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2014年4月14日

不定期連載 クロード・レジがやってきた(5) ~『室内』関連ブログ~

レジが再びやってきた
SPAC文芸部 横山義志
 
クロード・レジさんがもう一度静岡に来てくれた。『室内』ヨーロッパツアーの稽古のためで、今回で三回目の来静になる。
 
昨年のふじのくに⇄せかい演劇祭で『室内』を初演したとき、ベルギー・ブリュッセルのクンステン・フェスティバル・デ・ザールの芸術監督クリストフ・スラフマイルダーが見に来てくださり、終演後、興奮の面持ちで「これほど美しい作品は見たことがない」とおっしゃってくださった。クンステンはベルギーを代表する舞台芸術祭で、スラフマイルダーほど優れた舞台をたくさんご覧になっている方も、それほど多くないはずだ。

『室内』は何もないようで、実はほとんど劇場全体を包み込むような舞台装置になっているので、これを他の劇場でやろうとすると、かなりややこしい話になる。出演者も十人を超えていて、ヨーロッパでツアーをするのは相当大変な作品である。それでも、みなさんの並々ならぬ情熱と努力のおかげで、クンステン・フェスティバル、ウィーン芸術週間、そしてアヴィニョン演劇祭と、西ヨーロッパを代表する三つの舞台芸術祭で招聘していただけることになった。それぞれ方向性も異なっているので、この三つのフェスティバルで連続して紹介される作品というのはかなり珍しいのではないか。オーストリアはレジにとってもはじめてだそうだ。

  ※『室内』ヨーロッパツアーの日程はこちら

静岡での稽古初日(4月12日)。子役の響くんが、久々の張り詰めた稽古場の雰囲気を怖がってしまい、舞台に入りたがらない。レジが響くんを呼んで、「ぼくも怖いんだよ。みんな一緒なんだ」と話す。

レジが俳優たちに「一回台本だけ読んでみる?それとも動きもつけてやる?」と聞くと、「動きもあった方がいい」との答え。すぐに稽古がはじまる。その瞬間、レジ作品特有の沈黙が楕円堂を支配する。最初の稽古では、これができるまで何週間もかかったのに、一年ぶりの稽古でも、もうすっかり俳優の体に染みついている。舞台装置も衣裳もないが、台詞も動きもほとんど本番通り。レジさんも「いつもこうなのか?驚いたよ。宮城さんの教育がよっぽどいいんだな」とおっしゃっていた。

私は翻訳者として、一応台本をチェックするために来たのだが、あえて読み直さずに来てみた。初演から一年弱で、はじめてお客さんの気持ちで見ることができた。シンプルな言葉だが、一言一言が発せられるたびに驚かされる。一年経って、ようやくスラフマイルダーの感想を実感し、メーテルリンクの言葉の意味が、そしてレジさんの演出の意味が、少し分かってきたような気すらする。

悲劇でも喜劇でもない、存在の神秘について語る作品。人がここにいるということの意味、明日にはいないかも知れないのに、今ここにいる、ということの意味をこれほど深く感じさせてくれる作品もなかなかないだろう。

今回の演出では、娘の一人を失った家族を見つめる「老人」の台詞の一部が、「よそ者」によって語られたりする。娘や家族への深い同情を表す台詞が多い。この台詞もそうだった。「ああいう子はみんなそうなのだ・・・。人形みたいに無表情でも、魂のなかでは大変な事件がいくつも起きていて・・・。こういう子たちは、花が散りましたね、などと笑顔で言いながら、暗がりで泣いているのだ・・・。」

だが、「よそ者」はどこか宇宙人のようで、同情しているというよりも、他人の感情をその心の内から直接に聞いて、代弁しているかのように見える。つまり、悲劇の観客ですらなく、「悲劇の観客」の観客であるかのように見える。ここには「悲劇」から遠ざかるための仕組みが、いくつか仕掛けられている。

この作品はメーテルリンクの「人形劇三部作」の一環を成している。「室内」にいる家族を「老人」と「よそ者」が眺め、その様子を言葉で描写していく。だから、語る俳優と動く俳優に分けて“二人一役”で演じる手法を多用する宮城作品に出演してきた俳優たちがこの作品を演じることになったのも、たぶん偶然ではない。この設定は人形によって演じられることを前提としたものでもある。ここでは文楽と同様、言葉によって舞台上では起きていない出来事が起きたり、逆に舞台上で起きる出来事が言葉を微妙に裏切ったりもする。もしかしたら、これも日常生活のなかでの私たちの存在の有り様と、それほど変わらないのかも知れない。そう思うと、機械人形のように話す人物たちも、その言葉に合わせたり合わせなかったりしながら動く「家族」たちも、自分の似姿のように見えてくる。

「上の子が、見えないものに微笑んでいる」なんて、恐ろしい台詞があったりする。何が見えているんだろう。つづいて、老人は言う。「何十万年見つづけても何も見えないだろう・・・夜の闇は深いのだ・・・。あの子たちはこちらを見ているけれど不幸はあちらからやってくるのだ・・・。」そんな深い夜の闇を見て微笑みつづけている女の子を想像すると、いよいよ空恐ろしくなってくる。老人の方がものが見えているとも限らない。「上の子」の眼には、何十万年前の光が届いているのかも知れない。

こんな恐ろしい舞台を見たあと、休憩時間に響くんがレジのところにやってきて、言う。「エクスキューゼ・モワ!(ごめんなさい!)」

この稽古を見たらなんだか元気になって、自分も参加できるような気になったという。響くんには何が見えていたんだろう・・・。

(追伸)
昨年の「クロード・レジがやってきた(4)」で、次回はレジの初期の活動についてご紹介します等々と言っておきながら、結局書けませんでした。もし、どうしても書いてほしい、という方がいらしたらおっしゃってください・・・。


クロード・レジがやってきた(1) [2013.3.14]
クロード・レジがやってきた(2) [2013.4.9]
クロード・レジがやってきた(3) [2013.4.21]