティバルディレクターでもあるオリビエ・ピィさん)といった
素晴らしいフランスとのご縁がこれからも続いていくように誠心誠意、
この作品をパリまで続けていきたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました!!

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*『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート バックナンバー (1) (2) (3) (4)
*『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら

2014年7月22日

【アヴィニョン・レポート】リベラシオンに『室内』記事!

ル・モンドに引き続き、リベラシオンに掲載された『室内』公演の記事をSPACの会会員の片山幹生さまが翻訳してくださいました!
ありがとうございます!

※元文はこちら
※ル・モンドに掲載された『室内』の記事はこちら

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『室内』身体に開かれた窓
『リベラシオン』2014年7月19日 11時56分
ルネ・ソリス

[写真キャプション]『室内』使者たちが子供の溺死を伝えにやって来る(写真撮影:三浦興一)

アヴィニョン
クロード・レジによるメーテルリンクの上演。夢の縁にあるドラマの中で。

 メーテルリンク+クロード・レジ+日本:その結果が宗教的な儀式に極めて近いものになったことは驚くにはあたらない。この作品はウィーン・フェスティヴァルで上演された後、この五月にブリュッセルで上演された。この後のヨーロッパ・ツアーでは、パリの秋のフェスティバルで上演されることになっている。ブリュッセルの上演では、客席に入る前、待合室にいる段階で、観客は沈黙を要求された。熱心な観客たちによってこれとはまた別の指令も伝達された。劇場内の薄暗がりのなかに座った後は、お尻をもぞもぞさせてはならないし、咳払いも禁止。「シーッ」といらだった調子で注意されるなんてもってのほか。レジの作品の観客には、こうした注意が行き過ぎだと思うものは誰もいないだろう。

 クロード・レジは1985年にフランス語でメーテルリンクのこの作品を上演しているが、今回の日本語版の上演では、作品の構想とその瞑想的雰囲気はさらに遠くの地点まで押し進められていた。日本語版『室内』は昨年、日本の静岡の山中の地下にある小さな劇場で初演された。

 一面に広がる砂地。もともと「マリオネットのためのドラマ」と作者に指定されている『室内』は、一軒の家の窓の前を中心に展開する。悲しい知らせを伝えるためにやって来た老人とよそ者の男は、窓の前でたたずみ、ノックするのをためらっている。室内では、家族が無言のまま、それぞれ自分の仕事にいそしんでいる。「あの人たちはなにも気づいてはいませんね。それに話もしていない」とよそ者の男が話す。レジの演出では、舞台上には壁も、窓も、家具もない。そこには砂地が広がっているだけだ。その砂地の中央に子供がひとり眠っている。静謐であると同時に重苦しい情景。使者たちはこの家族の娘の一人が溺死したことを伝えにやって来た。死んだのは眠っている幼い男の子の姉だ。横たわるその男の子の姿もまた死を暗示している。男の子が呼吸したり、ときおり動いたりするのを見て、われわれは安堵の胸をなで下ろす。

 暗い照明、緩慢でくぐもった発声。夢の縁で展開するこの演劇のなかで常に必要とされるのは、揺らぐための時間である。L’Intérieur(「内部・内側」を意味する)というタイトルは、邦題が示すような家の内部だけでなく、観客それぞれの内面も意味している。観客は自身の内面に沈潜し、瞑想の状態に身を置くように促される。簡潔で引き締まったメーテルリンクのテクストから、クロード・レジは彼が余分だと判断したものをさらに削り取った。字幕からも余分な言葉はそぎ落とされ、極限まで切り詰められる。それはあたかも白い画面に映し出されるこの黒い文字列(この2つの色がこの舞台の基調をなす色なのだが)もまた消え去ることが運命づけられているかのようだ……

 避けることができないことがら。クロード・レジは演劇における沈黙の重要性を訴え続けている。彼はサルトルのこの言葉をよく引き合いに出す。「言葉は、言葉そのものよりもはるかに広大な、語られないことがらを解放することができる」。 この意味合いにおいて、レジは完全に彼自身が目指す地点に到達している。語られてはいないが、推察されうることがらこそ、核心となる部分である。日本語の響きは、それぞれが理解可能なある言語が作り出す未知のメロディーとなる。この響きのなかで悲報を告げるのを先送りすることも、避けることができないことがらを受け入れるもっともシンプルな方法となる。終演後、子供が起き上がり、彼の仲間たちとともに観客に挨拶するとき、微笑が戻ってくる。その場にいることに対する喜びで満たされる。

ルネ・ソリス(『リベラシオン』アヴィニョン特派員)
モーリス・メーテルリンク作『室内』。クロード・レジ演出。日本語上演、フランス語字幕。サル・ド・モンファヴェ、18時開演。7/27まで(7/23は休演)。

訳:片山幹生(SPACの会 会員)

2014年7月20日

【アヴィニョン・レポート】ル・モンドに『室内』の記事も!

『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』に引き続き、ル・モンドに掲載された『室内』公演の記事をSPACの会会員の片山幹生さまが翻訳してくださいました!
ありがとうございます!

※元文はこちら
※ル・モンドに掲載された『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』の記事はこちら

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クロード・レジとともに時間と光を体験する
『ル・モンド』2014年7月17日 12h09
ブリジット・サリーノ

 常にかなたにある光を目指して進む。時間は忘却され、視線だけが空間のなかにある。言葉がすべてを侵食しようとするのを拒む。沈黙と静寂を保ちつつ、言葉のひとつひとつが、入って来るのを受け入れる。青色の時間のなかで聞こえる声のように、言葉に耳を傾ける。無意識のなかでの、かすかなざわめきのように、言葉を耳にする。身体に執着してはならない。そうではなくて緩慢な動きのなかで、身体を自由に生きさせるのだ。そして呼吸する……。クロード・レジが作品を通して私たちに提案するのはこうしたことがらだ。アヴィニョン演劇祭に『室内』(モーリス・メーテルリンク作)がやってきた。ひとつの贖罪を思わせるような作品である。

《新しい経験》
 91歳のこの演出家は、映画のマノエル・ド・オリヴェイラ監督[訳注:1908年生まれ、現在105歳のポルトガル人映画監督]と同じような道を進んでいる。レジは常により大きな自由を自らに与え、新しい経験に好奇心を示す。日本はレジに最も新しい経験をもたらした。ブルボン石切場で上演されている傑作『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険~』の演出家、宮城聰が、東京から一時間ほどのところにある静岡にレジを招いたのだ。静岡県舞台芸術センターの芸術総監督である宮城は、このカンパニーの作品制作のためにレジに声をかけたのだ。富士山の正面にあるこの町で、クロード・レジはメーテルリンク(1862-1949)の『室内』を再び取り上げてみたいと考えた。レジは1985年に、[パリ郊外の]サン=ドゥニのジェラール・フィリップ劇場で、フランス人俳優たちとこの作品を上演したことがあった。

 愛する土地に戻ってくるように、クロード・レジがこの作品に戻ってこようと思ったのは、メーテルリンクは昔からずっと、彼の演出家としての方法論を照らす灯台のような作家であるからだ。レジは演出において、登場人物という概念も心理描写も拒絶する。時の経過とともに、彼の演出はパフォーマンスとの結びつきを徐々に強化したスペクタクルの創造を目指すようになった。クロード・レジの演出は、光と時間を創り出す。ある日、彼がとある展覧会で、ジェームズ・タレルのようなアーティストと並んでいても何の不思議もない。原子の探求者であるタレルもまた日本で仕事をしたアーティストである。

 タレルの作品の一つは直島で見ることができる[訳注:直島は香川県、瀬戸内海の島。現代アートの展示で知られる。ここで紹介されているのはタレル作の「南寺」http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/minamidera.html]。一人の男に手をひかれ、古い家に入っていく。導かれるまま、ある部屋に入ると、そこは完全な闇に包まれている。あとはそこで待つだけでいい。そのまま身を委ねればいい。徐々に溶解していく時間のなかにしばらくいると、暗闇の中に灰色の長方形が浮かび上がってくる。亡霊や夢のように。私たちはそこでもはや何も考えない。ただそこにいて、想像しえないような何か、そしてそこで起こっている何かに目を凝らすのだ。

《一人で静かに読書すること》
 『室内』のなかで、想像しえない何かは、一軒の家の中に入り込んでいく不幸という形で現れる。この家では父親、母親、そして彼らの二人の娘が静かな夕べの時間を過ごしている。彼ら以外に小さな子供がいるが、彼は眠っている。この家族にはもう一人、娘がいる。彼女は、午前中に祖母を訪ねるために家を出たまま戻っていない。この娘が川で死んでいたのを発見されたことをこの家族はまだ知らない。見つけたのは通りすがりのよそ者だ。この家族と知り合いの老人と一緒に、彼は家のそばまでやってきた。二人はこの痛ましい知らせを伝えなければならない。

 子供が死んでしまったことを、どうやってその親に伝えたものか?それに、いつ伝えるんだ?もう家の前だ。窓越しに平穏で静かな家族の姿が見える。『室内』では、この家族は誰もことばを発しない。メーテルリンクが、この作品でことばを与えたのは、旅人、老人、そして老人の二人の孫娘だけである。二人の孫娘は、村人たちと一緒にこの家の前にやって来た。村人たちは行列を組んで、祈りの文句を唱えながら、オフィーリアのような髪を持つ若い娘の遺体を運んできた。

《影の領域と光の領域》
 メーテルリンクの作品は一人で静かに読まなくてはならない。クロード・レジの公演は、あわれな遺体に手を添えるときのように丁寧に、この要求に応える。この作品のなかでは、あらゆるものが、自分たちの物語を語ることで、生きている者たちの哀しみを償おうとする。彼らは、踏み越えた途端、あらゆるものが不可逆となってしまう瞬間の入口にいる。舞台上にある影と光の領域は、精神的な空間を形作っている。舞台の奥のほうの神秘的な楕円は家を表している。そこで最初にわれわれが目にするのは、子供の手をひいて、ゆっくりと前に進む一人の女の姿だ。子供は明るい色の服を着ていて、髪の毛の色は褐色だ。子供は静かに地面に横たわる。

 他の人物は、みな立ったままだ。光による境界が彼らを分け隔てている。光の境界は、人を和ませる家を表す楕円形と人を怯えさせる外界を示す直線のあいだに引かれている。不幸は外界からやってくる。日本人の俳優たちは、クロード・レジによって規定されたこの世界の中で、あらゆる永遠性について、あたかも体験しているかのようだった。

 動きの緩やかさ、言葉の穏やかさ、存在、空間、時間の結合。あらゆる要素が、この作品では光と調和している。そして光は、同一の動き、同一の静けさのなかで、死と生を結びつけている。アヴィニョンで『室内』を見逃したとしても、パリでまだ見るチャンスがある。この作品は、秋季フェスティヴァルの枠組みのなかで上演されることになっているのだ。驚異的な経験が『室内』の観客を待ちうけている。クロード・レジは世界のゆらぎを感じ取らせるために、世界のノイズを消し去るのだ。

訳:片山幹生(SPACの会 会員)


『室内』モーリス・メーテルリンク
演出:クロード・レジ
訳:横山義志
出演:泉陽二、伊比井香織、貴島豪、大庭裕介
下総源太朗、鈴木陽代、たきいみき、布施安寿香
松田弘子、弓井茉那、吉植荘一郎、関根響
アヴィニョン公演:サル・ド・モンファヴェ、18時より。7/27まで。
上演時間:1時間 30分。日本語上演・フランス語字幕。
パリ公演:9/9 – 9/27、パリ日本文化会館にて。

2014年5月24日

不定期連載 クロード・レジがやってきた(6) ~『室内』関連ブログ~

『室内』ヨーロッパツアー静岡稽古最終日(遅くなってすみません・・・)
SPAC文芸部 横山義志

『室内』組はウィーンでの公演を終え、今日がブリュッセル公演の千秋楽。あいだに演劇祭等々あってすっかりアップが遅くなってしまいましたが、以下、ヨーロッパ公演前の静岡での稽古最終日に書いたレポートです。

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静岡での『室内』稽古最終日。なんだか作品がすっかり変わっていて驚いた。レジは「はじめてドビュッシーの音楽が聞こえた」と言っていた。この作品は「沈黙の、緩慢なオペラ」なのだという。たしかに、台詞が、というか声の全体が、音楽として聞こえるようになっている。

もう一つ驚いたのはカーテンコール。にこやかに、手までつないで、お辞儀をしている。レジが「ひびきくん、もっと笑顔を見せてよ」なんて言ったりする。これは自分にとってはけっこう驚天動地の出来事だった。パリで見たレジ作品の多くでは、芝居が終わっても、俳優はちょっと目もとに笑みを浮かべるくらいで、お辞儀すらしない場合が多かった。どうしたのだろう。

とにかく、今回レジはご機嫌だった。私は最初と最後の稽古しか行かなかったが、終始なごやかだったようだ。それに元気だった。もうすぐ九二歳になるとはとても思えない(会うたびに忘れてしまう)。血色もよく、稽古場でもじっくり一人一人の俳優を眺めていて、通しが終わるとそれぞれに明確な指示を出す。たぶん、何か見えてきたんだろう。一年を経ることで、去年は見えなかった何かが。

去年はどうしても、みんな見たことがあるレジの作品を思い出しながら、「それらしく」やろうと必死だったのではないか。私も、どうしても過去の作品と比べて、「レジらしい」「らしくない」という基準で何かを評価しようとしてしまっていた。たぶんレジ自身も最初のうちは、自分がかつて見つけたものを、どうやってこの人たちと一緒に見つけることができるだろうか、と思いながらやっていた部分があるのではなかろうか。でも、できたものは何にも似ていなかった。昨年の稽古場では、これが果たして成功作なのか失敗作なのか、正直よく分からなかった。

本番をやってはじめて生まれる信頼関係というのもあるんだろう。演劇では、お客さんに見せてはじめて、作品が作品として成立する。どんなに「うまく」できても、お客さんに何かが伝わらなければ何の意味もない。去年はきっと、みんなレジがどこを指さしているのか、一生懸命見極めようとしていた。だが、俳優はお客さんに伝わったのを感じた瞬間から、演出家の指の先よりももっと遠くが見えるようになる。今回の稽古では、俳優たちがレジ自身の目を見つめられるようになったのではなかろうか。そして、その奥にあるものにも目を向けられるようになったのではなかろうか。レジにとっても、きっと俳優の一人一人の顔が、そしてその奥にあるものが、よく見えるようになってきたのだろう。

それにしても、ここまで俳優を見るのが好きな演出家が他にいるだろうか。『室内』の稽古では、よく「うしろの俳優とかぶらないように」という指示が出ていた。これは「自分から見て」という意味らしい。たしかに、楕円堂の半楕円形の客席からは、「どこから見ても」かぶらないように、というのはけっこうむずかしい。さらに、俳優に「どこに向かって演技してるんだ!」と声をかけることもあったという。これは「自分に向けてやってくれ」という意味らしい・・・。レジは百数十回目の公演だろうと、必ず自分の作品を真ん中の席で見ている。そして、いつでも目を見開いて、誰よりも夢中で見ている。こんな演出家もなかなかいない。

レジの稽古は、時間は短くても、終わるとどっと疲れる、と俳優たちは言う。それはきっと、「完成品をパッケージ化して市場に出す」というような発想がみじんもないからだろう。だから、今日やってよかったことが、明日もいいとは限らない。「客観性」という発想がもつ欺瞞に対して、これほど敏感な人もいない。「人が見たらこう思うだろう」という、いい加減な推測にもとづいて物を作ることの欺瞞。未来に期待して、自分を安心させることもしない。とにかく、自分が、今、ここで、面白くなければ意味がないのだ。俳優は、台詞のなかで一瞬気が途切れると、すぐに指摘されるという。「芝居をするな」ともよく言う。自分が自分にとって本物でありつづけること。それ以外に「本物」を見せることの根拠はありえない、という強烈な確信がある。

今回、レジがご機嫌なのは、きっと違うものが見えたからだろう。自分が探していたのとは違うものが。最近のレジ作品は、やたらとソロ作品が多かった。十人以上出る作品を作るのは久々だろう。『室内』の稽古でも、はじめのころのダメ出しは、俳優個人のなかでの台詞回しやイメージに関するものだった。だが、今回はそれがほとんどなかった。とりわけ今日見て驚いたのは、そこに一つの共同体ができていたことだった。それぞれの俳優が生み出すものではなく、俳優と俳優とが関係をもつことで、はじめて生まれてくるもの。一人一人が、自分が作品のなかで占めている場所を見出し、他の一人一人の俳優との距離や関係を見つけ出して、そこから何かを生み出そうとしている。こういうタイプの作品は、もうずいぶんやってこなかったのではないか。あるいは、もしかするとレジにとってもほとんど初めてなのかも知れない。もちろん『室内』は三〇年以上前にフランスでもやっているのだが、そのときの舞台写真を見ると、やはりフランス的な、俳優個々人の力量で見せる舞台だったような気がする。

改めてレジの上演史を見直してみると、いわゆる「劇団」に対して演出したのは、一九九〇年にコメディ=フランセーズでサルトルの『出口なし』をやって以来、二十数年ぶりになるらしい。昨年の稽古では、稽古が進むほど、個人の芸に頼らない方向でテキストレジが進められていった。長台詞を分割し、複数の俳優に振っていく。それが今になって、ちょっとコロス的な効果を生むようになってきた。アヴィニョン演劇祭では同じ劇団が『マハーバーラタ』と『室内』を上演することになる。一見すると演劇の双極のような二作品だが、きっとそこには通底するものがある。

『室内』というのは不思議な作品だ。その不思議さにも、今日になってようやく実感できた部分がある。ふつう戯曲というものは、「死」というものがなるべくドラマティックになるように構築されている。だから、死んでしまう個人は、なるべく「かけがえのないもの」として描く。『室内』では、四人の子どものうちの一人が亡くなり、しかも家族は作品の最後までそれを知らない。もちろん、どんな一人だって、家族にとってかけがえのない一人なのは間違いないし、それが家族に悲痛をもたらすのも間違いない。だがメーテルリンクの作品では、この娘にも、その家族にも、名前すら与えられない。

レジは毎回のように「これは悲劇ではない」と繰り返し、メーテルリンクの『蟻の生活』をよく引き合いに出していた。ここで人々は、まるで蟻の巣を観察するように、家族たちを観察しているのだという。一人の人間は、人類全体にとっては、あるいは生物全体、地球全体にとっては、生命の連鎖のなかの一つの鎖に過ぎない。きっと誰かにとっては「かけがえのない一人」だが、その誰かだってやっぱり鎖の一つでしかない。そしてその一人も、その誰かも、いつかは死んでいく。

とはいえ、そんなことを知ったところで、自分にとっての「かけがえのない一人」をなくすことは、やっぱり悲劇ではある。とりわけヒトという、群れをなす動物にとっては。ヒトはアリと同様、同類の他者を必要とする動物である。自分が属する共同体を必要とする動物である。たとえ小さなものであっても。ここで気づかされるのは、悲劇として経験されるのはある個体が死を迎えることではなく、その個体と別の個体、あるいはそれが属していた共同体とのあいだにあった関係が決定的に失われることなのではないか、ということだ。つまり悲劇としての死とは、個人にとっての事件ではなく、関係にとっての、関係のなかでしか生きられない群れにとっての事件なのだ。

『室内』では、そのような動物の群れが、もう一つの群れを見つめている。ここには、きっと「登場人物」はいない。「老人」、「よそ者」などと、群れのなかでの位置が示されているだけだ。今日の稽古では、家族がなんだか本物の親子のように見えた。「音楽」が聞こえてきた、というのは、きっと「群れ」としての声が聞こえてきた、ということなんだろう。レジがご機嫌なのは、きっとアリが「群れ」として立ち上がってくるのが見えたからなのではないか。人間の命を見つめることは、必ずしも一人をじっと見つめることではない、ということに気づいたからではないか。

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*不定期連載 クロード・レジがやってきた バックナンバー
(1) [2013.3.14]
(2) 『室内』翻訳の話 [2013.4.9]
(3) 闇と沈黙 [2013.4.21]
(4) 遅れてきた巨匠 [2013.4.24]
(5) レジが再びやってきた [2013.4.14]

*『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら

2014年5月20日

『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート(4)

5月14日にウィーン芸術週間での公演を全て終えた『室内』メンバー。

翌日15日には早くもウィーンからブリュッセルへ移動です。

ツアーには異国の地の人々の熱烈な歓迎や拍手喝采もあれば、
思わぬハプニングもつきもの。
そしてそんなときの出会いこそ、また忘れられない思い出に。

今日は劇場や舞台から離れて、
ツアーの醍醐味を、女優 たきいみき がお届けします。

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5月15日。

ウィーンでの4公演を終えて、ブリュッセルへ。

旅の醍醐味は、トラブルにあり。

まず、ブリュッセル行きの便にチェックインすると、「お客様の予約はありません」

え?

もう一度トライすると、「キャンセル待ちです」

え??

「ダブルブッキングのため、次の便をお待ちいただくか、最悪の場合、翌日の便をとりなおしてください。」

いやいや、ブリュッセルでの劇場稽古まで、2日の猶予はありますが、困ります、乗れないと。

私だけかと思いきや、他にも同じ事を言われた人たちが!
ひとりじゃないって、素晴らしい。急に心強くなりました。
搭乗口で、必死に交渉してくれる衣装のたんごちゃん。

ウィーン空港_右は衣裳のたんごちゃん
【ウィーン空港_右は衣裳のたんごちゃん】

大庭さんに絶望の色が濃すぎて、もう、逆に笑えてきます。

奥から吉植さん_大庭さん_弓井さん
【奥から吉植さん_大庭さん_弓井さん】

トラブルは旅の醍醐味です。

全員がはらはらして、どきどきと時を過ごしましたが、たんごちゃんの英語力と交渉力のお陰があり、全員が無事に搭乗。

約1時間半のフライト。
機内の、おやつは、飛行機と雲の形のクッキーとプレッツェル。
おやつも、一緒に空を飛んでみました。

プレッツェル
【プレッツェル】

無事に着陸、ホテルまでもスムーズに到着。
Wi-Fi繋がらない事件もありつつ、その辺はご愛敬。

こちらのクンステンフェスティバルデザールでは、劇場がホテルから凄く遠いので、5日間の公演中の交通手段として、地下鉄のチケット10枚か、レンタサイクルのカードが選べます。

私はレンタサイクルにしてみました。

これは、市内各所にあるステーションから、自転車をかりて、好きな場所まで乗っていき、目的地の最寄りのステーションに返却するというシステム。

到着翌日はオフだったので、試してみました。
これが、便利なようで、土地勘のない(かつ、方向感覚のない)私には、ハードル高いのでした。

大きな駅前で自転車を借りようとしたら、ステーションには、自転車が一台もない!
仕方なく、すぐ近くのステーションまで歩いていくと、また、一台もない!ない!

困っていると、もう一人、困ってる女子が。
ブラジルから来たというリタちゃん。ブリュッセルに住んで半年。

「ないねぇ。」
「わたし、ステーションの地図持ってるよ。」
「探す?」
「じゃあ、一緒に行こうか。」

歩くこと、一時間。迷子。
ブリュッセルの街は、道が知らないまに曲がってて、気づくと全く別の方向に行ってしまいます。

「わたしさ、ブリュッセル2回目なんだけど、2回とも迷子になっちゃうんだよね。」
「わたしなんか、
毎 日 迷 っ て る よ !(`・∀・´)」

ひとりじゃないって、ホントに、素晴らしい。

地元の親切な方々のお助けもあり、やっとのこと自転車のストックがあるステーション発見!
喜びのあまり、記念撮影。

ようやく自転車を発見!
【ようやく自転車を発見!】

リタちゃんと一緒に
【リタちゃんと一緒に】

このあと、まんまとブリュッセル・ラビリンスにはまり、最寄りのステーションまでさんざん迷子になり、その上そこが、満車で、返却できないという事件が待っているとは、そのときはつゆともしらない、たきいでありました。

今日5月18日は、劇場入り。
無事に劇場までたどり着けるか、本当に心配です。

たどり着けたら、劇場の写真をお届けします。

迷路の街、ブリュッセルより。
たきいみき

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2014年5月14日

『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート(3)

5/12、『室内』ウィーン公演終演後に行われたクロード・レジさんのアフタートークの内容を公開します!

質問1:この企画のいきさつは。
クロード・レジ氏(以下C.R.)  まずSPACに『海のオード』で招待していただきました。その時に宮城氏からSPACの俳優と日本語で芝居を作ることに興味はありますか、と聞かれました。日本語は全く分かりませんが、だからこそ興味をそそられました。今日ご覧になった通り、私の芝居は常に暗い中で行なわれ、静かでゆっくりで、一般に言う「演劇」とは違います。既知の領域にとどまるのではなく、未知の分野を開拓することの方が断然面白いのです。

2:何故、この戯曲を選択しましたか。
C.R. メーテルリンクはマリオネット劇を4本残しています。『室内』もそのうちの一本です。日本には文楽というマリオネット芸術があり、その部分が私の中で重なりました。また、わからない言語で仕事をしなければならないため、30年前に扱った自分がよく理解している戯曲、『室内』に即決しました、直感で。今行なっているアフタートークのように通訳/翻訳を介さなければならないわけですが、俳優の作業/仕事を見ていると、私の言わんとすることがきちんと伝わっていることが分かります。私にとって、本能に身を任せることや直感は大切な要素です。

3:母親が素早く手を引っ込めるシーンで、それまでがゆっくりだったのでそのスピードに驚きました。その部分は加えた演出ですか?
C.R.  メーテルリンクは母親のジェスチャーを細かくト書きに描写しています。私の演出ではありません。無意識の中で、母親は実はもう娘の死を感じ取っているのです。セリフにもある通り、その子の死は自殺だったかもしれない。だとすれば、子をなくした母親の痛みはより痛烈です。戯曲の終末に近づけば近づくほど、セリフの数が減っていっているのをご覧になりましたね。

4:字幕が少ないですね。
C.R. 演劇に字幕を付けるようになったのはつい最近のことです。私が演劇を始めた頃には存在しませんでした。60年間その変遷を見てきましたが、やはり字幕は好きになれません。字幕を追っている間、お客様は俳優を見ることができません。知識をもって芝居を理解するのではなく、感じてほしいのです。知識を利用してしまうと、理解した気になっているだけのことが多々あるからです。知識の向こう側に行ってほしいのです。メーテルリンクはほとんどのセリフの終わりに「・・・」を付しています。つまり、言葉はそこで終わらず、ひとつの意味にとどまらず、想像の世界に広がり続けるのです。でも、全く字幕を出さないわけにもいかないので、理解するのに必要最小限の、メーテルリンクの詩的才能を如実に現す文章を選択しました。

5:俳優の演技指導のためのメソッドは?最後の砂場を渡っていくシーンで俳優たちに与えた指示は?
C.R. 私はアンチメソッドです。そのようなエスプリは持ち合わせていません。最後のシーンでの指示?上手から出てきたら下手に去るしかないではありませんか。(笑)ただ、可能な限りゆっくり歩いてくれと頼みました。
 「未知の中に永遠がある。」という言葉があります。誰も足を踏み入れたことのない未知の領域に行く為に、観客をその領域に誘うために、俳優は常に扉を開いておかなければなりません。そのためにアクションを起こさず、ゆっくりとした動きの中に身を置き、受動態でいることが望まれます。実はその受動態でいることこそがものすごい力を発揮するのです。
 現代は騒音にあふれ、ものすごいスピードで進んでいます。だからこそ、その正反対の方向性をとることに意味があります。リズム、というと速いスピードと思いがちですが、ゆっくりの速さもあるのです。ゆっくりとすることで、時を延長させ、空間を広げることができます。また、ゆっくりさの中で俳優たちは内部奥底にある静寂をみつけ、聖なる域に辿り着きます。静寂がなければ未知の世界には踏み込めません。
 舞台上で見えていることは書かれた戯曲の一面にすぎません。日常生活でも目に見えていることはほんのごく僅かで、実は見えないところに多くが隠されています。ですから照明も明るくはしません。常に、見えているのか見えていないか分からない境界線に、聞こえているのかどうか分からない境界線にいることで未知への第一歩を踏み出すことができるのです。言ってみれば、我々は「不可能」なものを扱っています。でも、ある賢者が言っていました、「不可能というものは未開拓の可能である。」と。

6:初日があけても毎公演ご覧になるそうですね。
C.R.  芝居はお客様とともに進歩していきます。私は観客にもクリエーターであり、執筆中の作家であり、各々が思い描く映像世界の役者であってほしいと願っていますが、実現するのはそう簡単なことではありません。だからこそ毎日観て、芝居と観客とのコンタクトが途切れないよう、配慮/援助していかなければなりません。


【「ウィーン芸術週間」パンフレット 『室内』ページ見開き】


【「ウィーン芸術週間」パンフレット表紙】
 

【『室内』ウィーン公演 終演後の舞台】

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2014年5月11日

『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート(2)

今回は、「室内」の娘役を演じる弓井茉那(ゆみいまな)からです。

『室内』ウィーン公演はいよいよ本日5/11が初日です。

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5/10

グリュス・ゴット!(こんにちは)
『室内』ヨーロッパツアーの様子を、弓井がお届けします!

私たちが到着した時よりも日に日に春めいてきて、雨もあまり降らずとても暖かく穏やかな気候のウィーンです。

さて、私たちの参加するフェスティバル、ウィーン芸術週間が昨夜開幕致しました!

開幕セレモニーでは、ライトアップされた市庁舎前の広場にて、EU各国の歌唱隊が素敵な歌声を響かせ、ラストには皆で第九の大合唱という大感動のステージ。
その後のパーティーでは政治家などが集まり、雰囲気ある市庁舎の中が映画のシーンの様でした!

・・・と言うのは行った人から聞いた話で、私は疲れてホテルで倒れるように寝ていました。
こんなに素晴らしいフェスティバルに参加できているんだ、と実感できるような素晴らしいオープニングだったようです。
あぁ無理してでも行けばよかった。

このオープニングの素敵な写真は、フェスティバルスタッフで衣装を担当してくださっているソニアから頂きました。
ここで、前回の陽代さんのレポートを引き継いで、ウィーン芸術週間の素敵なスタッフさんの何人かをご紹介できたらと思います!

衣装担当のソニア。
ソニアは自分でアクセサリーを作っていて、毎日服とアクセサリーのトータルコーディネイトがおしゃれ!
ビビッドなカラーリングが素敵。
そして毎日一言ずつ日本語をマスターしている勉強家でもあります!「お疲れ様です~」って言ってくれます。

そして他にも、舞台機構のナイスガイなスタッフさん、ルディー。
いつも陽気なスマイルで癒してくれます。

もちろん、他にもたくさんの素敵なスタッフさんに支えられて、『室内』ウィーン公演を進められております。何と明日が初日!
どんな観客のみなさんと出会えるのか楽しみです!

それでは。

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2014年5月7日

『室内』ヨーロッパ・ツアー レポート(1)

4月29日に『室内』ヨーロッパ・ツアーに旅立った俳優より、
レポートが届きましたので、公開します。

今回は、「室内」の母親役を演じる鈴木陽代(すずきはるよ)からです。

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5月1日ウィーン稽古初日は、奇しくもレジさんのお誕生日でした。

この日は、メーデーでヨーロッパではほとんどのお店が閉まるのですが
劇場の方の暖かい心遣いにより、ザッハトルテでお祝いです。
ちなみにレジさん、トルテおかわりしてましたよ。
甘いものがお好きな様子。。。
「ありgâteau」、日仏ダジャレも飛び出しました。

劇場はミュージアムクォーター。美術館や劇場が集まった複合施設です。

真ん中はなぜかマイケルジャクソン、その隣が我らが参加するフェスティバルのポスターです。

このポスターを拡大すると

まだ空のお皿。。。もうちょっと待っててね、お料理準備中。

で、そのお料理は

はい、脳みそ

おかわりは心臓。。。

お客さまに美味しく食べていただけるよう、稽古に励んでおります。

劇場は、ドイツ語・フランス語・英語・日本語が飛び交っています!
だんだん、言葉を超えたコミュニケーションを築きつつありますよ。
素敵なスタッフさんたちも紹介できたらいいなぁ。
気さくで、やさしい方たちばかりなんですよ!
(ご本人たちにOKかきいてみましょう)

ではでは!

鈴木陽代

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