2012年6月2日

【マハーバーラタ~ナラ王の冒険~】『マハーバーラタ』とサイコロ賭博と宮城聰の<危険な関係>(船津和幸)

 インドの誇る大叙事詩『マハーバーラタ』は世界の出来事はすべてここに含まれていると豪語する。それもそのはず、メインのプロットは全体の5分の1ほどで、残りは、聖者が主人公たちに教訓的に語ってきかせるという形で、多彩な挿話が入れ子式に展開されるからだ。聖典『バガヴァッド・ギーター』も、閻魔を手玉に取る「才女サーヴィトリー物語」も、そして吃驚仰天、もう1つの大叙事詩『ラーマーヤナ』までも取り込んでいる。べらぼうな物語だ。「ナラ王物語」はその中でも一際ドラマチックな劇中劇である。
 『マハーバーラタ』本筋では、善玉の長兄ユディシュティラは、いかさま賭博に嵌められ、一旦は、王国ばかりか自分も含めて5兄弟、愛する共通の妻ドラウパディーまでを賭で失うが、最終的には全員が13年間の放浪生活を強いられる。落ち込む彼を慰めるために語られるのが、やはりサイコロ賭博で負けて王国から追放されるが、最後はめでたしめでたしの、ナラ王とダマヤンティー姫の物語だ。
 インド人のDNAには、どうやら「サイコロ賭博好き」遺伝子が書き込まれているようだ。インダス文明遺跡からは、今のと同じ!1の目の反対側が6の目であるサイコロが発掘されているし、最古の聖典『リグヴェーダ』には、サイコロ(ヴィビータカ樹の実)賭博に狂って女房に捨てられる哀れな男の歌もある。また『マヌ法典』には「悪徳の中で酒と賭博と女と狩猟は最悪」、「賭博者は追放せよ!」と再三繰り返され、思わずニヤリとしてしまう。ギャンブルのスリルとサスペンス、絶望と逆転勝利の快感は一度味わうと病みつきとなる。そして演劇も…。
 この「ナラ王物語」において、ナラ王に取り憑く魔王「カリ」とは、サイコロで最悪の「1の目(カリ)」のアバター(権化)であり、末法「カリ」の憑依である。『マハーバーラタ』では、博打すら時代精神の賭なのである。むむ、スケールが違う。
 インド古代のバラモン祭式は、何日間も続く演劇的な一大パフォーマンスであった。呪文集『アタルヴァヴェーダ』担当のバラモンの監督下、僧侶らは、神々への讃歌集『リグヴェーダ』を朗唱し、歌曲集『サーマヴェーダ』を歌い、祭詞集『ヤジュルヴェーダ』に規定された芝居がかった所作で儀式を執り行う。
 インド演劇の最大権威書であるバラタ仙人作『演劇典範』(ナーティア・シャーストラ)には演劇の起源神話がこう語られている。神々は、創造神ブラフマーに演劇のヴェーダを所望した。ブラフマーは「おやすいご用じゃ」とばかり、リグヴェーダ朗唱から台詞術を、サーマヴェーダ歌唱から音楽を、ヤジュルヴェーダ所作から演戯術を、そして人の魂を操るアタルヴァヴェーダ呪法から観客の情調(ラサ)操作を抽出し、それをバラタに伝授したとある。
 ヴェーダの言葉は言霊(ブラフマン)であり、語られてはじめて呪力を発揮し、存在は存在者となるのである。聖書の「光よ、あれ!」のロゴスである。しかし存在者はロゴスに反逆を試みる。存在者としての身体は、感情・パトスに揺り動かされ衝動的に踊り出すのである。だから人は感極まると小躍りするのだ。
 ブラフマーから演劇を伝授されたバラタは、舞踏王シヴァの面前で演劇を披露するが、「舞踏が欠けてる!」と一喝され、宇宙をも破壊するといわれる舞踏ターンダヴァをシヴァから伝授されたという神話は、パフォーマンスの本質を説き明かす。と書きつつ、アッと声を上げてしまった。これはそのまま、スピーカーとムーヴァーが、ロゴス・パトスの緊張関係の中でせめぎあう「宮城演出」の本質ではないか!
 「ナラ王物語」という響きは、昔難解なサンスクリット語に苦しんだ者にはノスタルジーである。文法を終え最初に挑戦するのが、ランマン編「サンスクリット読本」で、その冒頭が、「聖者ブリハッドアシュヴァはかく語りき」で始まるこの「ナラ王物語」であった。ナーガリー文字解読と文法解釈に苦悶し内容などは「あっち向け、ホイ」、まことにシュールな訳文を徹夜ででっち上げたものだった。この物語が、エロスあり、悪魔憑きあり、賭博あり、変身譚ありの、絶世の美女ダマヤンティーの波瀾万丈のファンタジーであることを味わったのは、ず~っと後で再読した折であったことをそっと告白しよう。これからサンスクリット語を、と考えている方は幸せである。魅惑的な宮城編「演劇版サンスクリット読本」から入門できるのであるから。

【筆者プロフィール】
船津和幸 FUNATSU Kazuyuki
信州大学人文学部教授、インド芸術論
最近は『マハーバーラタ』に魅せられて、国際交流基金プロジェクトでインド人演出家を招聘し、学生とのコラボで、バーサ戯曲『腿を砕かれた、難敵ドゥルヨーダナ王』(2009)、『エーカラヴィヤの親指』(2010)を松本で制作上演。今年9月にインドで『腿を打ち砕く』(シャンカル・ヴェーンカテーシュワラン氏新演出)を上演予定。