『室内』翻訳の話
SPAC文芸部 横山義志
前回から一ヶ月近く経ってしまったが、そのあいだにレジ演出『室内』のオーディションが終わり、配役が決定した。
公演情報のページには、すでに出演者が発表されている。
※『室内』の詳細はこちら
そして、役の決まった俳優たちは、先週の土曜日にフランスへと旅立っていった。今週から、パリでの稽古が始まる。そのあいだに、私は『室内』翻訳台本の修正作業を進め、先週末にようやく台本を仕上げてお送りすることができた。というわけで、二回目でいきなり余談になってしまうが、今回は前回のつづきではなく、翻訳の話を少し。
メーテルリンク作『室内』の翻訳はかなり大変な作業だった。ふつうに読めば30分もかからないような短いテクストで、既訳もあるので、ちょっとたかをくくっていたところもあるかも知れない。だが、非常にシンプルな言葉で書かれているだけに、一文一文が極めて多様な意味やイメージに開かれていて、言ってみれば、どうにでも訳しようがある。一文一文について、レジが何を一番重視しているのか、どの意味を取って訳せば作品が最も効果的なものになるのか、というのを探っていかなければならない。ある統計によれば、文学作品の90%を理解するのに、英語では3,000語、フランス語では2,000語知っていればいいのに対して、日本語では10,000語知らなければいけないという。言ってみれば、フランス語の一語を訳すには、日本語の五つの言葉のなかから選ばなければならないわけである。一方で、レジは、観客の想像力を働かせるために、極力あいまいさを残しておくことを求めている。これは、フランス語から日本語への翻訳においては、かなり難しい作業になる。もちろん日本語にも曖昧な表現はいくらでも作れるが、舞台では観客が耳で聞いて伝わるようにしなければいけないので、あまりこねくりまわして、何も伝わらなかったら意味がない。それに、フランス語と日本語はほとんど歴史を共有していないので、日本語であいまいな表現を使うと、フランス語の原文には含まれていないような意味を付け加えてしまい、観客の想像をあらぬ方向に持っていってしまうことにもなりかねない。
では、なぜレジはあいまいさを大事にするのか。オーディション・ワークショップの稽古場では、よくこんな話をしていた。
「マラルメ(フランスの詩人、1842-1898)が言うように、「テクストはほのめかすもの(l’écriture suggère)」であって、言いたいことを直接に言うものではない。詩人は、言いたいことが言えないから書くんだ。ナタリー・サロート(レジとの共同作業でも知られるフランスの作家、1900-1999)も「言葉は、語られない実質を解放することに奉仕する。この語られない実質の方が、言葉よりも重要なのだ(Les mots servent à libérer la matière silencieuse qui est bien plus que les mots)」と言っている。」
つまり、本当に大事なのは言葉にできないものだ、ということだろう。だから、言葉からあいまいさを奪い取ってしまうと、作者が本当に伝えたかったものが伝わらなくなる可能性がある。レジ作品で沈黙が重要なのもそのためだろう。この『室内』という戯曲では、台詞の半分以上が「・・・」で終わっている。つまり、本当に言いたいことは口に出せていなかったり、さらには、口に出せていることは本当に言いたいことでなかったりするわけである・・・。
一方で、レジ作品に出演してきた女優のベネディクトは、俳優向けのワークショップの中で、「同じ言語を話しているからといって殺人が起こらないわけではないし、異なる言語を話すからといって分かり合えないわけではない」という話をしていた。翻訳の作業をしているときは、この言葉を思い出しながら、なんとか希望をつなぐ日々なのだった。
以上、余計な話なんだか本質的な話なんだかよく分からなくなってきましたが、次回はふたたび、レジという人はどんな演出家なのか、という話に戻ります(たぶん)。お楽しみに・・・。
(つづく)