先日、8年目のスパカンファン・プロジェクトとなる『ANGELS』の公演が大盛況のうちに終了いたしました。
ご来場いただきました皆様、誠にありがとうございました。
あっという間に終わってしまった夏を惜しみながら、メンバーはそれぞれの日常へ、ニヤカムさんはフランスへと帰っていきました。
またすぐに同じ笑顔で会えることを願って・・・!
SPAC文芸部の横山が、過去のブログに加筆する形で、以前と比べて大きく成長した本作品について執筆いたしました。どうぞお読みください。
=============
ANGELSを見ながら、カメルーンみたいな日本と世界を夢想する
SPAC文芸部 横山義志
2017年8月19日
『タカセの夢』につづいて、カメルーン出身の振付家メルラン・ニヤカムさんが静岡の子どもたちと『ANGELS』を作ってくれた。二年前のワーク・イン・プログレス公演とも昨年の公演とも、それどころか二週間前の稽古とも、全然ちがう作品になっていて、驚いた。『タカセの夢』とは、つながっているようで、だいぶちがう世界。ニヤカムさんの舞台を見るたびに、そこにいる子どもたちがうらやましくなる。あまりにかっこよくて、美しくて。こういう美しさというのは、日本であまり見る機会がないような気がする。自分の美しさに確信を持っている美しさ。
『タカセの夢』をはじめるときに、「日本の子どもたちがアフリカの子どもたちみたいにおしりを振ってくれるようになったらいいね」なんて話をしていた。実際に作品づくりがはじまって、ちょっと分かった気がする。踊るアフリカの子どもたちが持つ不思議な魅力はきっと、自分のおしりが、そしてその動きが美しい、ということに確信を持っているところから来ていたんじゃないか。ニヤカムさんは子どもたちに、「朝、鏡に向かって、自分はなんてきれいなんだろう、かっこいいんだろう、って言ってみるといい」という話をしていた。
でも美しさは、だれかが見ないかぎり、存在しない。そして他のだれかと分かちあえば分かちあうほど、美しさは増えていき、強くなっていく。分かちあうものとしての美しさ。そして誰かより美しいのではなく、それ自体としての美しさ。人の美しさを見つけることで、自分の美しさも発見することができる。だけど、それは他の誰かと同じものを見つけるからではなくて、同じ視線で、ちがうものを見つけるからだろう。そもそも体にも動きにも、他の人と同じものなんて一つもない。
動きの美しさに触れることのメリットは、それが伝染することだ。あくびが「うつる」ように、笑顔も「うつる」。どうせなら、笑顔の人を見ていた方がいい。ヒトにはミラーニューロンとか「ものまね細胞」とか呼ばれる神経細胞があって、目の前にいる人の動きを自然と真似してしまうという。踊っている人を見ると体が動いてしまうのも、そのためだ。どうせなら、すてきな動きを見ていたい。同じくらい足が高く上がらなくてもいい。同じ呼吸になるだけでも、その人が見つけた美しさが、体のなかに入ってくるのかも知れない。
2014年に『タカセの夢』のツアーではじめてカメルーンに行ってみて、人も踊りも本当にいろいろで、驚いた。カメルーンには200以上の言語があるという。ちょっと山を越えると、そこには別の民族が住んでいて、別の言葉を話していて、別の踊りがある。首都ヤウンデには、そんないろいろな人たちが国中から集まっていて、街中でもことあるごとに、いろんな踊りを踊っている。言葉が通じないときにも、踊りは大事なコミュニケーションの手段になるらしい。ニヤカムさんは池田町内会の夏祭りでも、すぐに盆踊りの輪に入ってくれた。違っていても、一緒に分かちあって、楽しめるものがあるということ。料理みたいに。
日本列島にはいろいろな歴史の偶然で、今では多くの人が同じような言葉を話すようになった。でも昔も今も、このあたりには、南から北から、西から東から、いろんな人たちが次々とやってきている。もしかしたら、違う歴史の偶然で、日本もカメルーンみたいな国になっていたかも知れない。実際子どもたちの顔を見てみれば、顔の形も肌の色も、カメルーンに負けないくらい、すごくいろいろだ。
近所の子どもたちに習い事を聞いてみると、習字、サッカー、バレエ・・・といった答えが返ってくる。それぞれがやってきたところを地球儀の上にマーキングしてみたら面白いかも知れない。いろんなところで生まれた、すてきな体の動きを、時間をかけて身につけていく。大人だって、Tシャツを着てジーンズをはいて、あるいはワンピースを着て、あるいは背広にネクタイで、お昼はラーメンにしようか、スパゲティーにしようか、カレーにしようか、などと考えている。縦割りの歴史なんか気にせずに、舌の先から足の先まで、みんな毎日、ちがう体のちがう動きを身につけていくのを楽しんでいる。
国ができて、国境ができて、でも国境も少しずつ簡単に越えられるようになってきた。地球が一つになっていく。でもそのときに、言葉も一つでいいんだろうか。言葉には「同じ言葉」がある。「同じ」でないと通じないから、「同じ」ものがあるということにしてしまう。「ちがう」ものがあっては通じないので、困ってしまう。だけど体には、ヒトはみんな大体「同じような」体ではあっても、「同じ」体はない。それでも、笑顔だってあくびだって、同じじゃないけど、通じてしまう。「同じ言葉」ではなくて、「同じような体」を持っていることで結びつくような、「一つになる」別のやり方もあるんじゃないか。そしてそのきっかけになるのは、他の人の美しさを見つけることなんじゃないか。「美しい」という気持ちは、同じだけど、同じじゃない。同じ「美しい」という言葉を使ってみても、そのときどきで、見つかるものも、感じるものも、全然ちがう。だけど、それが大事なもの、うれしいもので、分かち合うほど増えていき、強くなるものだということには変わりがない。そんな美しさが、地球が一つになっていくときに、みんなが話す言葉になっていけば、もっと楽しい世界になるんじゃないだろうか。
この静岡の子どもたちが、そんな世界を作るために、日本平の丘の上でニヤカムさんと夏休みの日々を過ごしているのかと思うと、やっぱりうらやましく思えてくる。
(※2015年8月公演時のブログに加筆)