劇場文化

2013年6月16日

【生と死のあわいを生きて】小島章司の踊った日本とスペイン(山野博大)

 小島章司は、1939(昭14)年10月1日、徳島県に生まれた。はじめは音楽家を志し、上京して武蔵野音楽大学声楽科に入った。しかし彼の興味は早い時期からスペイン舞踊に移り、1966(昭41)年には、26歳でスペインに留学する。直後の1967(昭42)年、スペイン国立舞踊団に入団し、直後に行われたソ連ツアーの一員に加えられる。彼の転向は大正解だった。
 1968(昭43)年には、歌手のラファエル・ファリーナに認められ、一座のスター・ダンサーとしてマドリードの劇場での長期公演で踊る。以後、スペイン各地でさまざまな舞台を踏むが、若さにまかせて1カ月に50回も踊った無理がたたり、3年目に過労でからだをこわしてしまう。
 病気療養中の踊れない時期に、彼はスペイン人にスペイン舞踊を教えた。しかしこれは、まったくありえない出来事だった。スペイン生まれの歌舞伎役者に指導されて、はたして日本人は納得してついて行くだろうか。誇り高きスペインのダンサーたちが彼に教えを乞うようになったのは、小島が日本人のダンサーとして各地の舞台で評判を得ただけではなく、スペイン国営テレビでその映像が全国に流れ、広く名前を知られるようになっていたからだ。1971(昭46)年のフラメンコ・フェスティバルでは、日本人として初めて踊る機会を得たし、またパリのスペイン民族舞踊団に振付者として招かれるなど、活動の範囲を着実にひろげて行った。
 日本での活動は、スペイン行きから10年後の1976(昭51)年から開始する。帰国し《フラメンコの夜》で全国各地で踊った後、1980(昭55)年には、東京にスタジオを開設し、後進の指導と創作活動に力を注ぎ始める。

 彼が日本人でありながらスペイン舞踊にのめり込んだことが、それまでになかった舞踊的成果をもたらす結果を呼んだ。彼は四国の出身なので、全国から何百万人もが集まる大イベントの阿波踊りに親しんで成長したことは言うまでもない。彼は日本の芸能の良さ、楽しさ、スケールの大きさを熟知している。その上、彼の生れたところは、江戸後期に各地で流行した「よしこの節」の流れを色濃く残す土地とのことで、京風の雅やかな踊りの持つ優しい雰囲気にも親近感を覚えると、彼から聞いたことがある。そんな環境が、彼のスペイン舞踊に影響し、独特のカラーを加えたのだ。
 日本に古来から伝わる芸能は、年齢の高い者にも門戸が開かれている。例えば能の秘曲である、世阿弥作の可能性が高いと言われる『関寺小町』には、100歳の小野小町が登場する。つい最近の国立能楽堂創立30周年記念公演で上演され、83歳の能楽師が舞ったが、若さが売り物のクラシック・バレエとはかなり様子が違った。
 73歳になる小島章司は、今も現役のダンサーとして日本ばかりかスペインの舞台でもりっぱに通用する。2011年12月の《小島章司フラメンコ舞踊団2011》東京凱旋公演において、スペイン開催のフェスティバル・デ・ヘレスに招かれて上演した『ラ・セレスティーナ~三人のパブロ』を再演し、自ら魔女セレスティーナ役を演じて日本人ならではの舞踊表現のすばらしさを示した。この舞台で彼は第32回ニムラ舞踊賞を受賞している。2009(平21)年には、スペイン国王より文民功労勲章エンコミエンダ章を贈られている。彼はスペイン舞踊の世界へ、高齢者の演ずる日本的な芸の奥の深さを導入し、それでスペイン、日本の両国のファンを納得させた。世界的に高齢化が加速するこの地球上で、彼のやっていることは大きな意味を持つ。
 こんど静岡芸術劇場で上演される『生と死のあわいを生きて~フェデリコの魂に捧げる~』は、1936(昭11)年に起きたスペイン内戦の犠牲になった詩人であり、劇作家のフェデリコ・ガルシーア・ロルカに捧げられている。小島のロルカへの共感は深く、これまでに『ガルシア・ロルカへのオマージュ』(1998年)、『FEDERICO』(2006年)など、多くの作品を発表してきた。彼がスペイン舞踊への理解をいっそう深め、真摯なロルカへの傾倒ぶりを舞踊で表現した作品の成果が期待される。高齢になっても、民衆を守る立場を常に意識し、芸術の革新を忘れない小島章司の変わらぬ「新しさ」に注目しよう。

【筆者プロフィール】
山野 博大 YAMANO Hakudai
舞踊評論家。1936年4月10日、東京生まれ。1957年より批評、解説等を執筆。舞踊関係各賞の選考、各地コンクールの審査にあたる。武蔵野音楽大学、有明教育芸術短期大学で舞踊史を講義。舞踊批評塾主宰。2006年、文化庁長官表彰。

2013年6月15日

【室内】聞こえないイメージ、見えない声(宇野邦一)

 メーテルリンクの『室内』が、演劇としてかなり風変わりな作品であることは、しばらく前から聞かされていた。ある家の庭から、居間で夕べの団欒のときをすごす家族の姿が、窓越しに見えている。そのありふれた光景を見つめている人物のせりふを観客は聞くことになる。その家族に起きた不幸を知らせようとしてやってきた人物は、幸福そうな一家の姿を見て、不幸なニュースをどんなふうに知らせたものか、ためらっている。私の注意をひきつけたのは、ただ見つめられるばかりで会話が聞こえてこないという「室内」と、一方ではそれを見つめて注釈するだけの室外の人物という、その異様な構成であった。
 それは少しヒッチコックの映画『裏窓』のようなもので、骨折で療養中の主人公は退屈しのぎに望遠レンズで向かいのアパートの部屋を覗き見しているが、その部屋の音声はもちろんサイレント映画のように聞こえず、やがてそこで事件が起きるのだ。『室内』は1894年に発表されている。それはリュミエール兄弟がはじめて映画を公開する前の年だ。もちろんメーテルリンクの演劇が、映画の出現となにかかかわりをもつとは思わない。しかしただ目に見えるだけの光景があり、ただそれについて語るだけの声がある、という『室内』の状況は、何か風変わりな趣向より以上のことを意味しているのではないか。すでに写真はただ見つめられるイメージを、そして電話はただ聞かれるだけの声を、人類に与えつつあった。そこで演劇もまた、見える演劇と、聞かれる演劇とに分離するということが起きたかもしれない。そのように視覚と聴覚が分裂するのにしたがって、そこに未知の何かが知覚されるようになる。そういうことが演劇にも、やがて映画にも起きたのである。
 メーテルリンクは他の戯曲『群盲』や『忍び入る者』で、こんどは盲目の人物を登場させ、ただ闇の中に響く声の演劇をつくりだしている。聞こえないイメージとともに見え聞こえてくるもの、見えない声とともに聞こえ見えてくるものに、確かにメーテルリンクは注意をむけたのである。
 それにしても〈不吉な知らせ〉というものは、演劇の重要なモチーフであり続けてきた。
 自分のまがまがしい過去を知らされるオイディプス王、父親の死の真相を知るハムレット。
 しかし不幸な出来事それ自体よりも、出来事を知らせることをめぐって演劇を構想したという点でも、メーテルリンクは斬新だった。
 そしてこういう斬新さは、単に劇作の手法にかかわるものではない。20世紀演劇の忘れてはならない改革者のひとりアントナン・アルトーは、まだ20代の文章でメーテルリンクに讃辞を送っている。その名は「何よりもまずひとつの雰囲気をかもしだす」。「メーテルリンクの思想は、動く寺院のようなもので、その石がひとつひとつイメージを生み出し、ひとつひとつの石が教訓である」。「その思想には建築も形態もなく、厚みと、高さと、密度があるだけだ」。そして結論しているのだ。「メーテルリンクは膜を薄くした」。それは深い真実と、最高度の真実とを隔てる見えがたい膜であり、ある日人間の精神はそれをつきぬけることになるだろう。「残酷の演劇」を提唱したアルトーと「青い鳥」のメーテルリンクとのあいだに意外な接点が、確かにあったのだ。
 そういう接点は、クロード・レジの演劇によっても実現されてきたと思う。ときどきアルトーについて語ることもあるレジにとって、もちろんアルトーはただ演劇に見え透いた挑発や暴力や破壊を導いた改革者ではない。メーテルリンクについて「建築も形態もなく、厚みと、高さと、密度があるだけ」と書いたアルトーは、言語も演技も舞台空間もいちど解体して、精妙な生気の波動が行きかう場所として演劇を考えるようになった。
 クロード・レジが2010年静岡で演出した『彼方へ 海の讃歌(オード)』はフェルナンド・ペソアの長編詩を舞台作品にしたものだった。たったひとりの俳優のモノローグが、港の埠頭に立つようにして、世界の海を幻視する旅をその場で続けるのである。薄暗い光のなかで、フランス語の重厚な語りが、かなり無機的に構成された光と音とあいまって、ペソアの多重人格的な声と幻想を開放することに成功していた。アルトーによって植えつけられた演劇の夢が眼前に実現されたと思うことは数少ないが、私にとってレジの演出作品は、まちがいなくその一例である。

【筆者プロフィール】
宇野邦一 UNO Kuniichi
フランス文学者、批評家。立教大学映像身体学科教授。著書に『アルトー 思考と身体』(白水社)、『ジャン・ジュネ 身振りと内在平面』(以文社)、『映像身体論』(みすず書房)などがある。

【Waiting for Something】Waiting for Something を待ちながら(長島確)

 第二次大戦終戦後のフランスで、サミュエル・ベケットという人が、小説執筆の息抜きに芝居を書いた。『ゴドーを待ちながら』という題名で、1953年にパリのバビロン座で上演された。不思議な芝居で、タイトルロールのゴドーさんは登場せず、二人の男が木の下で待っているだけ。それが二幕にわたってくりかえされる。留学中この上演にたまたま出会い、のちにこの戯曲を日本に紹介することになる安堂信也によると、「一幕が終ったところで半分ぐらいの客は帰ってしまった。残った客は狭苦しい入口で二派に分れて口角泡をとばして言い争っていた。(……)芝居でも笑ったが、観客の議論が面白かった」という。
 ハムレットの出てこない『ハムレット』など考えられない。ふつうなら主役のはずの、不在のゴドーさんの正体は、さまざまな解釈をさそった。神、ゴッドのもじりだというのがポピュラーな意見で、だから二人の男は救済を待っているんだとか、あるいは逆に世界の破滅だとか、いやいやじつはツール・ド・フランスの選手なんだとか、いろんなことがまことしやかに語られた。ベケット自身、「わかっていたら書いている」といっていた。正体がなんであれ、大戦後の荒廃したヨーロッパで、けっして来ないゴドーさんを待つことには、たぶん圧倒的なリアリティがあった。ロラン・バルトの書いた記事を読むと、芝居はパリの観光名所さながらの人気で、一年半で約400回上演され、10万人の観客が見たらしい。「社会学的にいって、『ゴドー』はもはや前衛作品ではない。」
 「何も起こらない、しかも二度も」(新聞のレビュー)。その後この戯曲は世界中の演劇の地図を書き換えてしまった。なにより作劇の文法が変わった。こんなに自由でいいんだ、とたくさんの作り手がはげまされた。われわれの生きている世界そのものだ、と思った(たぶん)。日本でも別役実を筆頭に、転用やパロディも含め、この時期以降、影響を受けていない人を探すほうがむずかしい。唐十郎の『腰巻お仙』のラストなども、明らかに『ゴドー』が下敷きになっている。
 もうひとつ、大事なことがある。この戯曲でベケットは、〈事件〉ではなく〈状態〉をつかまえていた。時代や社会を、事件をとおして物語る演劇があるとしたら、それにたいして、状態を見せることで描く演劇がありえる。事件/行動ではなく、状態の演劇。どんな体で、どんな姿なのか。ベケットはシンプルで強烈なイメージと象徴性をもって、そういう演劇の道をこじあけた。地面に埋まって暮らす女の登場する『しあわせな日々』(初演1961)なども、そういう作品だといえる。
 どんな行動をするか、どんな事件が起こるか、ではなく、(われわれはいま)どんな状態か。『ゴドーを待ちながら』はそれを確認するのにうってつけの戯曲となった。1993年には、作家のスーザン・ソンタグが、民族紛争で空爆の続くサラエボで、地元の人々と上演した。さすがに二度もゴドーさんが来ないのは耐えられない、と、一幕だけの上演だったという。また2005年には、現代美術作家のポール・チャンが、超大型ハリケーン・カトリーナに襲われたあとのニューオリンズで、やはり地元の劇団と上演した。建物も木も根こそぎさらわれた、がれきだらけの下町地区の路上で、観客もいっしょにゴドーを待った。2011年8月には、日本のかもめマシーンという劇団が、福島第一原発の20キロ地点で上演を敢行している。
 ところで話は変わって、バブル崩壊後の日本では、中野成樹という演出家が〈誤意訳〉ということを始めていた。誤訳で意訳、ちゃんとした翻訳じゃありません、というのは一見謙遜のようでいて、じつは強い批評性をもっていた。海外の戯曲を、いまの日本に暮らすわれわれの体や声に落とし込むには、ふつうの翻訳の作法じゃ足りず、あえての誤訳や意訳が必要になる。言葉や文化の壁にけっこう誠実に向き合おうとすると、どうしてもそうせざるをえない。中野成樹+フランケンズ(通称ナカフラ)の活動は、いつもそこにふれていた。
 その中野成樹が、誤意訳ではなく創作で、もはや待つのもゴドーさんですらないところまで踏み出して、つくってきたのがこの作品。いまわれわれはどんな状態なんだろう。それに日韓共同のプロダクションで、われわれって誰だろう。

【筆者プロフィール】
長島確 NAGASHIMA Kaku
ドラマトゥルク/翻訳家。中野成樹らと組んで企画の立案からテキストの翻訳・構成まで幅広く。最近ではアートプロジェクト「アトレウス家」シリーズや「長島確のつくりかた研究所:だれかのみたゆめ」なども。

2013年6月8日

【脱線!スパニッシュ・フライ】飛んで、飛んで、飛んで――爆笑喜劇に込められた笑い(市川明)

 『脱線!スパニッシュ・フライ』はトランポリンを使った大跳躍芝居だ。奥行きのある舞台を十二分に利用して俳優たちは飛びまくり、そのたびに歓声が起こる。舞台奥から観客席に飛び込まんばかりにヘッドスライディングする俳優に、観客席は大いに沸く。軽い芝居のようだがちょっぴり社会性もある。
 演じるのはベルリンの代表的な劇団フォルクスビューネ(民衆舞台)。アレキサンダー広場から歩いて5分のところにある。フランク・カストルフが率いるこの劇団・劇場は昔も今も若者に優しい、若者の空間だ。東ドイツ時代からハイナー・ミュラー作品の上演をはじめ、常に演劇の新しい波を作り出してきた。『ペンション・シェラー』などで俳優として笑いを取り続けてきたヘルベルト・フリッチュが台本・演出を担当するのも注目だ。
 原題は”Die (s)panische Fliege”『スペイン(パニック)のハエ』。Sにカッコをつけて「スペイン」と「パニック」をかけたのはフリッチュのアイディアだ。原作の『スペインのハエ』は1913年に劇作家のフランツ・アルノルトと、作家兼俳優のエルンスト・バッハが共同で創作した笑劇である。上演では、バッハが演出を担当、アルノルトはバッハとともに俳優として出演し、大当たりを取った。フリッチュは忘れられたこの作品を百年後に再生させた。ストーリーは原作のままで、多くの動きをト書きで細かく指示した台本を書いた。俳優出身のフリッチュらしい、言葉と同じくらい身振り・身体を重視した台本だ。
 「スペインのハエ」から、女性用の媚薬を連想する人も多いだろう。これを飲むと性欲が増進し、男性からも恋されると宣伝されている薬だ。だがこの上演では、登場はしないものの「スペインのハエ」と呼ばれる魅力的なダンサーがキーパーソンとなっている。ヴォルフラム・コッホ演じるマスタード工場の社長ルートヴィヒ・クリンケは25年前、この踊り子と一夜の情事をした。子どもができたと言われ、それ以来、彼はずっと養育費を払い続けている。看板女優のゾフィー・ロイスが演じる妻のエマは、「母性保護同盟」の会長を務めている。マスタード色の袋袖の衣装で、道徳に厳しい女性として登場。彼女が大声で粗野に叫ぶたびに秘密がばれないかと夫はびくびくする。書類のファイルが手につかずお手玉する様子がスラップスティック風に演じられ、爆笑となる。
 エマが娘パウラの結婚相手と決めたハインリヒがやってくる。パウラを勝ち取るためには、彼女の父親を「パパ」と呼ぶことだと忠告され、実行する。クリンケは自分の隠し子が名乗り出たものと思い、大いにあわてる。抜けた青年を演じるバスチャン・ライバーはボケに徹し、かみ合わない対話が観客の笑いを誘う。だがよく聞くとクリンケの友人たちも養育費を払い続けてきたのだ。現れたハインリヒの母親マティルデは小柄で、大きな高さのかつらをかぶっているが、25年前のことでみんな顔も忘れており、彼女を「スペインのハエ」と思い込んでしまう・・・。
 舞台は隠し子騒動、「間違いの喜劇」の様相を呈してくる。舞台全面に大きな絨毯が敷かれ、そのくぼみのところにトランポリンが仕掛けられている。舞台後方が高くなり山になっている。トランポリンを使い、上に飛び乗ったり、そこから降りたりする。ドイツ語で”et. unter den Teppich kehren”( 絨毯の下に掃きこむ)は、「闇に葬る」というイディオムなのだが、トランポリンですべてが(ぴょんぴょん)明るみに出てくる感じだ。モーツァルトの歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』(女はすべてこうしたもの)の向こうを張り、「男はすべてこうしたもの」であることが示される。今でも妻の多くが夫のことについて語るとき、「うちの主人」という時代だ。男性中心社会に対するちょっぴり「からし」の効いた批判が、大爆笑の中でにじみ出てくるのだ。
 フリッチュは今や旬の演出家だ。マルチメディアアーティスト、映画監督としても知られる。2011年にはベルリン演劇祭のトップテンの2本に彼の演出が選ばれている。イプセンの『人形の家』とハウプトマンの『ビーバーの毛皮』だ。さらに2012年に『スペイン(パニック)のハエ』、今年の『ムルメル、ムルメル』と続く。大御所の演出家が落選する中で、彼一人気を吐いている。ラディカルな劇団のとがった(先鋭的な)演出が生み出す究極の笑いを、静岡で大いに楽しみたい。

【筆者プロフィール】
市川明 ICHIKAWA Akira
ドイツ文学・ドイツ演劇研究者、大阪大学教授。専門は、ブレヒト、ハイナー・ミュラーを中心とするドイツ現代演劇。1996年に演劇創造集団ブレヒト・ケラーを創立。代表としてドイツ演劇の翻訳上演を関西で続けている。NHKドイツ語講座講師としても著名。

2013年5月30日

【黄金の馬車】『「黄金の馬車」とメリメの再演劇化』(田之倉稔)

 1952年に製作されたルノワールの名作の誉れ高い映画であるが、最近になってまた再評価されているようだ。第二次世界大戦が終わってルノワールは亡命先のアメリカからパリにもどってきたが、フランス映画を作る機会にはめぐまれなかった。第一作目の『河』に続いてテクニカラーで撮ったのがこの作品だった。イタリア・フランスの合作。
 原作はメリメの『サン・サクルマン(聖体)の四輪馬車』という戯曲。『クララ・ガスルの演劇』に『デンマークのスペイン人たち』ほか6編とともに収められている。戯曲集は1830年に上梓されているが、その5年前「グローブ」という雑誌に発表された。メリメは自分の名を出さず、スペインのジブラルタルで出会ったガスルという女優の書いた作品という体裁にした。現在ではメリメが書いた作品として扱われている。彼はこの戯曲を「コメディー」ではなく「サイネーテ」と呼んでいる。「サイネーテ」とはスペインで生まれた「短いファルス」の呼称で、歌や踊りのはいることもある。18世紀ごろ南米でもよく演じられた。メリメ23歳のときの「若書き」の「軽い喜劇」だった。
 オッフェンバックもこの作品に目をつけて、オペラ・ブッフ『ラ・ペリコール』三幕を作曲している。ここでは女優はジプシー(ロマ)の、しがない歌手となっている。
 メリメは後年「歴史的記念物視察官」の職についてからは、僻地に埋もれていた文化財や歴史の調査に精をだした。だから史実を尊重し、小説もあまり虚構化しなかった。『カルメン』を読めばわかるとおりで、これもスペイン文化に精通していたメリメでなければ書けない小説であった。『四輪馬車』の原作に登場するカミーラもミカエラ・ビジェガスという実在する女優で、彼女と恋におちいるリマの総督も、1761-75年までその地位にあったマヌエル・エ・アマトという人物だった。六十歳近い初老の男と二十数歳の美しい女優との恋物語だった。ルノワールは映画化にあたって、メリメからなるべく離れようと考えた。その結果単層的な「サイネーテ」は重層的な「コメディー」へと変貌した。闘牛士ラモンや将校フェリペ、カミーラ-ヨーロッパからやってきた「コメディア・デラルテ」一座の女優-などを登場させたり、芝居の場面を再現することによって映画を豊かな「スペクタクル」に仕立てた。しかしルノワールはそれだけに満足せず、もう一つの意図を実現しようとした。それはメリメの原作をもう一つの物語で囲い込み、「メタシアター化」をはかった。こうして映画は原作を超え、エキゾチズムの時代からポスト・コロニアリズムの現代までを見通す視点をうちだした。
 クスコの戦闘で捕虜となっていたフェリペはリマにもどってこういう。「(インディオスは)野蛮どころか、彼らほど心のやさしい人々はいない。(中略)文明という、誠意も心もないものに、僕はおさらばするよ」(川竹英克訳)。カミーラは、闘牛士と総督よりフェリペを愛しているが、インディオスの社会へと向かうフェリペを追わない。カミーラは「あんな馬車いらないのよ」といい、その無用性をフェリペとともに認める。「権力の象徴」だった「黄金の馬車」とは「アナクロニズムの象徴」にかわってしまった。
 この時代のリマは、スペインの統治下にあった。総督は国王の代理として本国から派遣されていた。私はかつてこの地を訪れたことがあるが、大統領府の近くにインカ帝国を滅ぼした悪名高きピサロの騎馬像があったのには驚いた。いまやコロンブスさえ批判されているというのに! スペインのコロニアリズムは南米のネイティヴたちと文化を抹殺しようとした。ペルーはその最大の被害者だった。各地でインディオスの反乱が起こっていた。これを鎮圧しようとした総督府は多額の支出をよぎなくされ、財政状態は火の車だった。現代のペルーはピサロの影も追い払い、自立した国家となっている。映画では総督、ラモン、フェリペも消え去った。カミーラは女優という自己の立場をつらぬいた。座長のアントニオはいう「役者や綱渡りや道化や軽業師が(おまえの)仲間だ。幸福を、お前は舞台で見つける」。国家と演劇は等価であることを伝える。結局『黄金の馬車』のメッセージとは「メタシアター」に他ならなかったのである。
 宮城聰は18世紀リマを室町時代の日本に、「コメディア・デラルテ」を「田楽」におきかえ、「メタシアトリカルな構造」を表出しようとした。

【筆者プロフィール】
田之倉稔 TANOKURA Minoru
演劇評論家。1938年生まれ。東京外国語大学イタリア科卒。元静岡県立大学国際関係学部教授。1981年『イタリアのアヴァン・ギャルド―未来派からピランデルロへ』(白水社)でマルコ・ポーロ賞受賞。著書多数。

2013年1月8日

【ロビンソンとクルーソー】孤独な島はふたりに帰属する(大澤真幸)

カテゴリー: 2013

※作品内容に言及する箇所がございますので、事前情報なしに観劇を希望される方には、観劇後にお読みになることをお勧めいたします。

 ダニエル・デフォーのロビンソン・クルーソーは、ひとりで無人島にたどりつく。だが、イ・ユンテクの『ロビンソンとクルーソー』では、ふたりの男が別々に同じ小さな無人島に漂着する。
 『ロビンソンとクルーソー』のメッセージは明快で力強い。ふたりの男、ロビンソンとクルーソーは、それぞれ、韓国人と日本人を代表している。ふたりは、最初はいがみ合い敵対している。しかし、無人島で生き延びようとしているうちに、ふたりは、自然と協力しあうことになる。やがて、両者は互いを理解し、深い友情を――自分が助かることよりも相手のことを優先させるほどの深い友情を――はぐくむに至る。敵対しあっている韓国人と日本人が連帯することができるということ、ひとつになりうるということ、いやむしろ本来はひとつであったということ。この芝居は、あらためて、私たちに、これらのことを想い起こさせる。
 芝居は、ユーモアにあふれ、全体としてコミカルである。もの言わぬ(しかし踊る)猿二頭がときどき介入してくることを別にすれば、ロビンソンとクルーソーのたったふたりしか登場しないが、芝居は、韓国語と日本語の二言語を交錯させながら、ときに観客を巻き込み、いくつものエピソードを組み込みつつ、躍動感あふれる展開を遂げる。大いに笑った後、観客は、ラストのシーンに思わず涙を流すだろう。
 『ロビンソンとクルーソー』は明快なので、その中心的な主題を読み間違うことはまずありえないが、深く理解するためには、歴史的な背景を知っておく必要がある。1910年に、日本は韓国(当時は朝鮮半島全体)を併合(植民地化)した。その5年前(1905年)に、日本は、隠岐諸島の北西157キロにある小島、日本で「竹島」、韓国で「独島(トクト)」と呼ばれている無人島を自らの領土と定め、島根県の所属としていた。日本と韓国の間の諍いの源には、これらの出来事がある。
 日本の植民地支配は、日本が敗戦した1945年まで続く。『ロビンソンとクルーソー』は、1945年8月16日から始まるが、それは、日本の敗戦が国民に告げ知らされた日の翌日、したがって日本の韓国に対する植民地支配が事実上終わった日の翌日だということになる。
 植民地支配は終わったが、日韓の間には、今日に至るまで多くの問題が解決されずに残っている。たとえば歴史教科書の問題がある。両国の標準的な歴史認識の中で、植民地支配の評価はもちろんのこと、文禄・慶長の役の意味の解釈等において、多くの不一致がある。また、ほかならぬ無人島、竹島=独島がどちらの国に帰属するのかという問題は、現在の日韓関係における最大の懸案である。
 加えて、朝鮮半島に残る最大の不幸、すなわち南北の分断は、日本による韓国併合に由来していることを忘れるべきではない。終戦時、朝鮮半島は日本領であった。そのために、連合国の信託統治の対象となり、その際、北をソ連が、南をアメリカが支配したのが、分断の原因である。いわば、日本が他者(韓国)を併合したことが、その他者の分裂を招いたのだ。
 だから、韓国と日本は、無人島にたどり着いたばかりのロビンソンとクルーソーのように仲が悪い。しかし、『ロビンソンとクルーソー』は、両者が仲違いを克服して連帯しうること、対立を越えて一体化しうることを示唆している。無人島を竹島=独島に重ねたとき、日韓両国の人々はひとつの希望を見るだろう。
 このように日韓の歴史的背景に関係づけると、この芝居の固有で特殊な意味を取り出すことができるが、これをデフォーの『ロビンソン・クルーソー』と対比すると、今度は、人間についての普遍的な洞察を導きだすことができる。『ロビンソン・クルーソー』は、ひとりであることについての、つまり極限的な孤独についての物語である。あえて、この孤独の物語を下敷きにして、『ロビンソンとクルーソー』というふたりについての物語、ふたりがひとつになりうることについての物語が創られていることに留意すべきである。そうすると、単独者(「ロビンソン・クルーソー」)が、他者との葛藤を媒介にして高次の統合(「ロビンソンとクルーソー」)へと至るという弁証法的な過程を思い描くことができる。
 『ロビンソン・クルーソー』の主人公クルーソーも、他者と遭遇しないわけではない。フライデイがその他者である。しかし、クルーソーは、フライデイを野蛮人と見なし、奴隷のように扱う。これは、大英帝国による植民地支配の隠喩である(ここで、もう一度「韓国併合」のことを想い起こしてもよい)。フライデイは、クルーソーにとって対等な他者ではないがゆえに、その孤独を癒すことはできない。
 家造りのエピソードを対照させてみるとおもしろい。『ロビンソン・クルーソー』で、主人公は、他者の――人食い人種の――侵略を恐れて、深い洞窟のような家を造る。彼は、その中に、フライデイすら入れない。洞窟への引きこもりは、クルーソーの孤立を際立たせている。それに対して、『ロビンソンとクルーソー』では、ふたりは協力して一つの家を建てる。家は、連帯の象徴である。『ロビンソン・クルーソー』で、クルーソーは、あまりに深く穴を掘り過ぎて、最後に、洞窟が山の反対側に突き抜けてしまう。深く内側に退却したことで、かえって、外への孔が開いてしまったのだ。外へと、他者へとつながるその孔の意味を継承し、ふたりについての物語を創れば、それが『ロビンソンとクルーソー』になる。
 『ロビンソンとクルーソー』は、韓国語の「助けて」の叫びから始まる。ラストで、クルーソー(日本人)の無言の叫び、ひとり無人島に残ったクルーソーの助けを求める無言の呼びかけに応ずるように、ロビンソン(韓国人)は、無人島に帰ってくる。冒頭の韓国語の「助けて」は虚空に向けられている。しかし、最後の日本人の「助けて」という想いは、声に出されていないのに韓国人にしっかりと聞き取られている。他者の呼びかけを鋭敏に感知し、これに応答すること、そこに真の連帯のための基礎がある。

【筆者プロフィール】
大澤真幸 OHSAWA Masachi
SPAC文芸部員。社会学者。千葉大学教授、京都大学大学院教授を歴任。著書に『社会は絶えず夢を見ている』、『〈世界史〉の哲学』古代篇・中世篇、『夢よりも深い覚醒へ――3.11後の哲学』等。思想誌『Thinking「O」』主宰。

2012年11月11日

【ロミオとジュリエット】ロミオとジュリエットは、笑いから悲しみへ向かう(河合祥一郎)

カテゴリー: 2012,秋のシーズン

 オマール・ポラスの稽古場に立ち会って、彼の才能を確信した。付け耳・付け鼻やユニークな衣装を用いるオリジナルな演出は『ロミオとジュリエット』前半の喜劇性を効果的に強調するものであり、こんな突飛なアイデアはよほど深く作品を理解してないと出てこないからだ。ロマンティックな美しい影絵に目を奪われることになるが、これも喜劇性とのコントラストがあればこそ、一層効果的になっている。
 前半の喜劇性というのは、この作品の重要なポイントだ。『ロミオとジュリエット』がシェイクスピアの四大悲劇(『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』、『マクベス』)のなかに入らないのは、この喜劇性ゆえだと言ってもいい。マキューシオや乳母が下ネタ満載のジョークを連発し、前半は悲劇どころか笑劇のようでさえある。
 実際、前半はロミオとジュリエットが出会って恋に落ちるのが話の大きな流れなのだから、悲劇的な要素はほとんどない。むしろわくわくする楽しい展開だ。事態が変わるのは、マキューシオが殺され、ロミオがティボルトを殺してしまう時点からだ。血が流れ、急転直下、ロミオは追放。笑いは凍りつき、悲劇へと変わる。喜びを期待しているときの悲しみほど衝撃的なものはない。だからこそ、『ロミオとジュリエット』はドラマティックなのだ。名作と呼ばれるものには、そのように後半で急に悲劇に転ずるものが多い。『オイディプス王』しかり、『リチャード三世』しかりである。
 ただし、四大悲劇はそのようには書かれていない。ハムレットは最初から嘆きながら登場するし、リア王はのっけから最愛の娘を追放してしまう。さらに言えば、四大悲劇の主人公たちは運命の矢弾を耐え忍び、おのれの力で憤然と運命と戦おうとするところがドラマの核心となっているが、ロミオとジュリエットの場合は「不幸な星の恋人たち」(star-crossed lovers)であり、「ああ、俺は運命にもてあそばれる愚か者だ」とロミオの台詞にあるように、運命と対決することがなかなかできない。ティボルトを殺して追放になってしまったロミオがロレンス神父のもとへ逃げ込んで泣き叫び、「女々しい」と神父に叱られるところなどは、まったく悲劇の主人公らしくない。そんなロミオもジュリエットの訃報を聞くと、「ならば、運命の星を敵に回して戦おう」と叫ぶ。この時点で真の意味での悲劇が始まるのだ。
 四大悲劇はシェイクスピアの「悲劇時代」(1600~1606年)に書かれているが、『ロミオとジュリエット』はそれよりもずっと早い「初期喜劇時代」の作品だという点も見逃せない。具体的には1594年から1596年のあいだ。初期喜劇とは、『恋の骨折り損』、『間違いの喜劇』、『じゃじゃ馬馴らし』、『夏の夜の夢』などだ。
 喜劇時代の作品であるため、道化の活躍も大きい。乳母の召し使いピーターは、当時の道化役者ウィリアム・ケンプが演じたことがわかっている。乳母自身もかなり道化的だ。
 観客を楽しませる乳母は、ジュリエットの心の友でもあるから、そんな「大事なばあや」が、「ロミオなんて忘れてパリス伯爵と結婚なさい」などと言うとき、ジュリエットのショックは大きい。
 ジュリエットはすでにロミオと結婚しているので、乳母が勧めているのは二重婚である。キリスト教では許されない恐ろしい罪であるから、ジュリエットは「心からそう言っているの?」と問い、「ええ、魂から、でなきゃ地獄落ちになります」という乳母の答えに「そうなりますよう」と返すジュリエットは真剣だ。泣いてばかりだったジュリエットは、このときになって泣くのをやめて決然と立ち上がる。そして、真の悲劇のヒロインへと歩み出すのである。あとは運命の導くままエンディングへ。
 なお、ポラス演出では(少なくとも稽古の時点では)ジュリエットの死とともに幕を下ろすエンディングとなっているが、これはバレエではおなじみの演出である。

【筆者プロフィール】
河合祥一郎 KAWAI Shoichiro
東京大学教授。専門はシェイクスピア、表象文化論。角川文庫よりシェイクスピア新訳を刊行中。著書に『ハムレットは太っていた!』(白水社、2001)ほか。共同台本執筆をした『家康と按針』(市村正親主演、グレッグ・ドーラン演出)が今年12月東京・神奈川再演、来年新春ロンドン上演予定。

2012年10月17日

【病は気から】演じる喜び=生きる喜び!? モリエール&シャルパンティエ『病は気から』について(秋山伸子)

カテゴリー: 2012,秋のシーズン

 『病は気から』はモリエール最後の作品である。アルガン役を演じたモリエールは、4回目の公演を終えた後、自宅で息を引き取った。自分は病気だと信じ込む男の役を演じたモリエール自身が病に苦しんでいたという皮肉な状況にあったことが信じがたいほどに、この作品には病を跳ね返すほどの生命力が、生きる喜びがあふれている。
 モリエール作品では、多くの人物が「演じる」喜びに身を委ねる。『町人貴族』においては、貴族に憧れる主人公が自ら貴族の役を演じることで、深い満足感を得る。アルガンもまた、自ら医者に扮し、その役を演じることで病の呪縛から解放される。音楽とダンスの力がみなぎる儀式のうちにアルガンは医者の学位を授けられ、舞台全体が言い知れぬ至福感に包まれて芝居は終わる。
 処方された薬の代金を勘定するアルガンの独白で幕を開けるこの芝居において、薬漬けのアルガンの「病気」のもう一つの治療法、伝統的な医療や薬に頼らない治療法としてまず提案されるのは、芝居を見ること、とりわけ、モリエールの芝居を見ることである。だが、それ以上に効果的な治療法として示されるのが、アルガンを医者にするための音楽とダンスのスペクタクル(一種の音楽療法とでも言えようか)である。即興のこのお芝居でアルガンはじつに自然に生き生きと演じているのだが、その素養の一端は、自らの死を演じてみせる場面にすでに垣間見える。
 妻がどれほど自分を愛してくれているかを再確認するためにアルガンは自らの死を演じてみせる。むろんこれは、アルガンの財産を狙う後妻のたくらみを暴くために小間使いがこの演技に誘い込むのだが、死んだフリをするという演技によって妻の本心を知ることができたことに味をしめたアルガンは、この直後、今度は娘の本心を確かめるため、またしても自らの死を演じてみせる。妻相手の演技に入る前には、「死んだフリなんかして危なくないかな?」とためらっていたことが嘘のように、再び演技の喜びに身を委ねるのである。
 アルガンばかりでなく、小さな子供でさえも、演技の喜びには逆らえない。父親の怒りをかわすため、幼い娘は死んだフリをする。これを見るやアルガンは動転して嘆き悲しみ、自らが素朴で信じやすい観客であることを示すのだが、「ねえパパ、そんなに泣かないで。あたし本当に死んじゃったわけじゃないのよ」という娘の言葉に胸をなでおろす。
 恋の障害に直面した若い恋人たちは即興のオペラに託して互いの想いを伝え合い、その自由奔放な生命力の前に、医者の息子トマ(今回の上演では「トーマス」、以下同様。)の融通のきかない硬直化した言葉は敗れ去る。丸暗記した言葉を機械的に繰り返すことしかできず、アンジェリック(アンジ)への贈り物として医学論文を差し出し、(お芝居にご招待とかではなく)ある女性の死体解剖にご招待しましょうと申し出る珍妙な求婚者トマに対し、クレアント(ケロッグ)は音楽の先生に変装し、アルガンやトマの前で即興オペラをアンジェリックとともに歌ってみせる。「恋するふたりがやむにやまれず、自ら沈黙を破り、その場の気持ちに任せて語り合う様子を歌にした」この即興オペラは、ヒロインの悲愴な決意(意にそまぬ相手と無理やり結婚させられるくらいなら死を選ぶという)を歌い上げ、これを見た観客アルガンの反応を引き出す。「で、これに父親は何と言うんだね?」ナイーヴな観客としてこの「けしからんオペラ」に対して激しい拒否反応を見せたアルガンが、一線を踏み越えて、見る側から演じる側へと身を移し、自らの死を演じてみせるとき、そこに新たな地平が開かれる。
 死は再生につながり、アルガンは自らの演技による象徴的かつ通過儀礼的な死を通して、自分を取り巻く人たちの本心を知り、新たな人生の可能性に目覚める。最後にアルガンを医者にする儀式でコーラスが歌い上げるのはまさに横溢する生への賛歌にほかならない。マルク・ミンコフスキ指揮、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルによるもの、ウィリアム・クリスティ指揮、レザール・フロリサンによるもの(ともに1990年)、どちらのCDもそれぞれ味のある演奏で、はじけんばかりの生きる喜びをたたえたシャルパンティエの音楽を聞かせてくれる。

【筆者プロフィール】
秋山伸子 AKIYAMA Nobuko
青山学院大学文学部フランス文学科教授。『モリエール全集』全10巻(臨川書店、2000-2003年)の翻訳により、第10回日仏翻訳文学賞受賞(2003年)。論文「宮廷祝祭における王の姿」(『身体のフランス文学』京都大学学術出版会、2006年、所収)等。

2012年9月25日

【夜叉ヶ池】夜叉ヶ池伝説(小松和彦)

カテゴリー: 2012,秋のシーズン

 泉鏡花の戯曲『夜叉ヶ池』は、九頭竜川の支流日野川の水源となっている「夜叉ヶ池」にまつわる伝説から発想を得た作品だとされている。
 作品の舞台は、越前国大野郡鹿見村琴弾谷ということになっている。しかし、大野郡には鹿見という村はなく、南条郡にある。現在は福井県南条郡南越前町今庄地区(旧今庄町)に含まれている。金沢生まれの泉鏡花が耳にした夜叉ヶ池伝説は、おそらくこの今庄地区で語られた話ではなかろうか。
 たとえば、この今庄地区には、次のような伝説が伝えられていた。
 
 夜叉ヶ池に蛇が住んでいて、娘と母親が住んでいる家へ、蛇が男に化けて通った。娘がしだいに痩せてくるので、母親が心配して尋ねてみると、娘は「男が台所の水を流す口から来るのだ」と言った。そこで、夜、男が娘のそばで眠っている間に、男の着物の襟に、大針で麻の糸を縫いつけ、翌朝、糸をたどって行くと、夜叉ヶ池に着いた。そこで蛇が大暴れして死んでいた。その後、娘を熱い菖蒲湯に入れると、蛇の子をたくさん堕した。

 この種の話は特段珍しいものではなく、伝説というかたちをとったり、昔話というかたちをとったりしながら全国各地に広く分布している「蛇聟入」型の話である。もっとも古いこの種の話は、記紀神話に見える「三輪山」(奈良県の三輪神社起源)説話である。

 美しいタマヨリビメのもとに、容姿端麗な男が夜ごとに訪れ、ヒメは妊娠する。両親は男の素性を知ろうと、娘に麻糸を通した針を男の衣の裾に刺すように教える。夜が明けて、その糸をたどっていくと、三輪山の神社に至った。そこで両親は、男の正体が三輪の神(蛇の姿をしていると考えられていた)であることを知った。ヒメが生んだオオタタネコは、三輪の神を祀る神主となり、その子孫が鴨氏や三輪氏である。

 比べてみればわかるように、上述の夜叉ヶ池伝説が三輪山説話の変異形であることは、明らかである。しかし、両者の間には、大きな違いがある。それは結末部分で、現在の蛇聟入型の説話では、娘が生んだ子は蛇の姿をしており、人間世界から排除されているのに対して、タマヨリビメの生んだ子は人間の姿をしており、母に育てられて、古代の神職系豪族の祖となっていることである。
 この違いは、一言でいえば、古代から近代に至る時代の流れに応じて、神格化された蛇への信仰心の衰えの結果ということになるわけだが、その過程にはさまざまな信仰・伝説の段階があったと推測される。そしてまた、夜叉ヶ池伝説についても、その伝承の分布やその伝承内容をくわしく見ていくと、そのことがわかるだろう。
 夜叉ヶ池は越前国(福井県)・美濃国(岐阜県)・近江国(滋賀県)の境界域をなす山系に位置している。そのこともあって、山麓の地域には類似した内容の伝説が分布している。これらのなかには、「夜叉ヶ池」の名前の由来として、源義朝の子の夜叉御前の魂魄が宿った池であるとか、夜叉になった女が住み着いた池だとか、池の主が夜叉麿という名であったといったことを語り込んでいるものもある。
 ところで、これらの伝説を眺め渡して気づくのは、もっとも伝説が濃厚に分布しているのが美濃国の安八(あんぱち)郡であって、しかもその地域の伝承では、蛇の嫁となった娘の家を「長者」とか「大地主」と語り、さらにもっと具体的に「安八大夫」とか「安八大官(代官)」という者の家にまつわる伝承として語られているのである。さらには、近江の夜叉ヶ池伝説でさえも、その多くが安八郡の長者にまつわる話であると語っているのである。このことは、夜叉ヶ池伝説の発祥地が美濃国安八郡であったことを物語っていると言えよう。
 では、このあたりの夜叉ヶ池伝説は、どのような話なのだろうか。たとえば、『揖斐川町史』には、次のような話が載っている。

 平安時代のころ、安八郡安次(やすつぐ)というところに住む長者安八大夫は、日照りに苦しんで、自分の娘を嫁にくれてやるから雨を降らせてほしいと、蛇(夜叉ヶ池の主)に頼んだ。雨が降った翌日、蛇は山伏に姿をやつしてやってきて、長者の娘を一人連れて、夜叉ヶ池に帰った。ところが、この蛇には本妻がおり、夫が新しい妻を連れてきたことに怒って白石山に籠もり、そして里帰りする途中の新しい妻の上に八丈もの大岩を落として押し潰そうとした。しかし、岩は現在の場所に止まって成功しなかった。このため本妻はこの岩の下に隠れ住むようになり、そこには今でも深い穴があいている。また、安八大夫の子孫が雨乞いのために、夜叉ヶ池に行くときは、けっしてこの八丈岩の下は通らないという。

 この話では、今庄地区の話とは異なり、雨を降らしてもらった見返りとして娘をすすんで差し出したためだろうか、長者の娘はすすんで蛇の妻となって嫁入りし、池のなかで生活するようになり、蛇を厳しく排除していないのである。しかも、その子孫は、その縁で、雨が降らないときには、先祖が嫁入りした夜叉ヶ池に雨乞いに行っていた、というのである。さらには、「後妻(うわなり)妬み」の話まで入り込んでいるのだ。
 私たちは、この伝説から、もしかして、この伝説の背後には、雨乞いのために娘を生贄(いけにえ)に差し出す、という慣習があったのではないか、雨乞いをする特別な家筋があったのではないか、ということを推測することができるのではなかろうか。
 もっとも、かつて夜叉ヶ池に雨乞いのために生贄を出した、というたしかな記録も伝承も伝えられていない。だが、まことに興味深いことに、民俗学者の高谷重夫氏の調査によれば、右の伝承で語られている「安八大夫」の子孫と称する家が実際にあり、近世には、安八大夫の子孫ということで、安八大夫の書状をもって夜叉ヶ池に赴いて祈祷をすると必ず雨が降ったという。すなわち、右の伝説はこの家にまつわる伝説なのであった。
 それでは、この家は誰の家なのだろうか。この家は岐阜県安八郡神戸(ごうど)町の安次にある石原家であって、「安八太輔由緒申伝之記(あんぱちたすけゆいしょもうしつたえのき)」と題する文書を所蔵し、その文書には神戸町の氏神日吉神社との特別な関係が語られているのである。つまり、中世以降、石原家はこの地域の豪族・長者として名を知られるようになったが、もともとは氏神の神主・司祭者であったらしいことが示唆されているのである。
 こうした家とその伝承の構造は、すでにみた三輪氏や鴨氏の祖をめぐる伝承とほぼ重なっていることがわかるはずである。つまり、「三輪山の神」を「夜叉ヶ池の主」に置き換え、「妻問い型」の婚姻を「嫁入型」の婚姻に、「三輪の司祭者の家筋」を「石原家」に換えることで、夜叉ヶ池伝説は作られているのである。
 こうした美濃側の伝説に照らして、鏡花の『夜叉ヶ池』を読み直すと、「鐘楼守(萩原晃)」が「石原家」であり、「生贄(萩原の妻)」は「安八大夫(もしくはその子孫)の娘」に相当するのかもしれない。
 しかし、鏡花がはたしてこうした美濃側の夜叉ヶ池伝説を知った上で、この作品を作ったのかということになると、疑問が残るだろう。というのは、『夜叉ヶ池』では、雨乞いのための生贄としてだけではなく、洪水を防ぐための生贄という構想になっているからである。むしろ、洪水と生贄という関係に着目すれば、池の主(蛇)との約束を破ったためとか、山の木を伐りすぎて神を怒らせたためとかで洪水が起こったといった内容の、「蛇抜け」の伝承に目を向ける必要があるだろう。
 いずれにしても、『夜叉ヶ池』という作品に私たちが感じる神秘は、池の主が竜神(大蛇)であり、その竜神が「神」の末裔であり、また選ばれた「人」(神の嫁・巫女)の末裔でもあり、しかも洪水や日照りを起こす力をもっている、ということにありそうである。
 私はさらに、こうした伝承や鏡花の作品に、人間と自然との厳しい関係の痕跡を見出すとともに、環境破壊を繰り返す現代人への警鐘も読み取りたいと思っているのだが、それは深読みし過ぎだろうか。

【筆者プロフィール】
小松和彦 KOMATSU Kazuhiko
国際日本文化研究センター所長。専門は文化人類学、民俗学。著書に『妖怪文化入門』(2012年、角川ソフィア文庫)ほか多数。

2012年7月17日

【Nameless Voice――水の庭、砂の家】考える前に、観る前に(古川日出男)

カテゴリー: 2012

 Noism というカンパニーがその作品を成り立たせるために「不可欠」としている要素は、わずかに2つしかない。誰もが思いつける最小単位の2つだ。すなわち肉体と劇場。このうち、ダンスであるならば前者は必須だ、と即答できる。面白いのは後者で、そこが劇場であることを忘れることがこのカンパニーにはない。結局のところ、それは「Noism の芸術監督である金森穣には、ない」と言い換えられる。
 舞台芸術とは何なのか。
 それは当たり前のように、金森さんに問われつづけているのだ。
 しかし問うためにはツールが要る。どんなツールか。「舞台に立てるダンサー」がその回答だろう。踊る才能というものは、持てる者は持てる。だから優秀なダンサーはいかなる場所(現実の土地、現実の所属、アマチュアかプロフェッショナルかの区分)でも見出しうる、のだけれども、しかし全員が舞台に立てるわけではない。劇場とは異様な空間だ。その異様さは、「そこが異様である」と本能で感じ取っている人間にしか、解析しえない。だが舞台に憑かれて「それを(わざわざ)観たい」と思う人間は――私やあなたのような観客は――そこが普通の空間ではないから足を運んでいる。つまり日常を超える場としての、劇場。
 そこに、誰が立てるのか。
 このことは Noism の設立以来、シビアに問われている。訓練というもの、肉体への眼差しというものが、彼らに蔑ろにされることはない。ただし、ここまでは最小単位の2つ、ただの「不可欠」の要素でしかない。さらに要素は、足される。肉体と劇場はある作品を成立させるためのマトリックスでしかないのだから。照明であれ衣裳であれ音楽であれ、そうしたものも「付け足し」とはならないのが Noism(の作品群)だ。が、それ以上に金森さんのイメージというのがある。劇場があり、肉体があり、そこに作品のためのイメージ――または複数のイメージ、イメージ群――が掲げられて、そこから出発する。
 たとえば、今回の『Nameless Voice』でいうならば、ひとつには水。「水で何かを作れ」と言われたら、人は、水そのものを描出しようと足掻く。しかし、こう考えてほしい。本来水があるべき場所に、水がないとしたら、人はそこに水を連想するのではないか、と。そしてこの作品の冒頭には、まさに「水があるべき」何物かが大量に登場して(そして、それ/それらの内側には水がない)、イメージの圧勝といったものから発進する。題名にある Voice に関してもそうだ。声はある種、ダンス公演にとっては飛び道具で、それだけでメッセージ性を持ってしまうわけだが、しかし声があることで「声があるべき」何事かが連想されつづけるだけだとしたら。それだけだとしたら。すなわち、強烈に「ない声」=無声が意識されるのだとしたら。
 そもそも Noism を鑑賞するのに、じつは作品のコンセプトの理解やメッセージの咀嚼は、不要だ。演題やあるいはパンフレット掲載のさまざまな文章がメッセージらしきものを呈示するが、しかし、そこにある「主題」というものは作品ではイメージの屹立という形でしか表われない。それがわざとなのか無意識になのかは不明だが、金森さんは結局、メッセージなど届けていない。それらはイメージ群に転位されて、私たち観客に求められるのは、せいぜい「考えろ。答えはない」ということだけ。しかも、ここが Noism のすばらしさなのだが、私たちはじつは考えることすら必要ない。なにしろ、まずは感じなければならないからだ。イメージを感受すること、味わうこと。劇場と肉体という「不可欠」のプリズムにさらに多数の屈曲/分散のために要素を足して、私たちは「感じろ」と求められつづける。
 素敵な要求ではないか。感じろ、それから考えろ。答えなど出さずに、また観ろ。
 では、観よう。

【筆者プロフィール】
古川日出男 FURUKAWA Hideo
1966年福島県生れ。作家。98年に『13』で小説家デビュー。2002年『アラビアの夜の種族』で日本推理作家協会賞と日本SF大賞、06年『LOVE』で三島由紀夫賞を受賞。その他に『ベルカ、吠えないのか? 』 、『聖家族』等、著書多数。