闇と沈黙
SPAC文芸部 横山義志
レジの舞台は暗い、という話をした。前回『彼方へ 海の讃歌』を招聘した際には、スタッフから「照明操作卓はなるべく新しいものを用意してほしい。レジの作品では出力0%~1%のあいだをどれだけちゃんと操作できるかが重要だから」という話があった。これは、「感覚の閾」を探るためだという。「閾」とは、視覚であれば、「見える」と「見えない」のあいだにある領域のことである。「閾」においては、感覚が研ぎ澄まされる。ふだんは見えないもの、感じられないものにも、感覚が開かれていく。
レジの作品には、ほとんど「舞台装置」と呼べるようなものがない場合が多い。極めて抽象的な空間を作り上げ、俳優と照明によって場面を作っていく。レジは近作のアフタートークで、「どんな立派に作られた舞台装置でも、人間の無限の想像力に勝るものはない」と語っていた。「感覚の閾」を探る照明は、感覚の向こう側にあるものに向けて、舞台を開いていくものなのである。
そして、さらにその想像力をも越えた領域へと導いていくのは、沈黙である。レジの作品において重要なのは、「意識も無意識も越えたところにあるもの」なのだという。ベネディクトのワークショップでは、一番はじめに、メーテルリンクの「沈黙」というテクストを読んだ(『貧者の宝』所収)。ここでは、「沈黙」を共有したことがない恋人は、まだお互いのことを十分に知り合っていない、という話があった。メーテルリンクによれば、「沈黙の水源は思考の水源をはるかに超えたところにある」(山崎剛訳)。
レジが静岡で舞台を作ろうと思った理由の一つは、この闇と沈黙に適した場所を見つけたと思ったからだろう。静岡での稽古は、日本平の原生林のなかにある「舞台芸術公園」で行われる。レジは、この自然公園のなかの、茶畑を見渡す宿舎で日々を過ごすこととなる。そしてこの公園の最も奥に位置するのが、楕円堂という木造の劇場である。夕方にこの劇場に来れば、そこに辿りつくまでのあいだに、すでに視覚が変化しているのが分かるだろう。楕円堂に辿り着くと、黒塗りの階段を下りて、古い日本家屋の闇を再現した舞台空間に身を置くことになる。
レジと『室内』のために選ばれた俳優たちは、今月はレジの住むパリで稽古し、5月にはパリの喧噪を遠く離れて、ふたたび静岡へと戻ってくる。
レジの演劇観には、どこか日本の演劇観に通じるところがある。フランスにおいては、これはかなり特殊な演劇観だと言える。だが、レジはこれまで、特に日本文化に大きな影響を受けてきたわけではない。では、レジはどのようにしてこの独特の演劇観を育んできたのだろうか。次回からはレジの経歴について書いていこう。
(つづく)