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2014年2月9日

【此処か彼方処か、はたまた何処か?】紹介文(4)

『此処か彼方処か、はたまた何処か?』
紹介文の第四弾は三浦和広氏です。

なお、千秋楽2月16日までの期間限定で『此処か彼方処か、はたまた何処か?』の台本を公開しております!
ぜひ、この混沌を垣間見ていただいてからアトリエみるめへお越しください。
台本のダウンロードはこちら

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嵐を告げるもの

1968年は、誠に混乱の年として、20世紀の世界史に刻まれた。チェコスロヴァキアの変革運動「プラハの春」から幕を開け、金嬉老事件、ソンミ村虐殺事件、キング牧師暗殺、パリ五月革命、東大安田講堂占拠、ロバート・ケネディ上院議員暗殺など、国内外で歴史的事件が吹き荒れた年である。
本作の初演は、その前年。巨大な狂騒が巻き起こる寸前の、不気味な風を孕んだ年だった。この年、上杉清文と内山豊三郎の二人の若者は、時代の舳先に立ち、潮風の彼方にひそむ嵐の胎動を嗅ぎ取っていた。二人の青年の透徹した眼差しがとらえた、激動の予感。それが、ペダンティックかつダダイスティックな戯曲の中に、騒々しく投げ込まれている。
彼らの潮騒は、ビートルズだった。行き先の分からぬ、荒れた大海原にあって、そのビートだけが羅針盤となった。ロックは今も昔もキッズたちのものだ。彼らは時間の尺度を持たない。HelloとGoodbyeが同居する場所にいる。ゆえに美しい。眩しい。
空きビンに詰めて放流したのか、この書きなぐられた戯曲は、半世紀近くを経て静岡の地で発見された。タイトルは『此処か彼方処か、はたまた何処か?』。まるで波乱に抗うかのような、ツバを吐きかけるようなカオティックな戯曲。貝殻が失った海の音をその空洞に宿すように、消え残った潮騒(ビート)が、俳優たちの身を痺れさせたのだろう。
SPACと地域劇団は、手をたずさえてこの劇を再演するという。彼らは、おそらく本能的に察知しているのだ。その嗅覚で、その皮膚で、その眼差しで、それが嵐を告げるものであることを。

三浦和広(日本美学研究所所長)

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『此処か彼方処か、はたまた何処か?』
作:上杉清文、内山豊三郎
演出:大岡淳
2/14(金)~2/16(日)
アトリエみるめ

公演の詳細はこちら
『此処か彼方処か、はたまた何処か?』