3年ぶりに海外作品の招聘が実現した「ふじのくに⇄せかい演劇祭2022」。5月5日に行われた「広場トーク」では、SPAC芸術総監督・宮城聰氏に加え、ブルガリア、スイス、南アフリカから来日した演出家たちが、新緑爽やかな駿府城公園に集まった。
宮城聰:
僕は、ここ二年間あまり物理的に日本が鎖国のような状態になったそのときに、この社会の、ある種の自己防衛本能みたいなものが、何十年かぶりに再び頭をもたげたように感じたんです。
それは「異質なものをなるべく遠ざけよう」「異なるものを排除している方が安全だ」といった、半分は迷信のような、しかし、恐らく人間の心の奥底には昔からあるものです。
そういう息苦しい気分が、日本全体に漂っていた。そんな中で我々の世界の窓を、閉じこもっていた僕たちの心の窓を開けてくれるようなアーティストたちが集まってくれて、とても嬉しいです。
壇上に並ぶのは、イヴァン・ヴァゾフ国立劇場『カリギュラ』を演出した、ブルガリアのディアナ・ドブレヴァ氏。自身の半生を描いた『私のコロンビーヌ』を演出・出演した、コロンビア出身・スイス拠点のオマール・ポラス氏。そして回遊型演劇『星座へ』を上演した、南アフリカのブレット・ベイリー氏。
▲左から:司会を務めた中井美穂、ブレット・ベイリー、宮城聰、ディアナ・ドブレヴァ、オマール・ポラス
コロナ禍という「荒波」を超えて
しかしこの集合、簡単に実現したものではなかったようだ。まずは『カリギュラ』チームが、到着初日からさまざまなハプニングやトラブルに見舞われた。
空港に着いてすぐ、主役を演じる俳優が隔離施設へ送られ、どこへ行ったのか把握できない状況に。「絶対に日本で公演はしたくない。もう帰りたい」と電話で訴える俳優を何とかなだめたものの、今度は上海のロックダウンの影響で船便が遅れ、舞台装置も衣裳も日本まで届かないことが判明。
ディアナ・ドブレヴァ:
その日はもう死んでしまおうかと思いました(笑)。でも最終的にSPACのスタッフの皆さんが、たったの2日間で、すべての衣裳も縫ってくれたし、装置も作ってくれて。もう全部、提供してくださったんです。本当に、心の底から感謝しています。
▲『カリギュラ』静岡芸術劇場
▲千穐楽後に舞台上にて
続いてコロンビア出身、現在はスイスを拠点に活動する演出家オマール・ポラス氏。SPACとは20年以上の付き合いになり、過去10回ほど来日している。だが日本の観客の前で、自分が舞台に立つのは初めて。それは、オマール氏にとっても特別な体験だったようだ。
オマール・ポラス:
この作品を通じて、ここ静岡で、皆さんと自分の人生の物語を分かち合えるのは本当に最高の経験です。ですがSPAC俳優の皆さん、宮城さん、ディアナさん、そして演劇業界の皆さんが客席にいると思うと、ちょっと、かなり、緊張しました。とはいえ気持ちのよい緊張でしたが。
中井美穂:
私も昨日拝見して、全ての劇場でこのお話をやればいいのに!って思ったんですよね。特に「宮城さんもこれ(自身の半生の舞台化)をやってみたらいいのに」って。
宮城聰:
でも、オマールさんのような波瀾万丈の人生じゃないですからね(笑)。彼は今フランス語でしゃべり、芝居もフランス語でやっていますが、もともとはスペイン語が母国語なんです。「故郷を失う」というよりも「世界が故郷になっていく」、そんな生き方をされている。
(『私のコロンビーヌ』も)最後に「自分は演劇という母胎の中にいる」というところへ展開していきますが、本当に、オマール氏の人生そのものなんです。
▲『私のコロンビーヌ』静岡芸術劇場
最後にマイクを握ったのは、日本平の森で『星座へ』を上演するブレット・ベイリー氏。5月2日に来日しリハーサルをする予定だったが、4月28日に急遽告示された3日間の強制隔離措置の影響で、トーク開始10分前にようやく会場に到着した。
この作品が生まれたのは、厳しいロックダウン下にあった南アフリカ。劇場が一時的に閉鎖を余儀なくされた一方、アーティストに対する公的な支援は一切なかった。そのような状況下で、ブレット氏は演劇に対する自分の考え方について深く考えさせられたという。
ブレット・ベイリー:
私はクリエイターとして、ステージの上で一体どういうものを具現化しようとしているのか。それは火、炎なのだと思いました。出演者の心から燃え上がる気持ちが、ステージ上でいかにも炎があるように感じられる。そういうエネルギーをつくり出そうと。
人間は原始の時代から、火を囲んで物語を語り合うものです。火は、暗闇の中で灯りと温もりを与えてくれる。もう少し象徴的にいえば、人間のひらめき、知的な火花のようなものと捉えられる。そういった思考から生まれた作品です。
ブレット氏が暮らす農場には、森の中を走る小さな川がある。それに沿っていくつか火を熾し、27人のアーティストがそれぞれ別の夜に、違う場所で、異なるパフォーマンスを行う。南アフリカで初演された『Constellations(邦題:星座へ)』の初演はそれを1週間に3日×4週間続けたという。ずっと自宅に閉じ込められていた観客たちにとって、夜の森へといざなわれる時間は、身も心も息を吹き返すような体験だっただろう。
「演劇はなぜ必要か」――演出家4人の応答
いよいよトークは本題「演劇はなぜ必要か」へ。司会の中井氏が「このコロナ禍、そして戦時下で、演劇の関係者が必ず心に問うていたことだと思う」と言う通り、多くの演劇人が向き合わざるを得なかったテーマだろう。一方で、言葉にしようとすればするほど歯がゆさや無力感を感じた演劇人、演劇ファンも少なくなかったのではなかろうか。
そんな中で誰より早く、また精力的に「演劇が必要である理由」を語り続けていた演劇人が宮城氏でもあった。それぞれにコロナ禍という「波風」を乗り越えて、静岡にたどり着いた三人の演出家たちは何を語るのか。
まずディアナ氏は「非常に重要なテーマなので」と、自ら書いてきたスピーチを読み上げた。全文はこちらで公開しているが、印象的だったのはこんな一節だ。
ディアナ・ドブレヴァ:
「演劇は私たちが生きていることの自覚を与えてくれるだけでなく、なぜ生きているのか、どうすれば一緒に生きていけるのか、という貴重な知恵を与えてくれます。
(中略)演劇の神殿である劇場は、人類がそのつながりと全体性を経験する場所です。スペクタクルは私たちの壊れた人間性、つまりボロボロの服を修繕するための針です。人類のまともな未来がどこかで発明されるとしたら、それは劇場の中に違いありません。」
劇場は人間性を回復し、人類としての全体性を思い出す場所だと、ディアナさんは言う。オマール氏は、アントナン・アルトーの「演劇は必要である。それはペストのようなものであるから」という言葉を引きながら、次のように話した。
オマール・ポラス:
これはペストが「感染るものであるから」ではなく「何かをあらわにするものであるから」という意味です。演劇を見に行くという行為は、一つのあらわれ、顕現を目にしに行くもの。生命の奇跡、創造の奇跡を目にしに出かけるのだと思います。
そして観客として感じるのは、劇場が私たちの文明において、人々が思いや経験を共にする・ひとつになるということを可能にしてくれる、最後の場所であるということです。この経験は、私たち人類が持っている最も大きな豊かさ―空想力を目覚めさせます。
最後に、演劇とは解毒剤のようなものだと思います。昨日も『ギルガメシュ叙事詩』に出演する俳優たちを見て、私はシャーマンの治癒行為を目にしているように感じました。そこには一種の魔法が働いているように見えました。
▲『ギルガメシュ叙事詩』駿府城公園 野外特設ステージ
演劇は、分断を生み出す毒か? 孤独を癒やす薬か?
ブレット氏は「演劇という言葉が非常にフォーマルな(敷居が高い)ものに感じられてしまう」と指摘した上で、アフリカの先住民たちの日常に溶け込んだ原始的な「演劇的なパフォーマンス」に言及した。
ブレット・ベイリー:
僕が住んでいるのは、原始時代の一番最初の形をした人間たち、サン族と呼ばれる人たちが住んでいた場所です。彼らは自分たちの住んでいる世界について、物語を語り合うだけではなく、パフォーマンスで表現しあっていました。
僕は、何かを演じる、ストーリーを表現するという行為は、人間本来に備わった要素だと思います。食べることや呼吸のように、必要というよりも自然としなきゃいけないもの。
一方で、ブレット氏は「独裁者や、いかにも人々のためを思って働いているように見える大きな体制が、市民の中にある意見を埋め込むための武器として使うこともできる」という「演劇の危険性」に警鐘を鳴らした。南アフリカでも他人を迫害し差別する口実として、あるいはそのような考え方を押しつけるために演劇が使われてきた歴史があるという。
ブレット・ベイリー:
ですから演劇というものを、あまりにもロマンティックに考える、そういう視線を向けることに躊躇するし、気をつけなければいけないとも思います。
「精神の先端医療」としての演劇
宮城氏もまた、1930年代後半の日本の演劇人の多くが戦意高揚のために演劇を利用していたことを指摘。一方で、世界中どこでも、どのような時代でも演劇というものは存在してきた事実を踏まえ、「”人間には演劇が必要だ”というのは、事実としてはどうやらそうらしいが、今の時代の我々にとって本質的な理由をどう抽出できるか」と投げかけた。
宮城聰:
僕は「演劇って、もしかすると精神の先端医療なんじゃないか」って、最近考えるんです。
人間って本当は、皆すさまじい孤独の中で生きている。まだ言葉を知る前の赤ちゃんは、世界中からのぞき込まれているじゃないですか。「泣いてるな、どうしてだろう」「体を動かしてるな、どうしてだろう」。世界中がその子をのぞき込んで、その子の中で起こっていることを一生懸命探り出そうとする。
ところが、言葉を覚えた途端に、誰ものぞき込んでくれなくなる。お腹が空いたとかおしっこしたいとか言えるようになっちゃうと、もう誰も、それ以上のぞき込んでくれないんです。この時に人間の世界から、チョキンと切り離されてしまう。宇宙の孤児になってしまう。そして、嘘をつくことを覚える。
そんな「世界から切り離されているという孤独」を、多くの人はなだめすかし、折り合いをつけながら生きている、と宮城氏はいう。だがその「途方もない孤独」を誰もが地雷のように心のなかに押し隠している。それが、たとえばコロナ禍でそうだったように、人が孤立という「崖っぷち」に立たされたとき、ふいに爆発寸前になる。「もう生きていけない」と。
宮城聰:
そういうときに演劇が、ぎりぎりの崖っぷちにいる人にとって救いになるんじゃないか、と思ったりするんです。
舞台にいる俳優ほど何の打算もなく、全力で人と向き合おうとする人って、あまりいないじゃないですか。それと向き合うことで、この、孤独の崖っぷちに立たされてしまった人が、何とか生き延びられる。劇場はそういう「精神の先端医療」じゃないか、なんていうことを最近思っています。
「劇場は、人々が思いや経験を共にするということを可能にしてくれる、最後の場所」──演劇の持つ、暗闇を照らす炎のような根源的な力。それは人間の根っこにある暴発しそうな孤独を鎮め、癒やす「薬」や「手当て」になる。だが、というより、だからこそ、別の誰かを自分の欲望に従わせようとして使えば、世界を分断し憎しみや対立を生み出す「毒」にもなりうる。それだけパワフルなものなのだ。――四人の演出家たちの真摯な対話から、筆者はそんなメッセージを受け取った。
そしてこのトークが、休日を楽しむ人々でにぎわう公園の「広場」で、なごやかに行われていた意味にも思いを馳せずにはいられなかった。犬の散歩をしている人や子どもと遊んでいる人にとっては、すぐには入っていきづらい話題だったかもしれない。けれども、その場の設えは「あなたの席も用意されているよ、扉は開いているよ」と言っているように感じた。これからもそんな「劇場」の扉に、この街のさまざまな場所で出会えることを願う。
構成・執筆:石神夏希
ふじのくに⇄せかい演劇祭2022
広場トーク
2022/5/5(木・祝)16:30~17:30
会場:フェスティバルgarden(駿府城公園 東御門前広場)
パネリスト:
ディアナ・ドブレヴァ(演出家)/『カリギュラ』
ブレット・ベイリー(劇作家・演出家・デザイナー・インスタレーション・アーティスト)/『星座へ』
オマール・ポラス(演出家・俳優)/『私のコロンビーヌ』
宮城聰(演出家・SPAC芸術総監督)/『ふたりの女』『ギルガメシュ叙事詩』
司会:中井美穂(アナウンサー)
通訳:
ポポフ・ヤンコ(ブルガリア語・日本語)
コーリー・ターピン(英語・日本語)
石川裕美(フランス語・日本語)
https://festival-shizuoka.jp/