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2012年3月1日

【コラム・劇場文化②】『グリム童話~本物のフィアンセ』 スティーブ・コルベイさん

公演当日、劇場で皆さんにお渡ししている冊子、<劇場文化『グリム童話~本物のフィアンセ~』>がウェブ上でも読めるようになりました。

こちらは、『グリム童話』2作品の英語字幕の作者、スティーブ・コルベイさんのコラムです。

『グリム童話~本物のフィアンセ~』
観劇の前後に、読みごたえたっぷりのコラムを是非あわせてお読みください。

王様が目を覚ます方法
  ――『本物のフィアンセ』の中の慰戯(いぎ)
と劇中劇~

スティーブ・コルベイ Steve CORBEIL

 童話は文学のパッチワークである。小説と異なり、多くの場合は口承文学として生まれ、語り継がれ、地域や聞き手によってストーリーや文体(ことば)が変化する。そして、紙の上で文字になっても化石化せず、時代や読者の反応によって進化する。童話はパッチワークと同様に時間の流れと共に古びて色あせ、はやらなくなった部分が取り替えられる。そして、一つの物語を創造するために、様々なモチーフが集まり、様々な伝統、思想、世界観を混ぜ合わせ、新たな作品に生まれ変わっていく。しかし、そのパッチワークが完成すると原典が見えなくなる。それは原典の一片一片を繋ぎ合わせたもの以上の大きさと厚みを増したものへと変化するのである。このように考えると、童話の創作はすべて、翻案であり翻訳である。その過程の一つ一つに解釈がこめられているのである。

 今回、宮城聰の演出で上演されるオリヴィエ・ピィの『本物のフィアンセ』はグリム兄弟のメルヘンの解釈として捉えても良いだろう。グリム童話だけではなく、様々な神話やキリスト教の作家、西洋の哲学者、21世紀のディスクールをも取り上げている。そして、それぞれの引用、借り物は、劇のコンテクストで新たな意味を持ち、さらに迫力を増す。また、作品は様々な言語への翻訳がされており、そこにその言語的特徴や背景、また翻訳者自身の解釈も加味され、さらに新しいものに創り上げられていることも事実だろう(宮城演出では日本語で上演され、英語の字幕が付けられている)。既存のストーリーや文体はそれが置かれる環境によって変化し、時として全く別物にもなる。ピィの作品は叙情劇として知られているが、『本物のフィアンセ』と他の『グリム童話』のシリーズ作(『いのちの水』と『少女と悪魔と風車小屋』)を通して、その叙情の必要性とパッチワークを披露するための理想の媒体として、この劇を理解することができるだろう。このように『本物のフィアンセ』の本質に迫るために、作品の中に埋め込まれている哲学の概念と、劇の手法について紹介したい。フランスの哲学者ブレーズ・パスカルの『パンセ』で登場する「慰戯(いぎ)」(フランス語でdivertissement)と多くの西洋劇にある「劇中劇」(フランス語でthéâtre dans le théâtre)である。

 この作品について、まず中心人物である継母と少女の間の軋轢と争いごとに着目してみる。 継母は自身の苦しみ、不安、怒りを鎮めるために周囲の人間を操り、また混乱させようとしている。例えば、少女や庭師に無意味な仕事をさせたり、王様に戦争をけしかけたりする。また、庭師に対して「そうしたら、働くことの意味が分かるというものよ。無駄な質問からも解放されるわ。」と言う場面もそうである。これらの行動は、パスカルの慰戯の概念を投影していると考えられる。慰戯とは、単に娯楽という範囲の意味ではなく、何か夢中になってしまうもの、つまり仕事も同類である。慰戯は人間にとってもちろん必要なことではあるし、慰戯がなければ現実の生活は成り立たないが、それが昂じると自分のアイデンティティ全てが慰戯になってしまい、世俗的な世界のことしか考えられなくなり、人生における大切なものを見失ってしまう。『本物のフィアンセ』では、少女以外の全ての登場人物が名前ではなく職業名(庭師、馬丁、王様、きこり、肉屋、名優、天使)、または家庭での役割としての地位(父親、継母)と関連する名前で呼ばれる。

 少女は、何か与えられた職業名のような名目の中にアイデンティティは求めない。人間のアイデンティティはもっと複雑で、可変的なものだと知っている。少女の人生にとって大切なことは 自分自身の深いところで何かを感じること、そして愛なのである。また、人生には様々な理解できないことがあり、それを受け止めなければならないことも悟っている。「今ここにいる自分」をそのまま受け止めることで、欲望から開放され、自分に対しての肯定感と満足を得ることが出来る。王様は少女の力によって、そのことに気づき、戦争にもはや意味を感じなくなり、むしろこの不確実な世界や可変的な人生の素晴らしささえ感じるようになるのである。ここで少女は「演じること」の力を借りて、王様にそのことを気づかせるのである。

 『本物のフィアンセ』では「演じること」は重要なテーマである。それは劇団に参加する人物が出てくる場面に現れるが、彼らはこの劇の中で演劇を上演する。つまり劇中劇が登場する。劇中劇は西洋の演劇では重要な手法であり、有名な戯曲の筋立ての一部として構成される。代表的な例として、シェイクスピアの『ハムレット』、コルネイユの『イリュージョン・コミック』、ジュネの『女中たち』だ。簡単に言うと、劇中劇が行われると、劇の登場人物の一部は別のキャラクターを演じ、他の人物が観客に扮する。ある意味で劇の観賞を模倣する。多くの場合、劇中劇に参加する人物は鑑賞する人物に対して直接的にうったえかけるのではなく、間接的に表現しようとしている。そして実際に劇を鑑賞する観客はその劇のリアリティーを高く感じることが可能となる。つまり、劇中劇によって本来の劇が現実味を帯びたものとなり得る。一方、それはただの幻覚であり、逆に全て演技と捉える観客も存在する。

 『本物のフィアンセ』の劇中劇には二つの大きな特徴がある。ピィは劇中劇に自身の過去の上演作品である『少女と悪魔と風車小屋』を取り込んでいるが、これにより「演じる」ことの重要性がいっそう際立っている。また、その劇中劇での俳優たちの演技の質が決して良いものではなく、むしろ下手な演技であることは興味深い。結果的に、この劇にはリアリティーを感じさせるところがないにも関わらず、登場人物に大きな影響をあたえるのである。つまり、登場人物が「演じること」を意識することによって、慰戯の持つ危険性を表していると言える。そして、終わりに劇団が少女(本物のフィアンセ)と組んで、王様とその少女の互いの愛の告白を再現し、記憶を失った王様はその芝居により自身の本当の気持ちを思い出す。その劇中劇で明確になることは、人はいつでも演じているが、舞台の上では意識的に演じているため、演じている自分を客観的に見ることができるということである。少女は「でも、自分自身の役を演じて、自分を取り戻し、本物のフィアンセに再会したのね。」と述べ、王様は「芝居をやめるのが怖くなった。また、君を失うことになりはしまいか。」と述べるシーンがある。元来人間は社会や家庭などにおける役割があるが、それらを劇中劇で「演じる」ことによって、その役割を確認しやすくなるのである。劇は現実よりリアリティーに近いと言える。役割を演じると、時に鏡の迷路に入ってしまったが如く、本来の自分を喪失してしまいがちだが、その時こそ劇の力を借りて自身を取り戻すことができるのであろう。

 本作品はピィによる新しい手法で昔の作品が新しく創りかえられたものである。それは昔の作品のメッセージを伝えるだけではなく、新しい感動と希望を与えるものへと進化している。「演じる」ことを用いて、劇に対する新たな可能性と期待を観客に抱かせる。そして観客は劇によって人生への不安を超えることが可能となるのである。その過程を巧みに見せてくれるのが、慰戯と劇中劇が鮮やかに織り込まれたピィの作品であるといえるだろう。劇は現実と非現実の中間にあるものである。魔法と現実、古代と現代、日常生活と非日常生活の間に位置する童話もまさにそれと同じである。さまよえる現代人も、時にはこの中間的な場所を訪れるべきだろう。そこで本当の自分に気づくかもしれない。

【執筆者プロフィール】
スティーブ・コルベイ
1978年生まれ。静岡大学専任講師。仏・日本文学研究家。『少女と悪魔と風車小屋』と『本物のフィアンセ』の英語字幕の作者。著書に「石川淳とパフォーマティヴィテ」『石川淳と戦後日本』(ミネルヴァ書房、2010年)など。