4/10に行われましたシンポジウムの要約版です。
ぜひご一読ください!
☆連続シンポジウム、詳細はこちら
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オルタナティブ演劇大学
抵抗と服従の狭間で―「政治の季節」の演劇―
◎登壇者
片山杜秀(近代思想史研究者)
高田里惠子(ドイツ文学研究者)
大澤真幸(社会学者/SPAC文芸部)
横山義志(西洋演技理論史研究者/SPAC文芸部)
◎司会
大岡淳(演出家・劇作家・批評家/SPAC文芸部)
2015年4月10日、ふじのくにせかい演劇祭2015を目前に控え、シンポジウムが開催された。演劇祭期間中の連続企画「オルタナティブ演劇大学」の一環である。SPAC芸術総監督・宮城聰の最新演出作『メフィストと呼ばれた男』を中心に、「政治の季節」という切り口から議論を深める試みだ。そこで交わされた議論のいったんを紹介する。
■大衆に解放する運動
横山 トム・ラノワ作『メフィストと呼ばれた男』は、ドイツのナチス政権下で国立劇場の芸術監督になった俳優グスタフ・グリュントゲンスを描いています。もともとナチスに近い人ではありませんでした。1920年代には共産党のシンパで、反ナチス的な活動をしていました。メフィストはゲーテ作『ファウスト』に出てくる悪魔ですが、彼はメフィスト役を演じるので有名な俳優でした。彼の人気を利用しようとしたナチスが、政権を担った時に、グリュントゲンスに声をかけて国立劇場の芸術監督を任せます。彼は悩むんですけれども、引き受けて、「劇場を利用して仲間たちを守ろう」「内側から抵抗をしよう」と考えました。けれども、徐々に体制の流れに巻き込まれていきます。原作はクラウス・マン作の小説『メフィスト』。ナチス政権ができると、マンは政府に目をつけられて、亡命し、1936年に『メフィスト』を書きました。まだナチス政権が存在した頃に書いている。ドイツではスキャンダラスな受け取り方をされた作品です。グリュントゲンスは戦後も活躍しています。はたから見ると、世渡りがうまい俳優のようにも見えます。共産主義が盛り上がればそっちについて、ナチスが盛り上がればそっちにつく。戦後、なぜ生き延びたかと言うと、戦時中に、共産主義の活動で捕まっていた仲間の俳優を助けたという功績があり、戦後、ソビエト軍に捕まったところを解放されたからです。戦後も劇場の芸術監督を歴任し、演劇界で大事な地位を維持したまま一生を終えています。今回の演劇祭のテーマは「オルタナティブ」ですが、グリュントゲンスの生き方を見ていくとおもしろいのは、ナチス政権ができる時期において、共産主義もナチス国家社会主義も両方とも「オルタナティブ」なんですね。ある種、反体制的なことをやっている。その中からナチスが政権を握る状況ができます。両方とも民衆的な表現を提唱したとも言えます。芸術家にとって共産主義もナチスも「オルタナティブ」な選択だったという危うさがあると思います。
大岡 共産主義やファシズムが新しい社会をつくろうという運動だったことはわかるのですが、民衆的な表現というのは、具体的にどういうことですか?
横山 『メフィストと呼ばれた男』の中でも、例えば、主人公のクルトが芸術監督になった時、俳優はナチスに対していいイメージを持っていません。「ナチスに芸術なんてわからないだろう」と思っていたのが、ナチスは芸術の予算を増やします。より民衆的な表現をしてほしいというようなことが提唱されるんです。国民のために、民衆のために…「国民」や「民衆」ってすごく曖昧な言葉ですけど、そう言われると断りにくい。芸術家は何かしら人の役に立とうと思っているところがあると思います。人のためになることは断りにくいわけです。
大岡 共産主義もファシズムも「一部の人が世の中を支配しているのはよくないことだ。だから、皆のものとして解放しよう」という考え方が前提にあるということですね。芸術も同じで、一部のディレッタント、エリート、芸術オタク、余裕のあるブルジョワに独占させておくのではなく、解放しようという一面を含んでいたことが、「民衆的」とおっしゃった意味かと思います。
■フォルクとしてのグリュントゲンス
高田 ナチスと民衆が問題になりましたのでつけ加えますと、皆さんがよくご存じのフォルクスワーゲン(Volkswagen)。これは民衆車、大衆車という意味です。フォルクスエンプフェンガー(Volksempfänger)は民衆ラジオ。当時、車とラジオを持っているのは特権的だったわけですが、これを大衆にも行き渡らせるというのが、ナチスの方策でした。フォルクスアウスガーベ(Volksausgabe)という民衆版、廉価版の本もありました。同じように、劇場もブルジョワのための演劇ではなく、フォルク(Volk)のために解放していくというのが、『メフィストと呼ばれた男』を読んでも、主人公の考えのように思います。グリュントゲンスもブルジョワ階級の出身とは言えない。デュッセルドルフの労働者階級の出身、というか、正確に言うと、家が没落してしまって裕福ではなかった。早くに役者稼業で両親を養わなければならなかった。芸術監督になる時にそのあたりで心が動いたかもしれない。マンの家は真正のブルジョワですよ。グリュントゲンスは、クラウス・マンのお姉さんエリカ・マンと結婚するんですが、そんなお嬢さんと結婚するのが悪いという気もするんですけれども…。クラウス・マンは、結局のところ、グリュントゲンスを真には理解していなかったんじゃないかと感じます。主人公クルトの母親ははっきり労働者階級だと言っていますね。フォルクは、民族、大衆、国民といろいろに訳せますが、クルトには大きな意味があったのではないか。ナチスはフォルクというものを売りにしたんですけど。
大岡 ブルジョワの作家であるクラウス・マンが、フォルクとしてのグリュントゲンスを理解していなかったのではという御指摘ですが、どういうところでそうお感じになりましたか?
高田 グリュントゲンスはもっといい加減なところがあるんです。そこが魅力的なんですけれども、マンの『メフィスト』にはいい加減さの魅力が出てないなと思います。グリュントゲンスがエリカ・マンと結婚してすぐ別れる。クラウス・マンが劇作家ヴェーデキントの娘と婚約して結局別れます。グリュントゲンスもクラウス・マンもホモセクシャルなんですね。グリュントゲンスは当時としては珍しくホモセクシャルを堂々と公言していました。でも『メフィスト』では、グリュントゲンスにとって決定的な意味を持つはずのホモセクシャルということは書かれていない。グリュントゲンスはゲーリング(ナチス党の幹部。突撃隊を組織しプロイセン首相を務めるなど、一時はヒトラーの後継者に指名された)にも隠さなかったようです。1934年の「長いナイフの夜」(ナチスによる突撃隊などへの粛清事件。標的には同性愛者も含まれた)の時に、さすがに真っ青になって、ゲーリングのところに行って、「大丈夫か?」と聞いたというエピソードがあるらしいです。グリュントゲンスのほうがブルジョワ的なモラルに縛られていないと感じるんですね。われわれ日本人は、ブルジョワ的道徳と言われても、あまりピンと来ないんですけど、この劇の中でも階級が大きな意味を持っていると思います。
大岡 実像としてのグリュントゲンスはいわば労働者階級の一人であり、フォルクの一人であり、よくも悪くもいい加減で、プライバシーについても明け透けにものが言える男であって、ゲーリングのような権力者に対しても胸襟を開いてお付き合いをしていたかもしれないと。気取っていない男だったんじゃないかということですね。
高田 あくまで私の想像なんですけどね。だからこそ半分危ない橋を渡りつつ、旧共産党の人たちを助けたりもするわけです。人間として魅力的なものがあったんじゃないかと思います、少なくともクラウス・マンより。それとも、私がメフィストの演技に魅了されているだけなのかな。
■人類最大の悪に関わる
大澤 人類がやってきたことの中で一番悪いことと言えば、ナチスのユダヤ人に対する大粛清だと思うんです。過去にこれ以上に悪いことはしなかったのではないかと思うくらい悪いことです。ぼくたちは歴史の結果を知っているので、なぜこんなことをやるんだ、自分だったらやらない、と思っちゃうんですけれども、実際に起きた出来事で、そこに人が巻き込まれていくわけですね。グリュントゲンスが魅力的な人なのかどうかはわかりませんが、結果的にはこれに加担しています。歴史の中で、人が、絶対にありえないほどの悪に、どういうふうに関わってしまうのか。そのひとつの解釈が芝居の中で示されます。皆さんには、それをよく見てもらいたいと思います。グリュントゲンスは「すごいことになるぞ」と思って関わっているわけではないです。ユダヤ人が何百万人も殺されるとわかっていて決断するわけではない。でも歴史の判断としては、わずかながら、人類史上最大の悪に関わったことになるんです。
大岡 高田さんは『文学部をめぐる病い』という著書をお出しになっています。ここで書かれているのは、ナチスが台頭した頃に日本の文学者たちが何をしていたかということです。高橋健二というドイツ文学者がいます。私もヘルマン・ヘッセを高橋訳で読んでいて、リベラル文化の担い手というイメージしかなかったのですが、この人が大政翼賛会の2代目文化部長でした。初代は劇作家の岸田國士です。この本に出てくるドイツ文学者たちはエリートのくせに、「学者は所詮、文学をわかっていないんだよね」と言いたがる。そのことがなぜ戦争責任問題とつながっているか。客観的に見れば、戦争に協力していた彼らが、心の中では「俺はよくないと思っていたんだよね」と当事者性を回避してしまうわけです。曖昧な留保をして、当事者として責任はとらないというパーソナリティが透けて見えます。グリュントゲンスと違って彼らは生粋のエリートですが、いい加減さという意味では通じているところがあります。
高田 岸田國士が大政翼賛会の文化部長になったのは、内側から抵抗しようと考えたからです。まさにグリュントゲンスみたいに。でもこれ、全部後づけの理屈なんです。全てが終わってから、実は内面は違ったんだと言うわけです。岸田も高橋も公職追放になります。高橋は岸田をだしにしながら、自分も内部から抵抗しようとしたと言います。何もしないで放置するのではなく、何かをしようとしたと、人の話に託して言うんです。ドイツ文学だと、ハンス・カロッサ(ナチス政権下のアカデミー会員に選ばれるが拒否した)、エーリッヒ・ケストナー(ナチスの弾圧で出版活動を禁止された)。彼らはドイツに残ったが、内的亡命をした。心の中で亡命していたんだと。客観的に目に見える行動と心の中は実は違うなんて、しょっちゅうありますよね。ナチスみたいな大それたものが出てきた時に、それが目立つだけです。例えば、私自身の例です。学校教育法の改正がありました。あと10年も経たない内に、大変なことをやっちゃったなという事態になりますよ、きっと。ところが、私、今、私立大学の執行部にいて、この教育法に合わせて色々と変えなければいけない。心の中で思っているんです。困ったな、馬鹿げてるなと。でも、立場上、やらなくてはいけない。心と行動の違い。『文学部をめぐる病い』でも引用したんですが、哲学者ペーター・スローターダイクの『シニカル理性批判』という本があります。その中でファシズムを支える心理として、二重スパイの心理が説明されている。ナチスを支えるのは本当に心からナチスを信じている人ではない。二重スパイみたいな人なんだと。三重四重にもスパイみたいになって、一体、自分が何に加担しているのか、どこに加担しているのか、わからなくなってしまう。グリュントゲンスも、うまく二重スパイ的なことをやろうと思ったんだと思います。それがまさにファシズムを支えるシニカルな心のありようです。
大澤 ぼくの造語に「アイロニカルな没入」があります。これはシニカルなコミットメントと同じ意味です。「アイロニカルな没入」は、「俺は本気じゃなかったけど、こっちのほうが得だし、都合がいいからやった」と言ってコミットすることです。この時に、人は、本気じゃないというところを重視したがります。しかし違う。本気じゃなかったかどうかなんてどうでもいい。何をしたかが問題です。ナチスが何百万人もユダヤ人を殺した後に、「本気じゃなかった」なんて言ってもしょうがないわけです。でもね、考えてみれば、世間ってそういうふうに動いているんですよ。「ぼくはそう思わないけど、世間が許さないよそんなことは」とか言うでしょう。全員がそう言うんですよ。一人も世間様なんていない。「俺はそうじゃないけど、世間がさ」と言う人によって、世間はつくられています。まさに「アイロニカルな没入」。だからアイロニーの意識を持っているから免罪されると考えてはいけないと思うんです。問題は、没入にある。
■創作意欲の矛先はどこに?
片山 日本のことで考えると、岸田國士、難しいと思うんです。岸田は近代的な相対主義者で、世の中に常なる正解というのはないので、その場その場の状況に対して最大限理性的に考え続けなければいけないという立場でしょう。戦後の丸山真男(戦時体制の日本批判で有名になり、戦後民主主義の精神的支柱となった政治学者)だって結局そういうことを言ったと思うのですけれど。教条的に何かが正しいとは絶対思わないタイプの人間です。その跡継ぎは福田恒存(評論家、劇作家。劇団雲を結成し、シェイクスピアの翻訳でも知られる)だと思います。福田恒存は保守で右寄りと皆思っていますが、右でも左でも、「あなたが思っていることは本当なんですか?」とふっかけていく人でした。岸田と福田の戯曲を読めばわかるように、皆が道化みたいになって、無限に言葉を投げ合って、虚しい、みたいな感じです。物事に正解はないにしても、その時その時でいじっていけば少しは理性化するはずだという態度なんです。これをアイロニカルと言ってもいいし、私もほとんど同意はしているんですけど、でもそう言ってしまうとおしまいかなとも思います。岸田は岸田なりに本気だったと思うんです。自分が大政翼賛会の文化部長になっていれば、いつまで戦争が続くかわからない日本の現実に対して何かできると、ある程度、1%か10%か50%か、思っていて、その%がその日その日で変わって、最後は嫌になっちゃったんだと思うんですけどね。大政翼賛会のイメージは、全体主義的なものに付和雷同していったというのが、一般的な常識になっているかもしれませんが、日本の近代史に深入りしている方は必ずしもそう思っていない。政党が普通選挙法のもとでたくさん票をとろうと思ったんだけど、大恐慌時代で政策がうまくいかず、言えば言うほど、デタラメばかり言っていると批判され、テロ事件なんかで政治家がどんどん殺されていって、政党政治が失墜していく。残ったのは内閣と官僚と軍部であって、政党に結集されるべき国民の意志が政治に反映されにくくなった。議会の空洞化が起きた。そこで力を失った政党がいがみ合っても何もできないから、一つの党にまとめようと、近衛文麿が大政翼賛会をつくった。日本の国家機構は縦割りだから、一党独裁になんてなりようがない。政党の力をまとめることによって、軍部や内閣に対抗できるような力をつけていくというのが、大政翼賛会の当初の理念だったはずです。そこに議会の枠を越えた国民運動を広く行うセクションとして文化部もできて、岸田國士、高橋健二が関わるわけですね。当時はいつ戦争が終わるかなんてわからないわけでしょう。下手すれば一生かもしれない。1941年の途中まで、「日本は、日中戦争はしていても、第2次世界大戦に参加しないで、ドイツが勝ってイギリスやオランダが負けて、アジアにおけるヨーロッパの植民地は日本のものになって、そこで国力を培養しながら、アメリカとの戦争を先延ばしにしつつ、対抗してゆける。大日本帝国は安泰だ」とか、多くの日本人は信じていたわけだから。果てしなく続いていくかもしれない戦争の途上で、今は「冬の時代」だから我慢しましょうと言っても、余裕のある人は我慢できるかもしれないけど、(治安維持法違反容疑で逮捕された俳優で、「新劇の神様」と呼ばれた)滝沢修とかやっぱり我慢できない。(関東軍参謀として満州事変、満州国建設を指揮した)石原莞爾なんて「昭和42年か昭和43年あたりに第3次世界大戦が起きるからそれまで我慢する」とか言っている。そんなの真に受けたら年取って死んじゃいますよ。朝日新聞に居て、大正デモクラシーの論客だったはずの長谷川如是閑が、戦争中、日本文化論を量産するわけです。今から読むと、戦争中らしく、いかにも日本は素晴らしいみたいなことを言っていると思うけど、「観念的に精神主義で日本を過大評価せずに、和服や畳の生活とか、そういう実感から日本のリアルを考え直さないといけない」とか書いている。彼にしてみれば、抵抗のつもりなんです。効果があるとやっぱり思っている。「アイロニカルな没入」に8割同意するんだけど、2割は実に賭けているところがあったと思う。コミットメントしないで、戦後に「いっさい戦争協力しませんでした」と言うために身を潔白にしておこうと思えば、死ぬまで戦争が続いた時、全人生を隠れて過ごすことになるわけですからね。今、芝居がしたい、映画をつくりたい、小説を書きたい、作曲をしたい、絵を描きたい人はどうするのか。画家の藤田嗣治でも作曲家の山田耕筰でもいいんですけど、こういう人たちは何かしてしまうわけですよね。何かするのを止めることはできない。はっきり言って後から責任とってもらうしかないんだけど、と言うか、責任のとり方も問題なんだけれど、そういうことですから、一概に言いにくい。そう考えた時に、アイロニカルでシニカルだからと、政治の問題と現実の問題を皆一緒にして責任とってないという話にしてしまっていいのか。いや、してしまっていいのかもしれないんだけど、それを強く言ってしまうと、一刀両断になりすぎちゃってね。私は、岸田はけっこう好きではあるんです。戦後も悔恨の中で困って早く死んだと思いますけど、それなりの人生だったんじゃないかと思うんですよね。
※オルタナティブ演劇大学の議論の全容は、演劇祭終了後に、記録集として発行する予定です。
構成:西川泰功